今日は一段とお寒うございます。いつもお読みいただき、ありがとうございます
さて、バレンタインの日に再訪した興国寺墓地に和泉家の墓があり、
気になって撮った写真が、
2018年にブログにいただいたコメントと繫がりました!
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これは、2018年11月の「知覧のぼっけもん」さんのコメントから、曽祖父の養母・「於須賀」の最初の夫、「島津(務)久命」の墓ではないかと!
「久命」(ひさ…のり?)という名前、例によっていろんな家に同じ名前があるのですが、この「和泉家」は「今和泉島津家」に繋がる家だし、ということで撮っておいてよかった♪
でも、久命の隣の「和泉イマ子」様って、もしかしたら於須賀様と離縁した後の奥様なのか知らん?
手前の「篠崎」という姓にも興味を惹かれる。
名越彦太夫高房(名越氏初代・恒渡(つねただ)の弟の5代目子孫)の次男・が、母方の実家の養子に入り「篠崎仲苗(通称:彦十郎)」となっているらしいのです。
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篠崎仲苗(彦十郎)との関係はわかりませんが、鹿児島でというか私の周りでは「篠崎」という姓は珍しいと感じるので、何か繋がりがあるかな?と思った次第。
↓画像中央より右寄り、「和泉家祖先累代之墓」と墓石台座側面には丸十文字の家紋
画面左の墓石には「日下部朝臣昌祥大人之墓」とありますが、関連がわかりません。
↓「島津蔵人久名 [性善院殿忠山義光大居士] (明治10年7月8日卒)」の墓もありました。
「明治十年七月八日」と言うことは、西南戦争に関連する?
「島津蔵人久名」‥‥調べたら「忠喬」の弟で「島津蔵人家」(今和泉島津家二男家)樹家の方のようだけど、「安政三年九月十六日卒」とあった。この辺りのことはよくわかりませんが、まぁいいか。(「島津家家臣団系図集」下巻参照)
「和泉久命之墓」の隣の墓石の
水入れにある家紋?がお花のようで可愛かったので撮影♪ 十字を模した感じではある。
寛政年間(1789~1801年)の方のもので「寛政四年壬子」「法◯院殿仙譽◯快(?)庵主」とあります。
寛政年間(1789~1801年)の方のもので「寛政四年壬子」「法◯院殿仙譽◯快(?)庵主」とあります。
寛政四年は1792年ですね。
以上、FBにアップしたものを再構成して書きました