☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
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「4月17日 鹿児島を出帆」

2020-04-17 23:19:50 | 『都見物日記』

 いつもお読みいただき、ありがとうございます

さて、今日から『都見物日記』について綴ってみようと思います。

というのも、4月17日は川上イサさんと川上のお姑さん、それに弟の轟との三人で東京見物のために鹿児島を船で出発した日なのです

明治23年のことです。

先日テレビを観ていて知ったのですが (→ 「歌舞伎のおなまえ」)この年東京に「歌舞伎座」が誕生したそうで、

五月三日の日記にも初めての東京で歌舞伎を楽しんだ様子が生き生きと綴られています。

 

昨年9月6日の『【第4話】紹介者は、寺師若法師さん』で少し触れていますが、『都見物日記』は川上イサさんの次男、橋口精一氏によってまとめられたもので、地元の月刊誌『さんぎし』に連載で紹介されたものだったようです。

せっかくなので、寺師若法師さんが書かれた前書きから、そのまま記していこうと思います。

 

  都見物日記(一)

        川上いさ(記)

 

 母の鏡(鑑)の丹下幸代おばさんといえば人よく知るところ。もう昨年(※昭和33年か)のこと、若法師庵をお訪ね下さって、赤表紙の和綴ものをお見せになった。祖母にあたる川上いさ刀自の「都見物日記」である。川上ドンは新屋敷と武之橋にあり、新屋敷の方は関ヶ原で勇名をとどろかした川上四郎兵衛忠兄、いわゆる川上シロンペロンの方で、当主は谷山市山田町谷におられる矢吉氏。武之橋の方は四郎兵衛の兄、左京亮忠堅の方で、天正十二年春に竜造寺隆信を討った智勇の士。筆者いさ刀自の夫君は久達氏、その子息が兄 久良氏、弟 橋口精一氏、丹下さんはその久良さんの娘さん。こういうことになっている。(※ ゆき註釈)

 文中にもあるように、明治二十三年国会開設の年、全国からやんやと東京見物に出掛けたもので、いさ刀自も姑さん、令弟の栗川轟さんの三人連れでお江戸上りをやられた、その旅日記である。この日記は、これを整理された精一氏の「後記」があるから、それを前書き代わりに持って来るとよく解るようである。(若)

 後記(一部分)この日記はお母様のおしるし成され候もの故、時には前後まちがいあるべし。別に予は修正せず成るべく有りの儘をうつし、時にあまり分らぬ処を直せしのみなれば、原文と少しもちがいし所なしというて差閊(さしつか)えなし。母様のこれ丈おしるし成さるる処がなかなか値打の有る所なり。

  川上久達二男 橋口精一 かく

 

原 文

 左に記するは明治二十三年国会解説之時、御尊母様(外祖母様)栗川轟様(弟)之三人連れ、大坂、西京、東京、日光、金比羅参詣など被成候節の御母上殿の御手記なり(精一)

 

 四・一七 九時過より出立、程無く舟に乗り付(つけ)、二時前出帆、風無く舟上より方々眺め、チリン島、山川眺め、其れよりチンチン燈明台近くなるより皆住い所(すまいどころ)に引入り、夕方より少々気分悪敷(アシク)候得共(ソウラエドモ) 吐き方これなく、昼飯はおいしく夕飯はトントトントいけず残念に候、是れより寝続き はばかりにも行かず、つるつる休みつづき也

 

 初日は船酔いで大変だったようですね。

明日も続きます〜

  

追記:地図画像を貼っておきましたので、お楽しみ下さい。('20. 5.7 記)


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