いつもお読みくださって、ありがとうございます
※トップ画像は何年か前の曲水の宴を見に行った際に撮った仙巌園からの桜島
さて、これまでに随分と限定的ながら島津のことなど一通り書いてきたので、
もう書くこともあまり無いかな〜と思っていたのですが‥‥。
ひょんなことから、俄然、書きたいことが出てきたのです
今朝、目が覚めて何となく考えたのが、
鹿児島で名越家を起こすきっかけになった、
お須磨さん(月桂院殿)と吉貴公のことや、嫡子・継豊公のこと、
それから重豪公の母・都美さん(正覚院殿)が継豊公の弟・島津貴儔の娘であり、
貴儔さんもまた、お須磨さんが産んだ子であること、
などなど、これまでに知り得たことの思い起こしでした。
※画像は随分前にメモしたものです。文字がひどい
よくよく考えるとそれまで読みこなせずにいた『島津貴久』(新名一仁著)を
改めて読んでみたくなり、その息子・義弘公、またその子・家久公と考えると、
その義弘の子、初代薩摩藩藩主・島津家久公から4代のち(家久公の玄孫)が吉貴公なので、
吉貴公と名越家の須磨さんとの血筋にも繋がっているんだなぁ‥‥‥と思ったのに始まったようです。
そこで、さらに『島津歴代略記』で確認することになり、
今朝は朝食もゴミ出しもそっちのけで作業に没頭してしまうのですが、
(その後ちゃんとゴミ出しは済ませました)
継豊の嫡子・宗信公も22歳で亡くなり、その後を継いだ二男・重年公も、
平田靱負が岐阜の治水工事を終えた後に自刃した(と伝わる)翌月に、27歳で亡くなっている、
(関連記事:『平田靱負と藩主・島津重年』)
などなど読み返しているうちに、
それぞれ藩主はどこで生まれ、どこで亡くなったのか
それぞれの母親(実母)は誰なのか、などまで気になり
例の生没年月日専用の手帳への書き込み作業となりました(^^;)
今後これについて少し書いていこうと思います。
とにかく気になったことは記しておこうと、
このブログ書き込みもいつもと違って殴り書きのようなもので、
気づいたことは後で訂正・追記することにします。