当ブログへ初めてご訪問の皆さま、また日頃からお読みくださっている皆さま、ありがとうございます
投稿は先月26日以来になりますが、その2日前の夕刻、庭作業中ブヨにより右足首をやられて、翌日土曜日には赤く腫れてしまい、薬を塗って腫れは引いたものの、薬の成分が合わなかったのか塗布による後遺症なのか、赤班が出てしまい、結局は皮膚科で診てもらって薬を塗っていますが、未だに治りきっていません‥‥(-.-;)
気を取り直して、続きを書いていこうと思いますので、どうぞご笑覧ください。
今回は祖父の二人目の妹について、です。
前回の「ヤサ」さん(明治22年生まれ)の次に明治25年生まれの末弟がいますが、
その下にもう一人の妹がいます。
曽祖父の除籍謄本を見てみると、
「四女 キサ」とあります。明治27年生まれです。
ここで疑問
ヤサさんが曽祖父・轟の二女なのに次のキサさんが四女、ということは三女は?
仮に三女が夭逝したとして、戸籍に残らないことってあるのでしょうか?
今となっては調べる手立てもありませんが‥‥
さらによく見ればキサさんは「六月七日生まれ」、、、
奇しくも明日が誕生日だったようです!
以前の記事↓で画像右端に写っているのが祖父の次妹・キサです
画像は大正4年に台南の自宅庭で撮られたもののようです。
除籍謄本の記載なので、没年月日は分かりませんが、
父から聞いたことも併せて記してみます。
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除籍謄本には「東京市牛込区〇〇 小田島 認 ト 婚姻届出 大正八年八月二十二日」
とあり、「同年九月貮日送付除籍」となっています。
前述の写真が撮られたのが大正4年、結婚はその4年後ということですね。
当時は曾祖父母や兄である祖父の家族らと一緒に台南で暮らしていたので、あちらで結婚したのだと思います。
父の話によると、この小田島認氏は陸軍軍人で
「台湾高雄、屏東在住」とメモに残しています。
さらに、長男・政義(ひとり息子)は大正7、8年生まれで
中央大学で水泳選手だったそう
戦時中、南方戦線で終戦、
戦後は吉野小学校か吉野中学校で先生として勤務
昭和27年、父が東京出張所勤務だった頃、その出張所で会ったきりだとのことでした。
その当時35〜36歳かでプラスチック関係の事業で企業を図るものの失敗したとか、
そんな話を聞いています。
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以上、話を聞きつつメモしたものを見ながら書きました。
次回は、祖父の「もうひとりの妹」について、です。