☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
☆記事・写真などの複写・転載はご遠慮ください

西村時彦は「ときひこ」ではない⁈

2020-06-09 23:59:19 | 西村天囚(西村時彦)

以前書いた通り曽祖母・ツタは三原家出身ですが、西村時彦(天囚)の妻も三原家の女性で、詳しい繋がりはわかりませんが親族だと思われます。

(4年前の4月にはこんな記事書いてました → 『2016年4月のあれこれ』)

 

で、今日は改めて西村時彦さんの生没年月日を知りたくてネット検索してみました。

 

まずはWikipedia を見てみると…、

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/西村天囚

西村 天囚(にしむら てんしゅう、1865年9月12日慶応元年7月23日) - 1924年大正13年)7月29日)は、日本ジャーナリスト

本名は時彦(ときつね)で、天囚は。他に碩園(せきえん)とも名乗った。は子駿。大阪朝日新聞主筆で、コラム天声人語」の名付け親である[1]。祖先は西村織部丞時貫

 

とあり、、、エッ?「ときつね とビックリ‼️

ずーっと「ときひこ」だと思っていたのです 

 

Wikiでは生年月日が西暦で1865年9月12日とあり、慶応元年の7月23日と書かれています。

(通常、旧暦で見ますが、偶然にも母の命日でした)

没年は1924年(大正13年)7月29日

(こちらはなんと!我が家のアイドル猫だったクロの命日!)

 

ただ、Wikiのページ最後の方には亡くなった日を7月30日とも書かれていたので、

別のサイトを見てみることに。

「ふるさと種子島」というサイトにありました。

「西村天囚先生誕生之地」

ここに大正十三年七月二十九日没 五十九歳

と書かれていました。

 

さらに、「懐徳堂記念会」のHPの「西村天囚」の紹介ページがありました。

「懐徳堂」は知らなかったのですが、「年表」をみると

その中には西村天囚の名前もあり、少しばかり動向がわかります。

 

リンク先のページ左サイドの「懐徳堂について」から「懐徳堂を知る」などを読めます。

興味深い内容でしたので御一読をお薦めします。

 

☆ 今日は「彦」の字の別の読みをもうひとつ知りました。

「久邇宮邦彦王」です。「(くにのみや)くにひこおう」ではなく、「くによしおう」なのですね。

「久邇宮邦彦王妃」を検索して初めて知りました〜

 

いわゆる「キラキラネーム」も簡単には読めませんが、昔の方のお名前もかなり難しいものです 

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「吉利宝探しマップ」を求めて( '20. 4/25 )

2020-06-08 13:01:01 | 日記

☆トップ画像の左側が「吉利宝探しマップ」で、右は公民館長さんが持ってきてくださった「よしとしガイドブック('18発行)」。活動資金に充てられるとの事で、1,000円で購入させて頂きました。

    ーーーーーーーーーー

先月、先々月と『都見物日記』に時間を割いていたので、日々の記録をアップしていないこともいくつかありました。

新型コロナ禍の中FBで仕入れた情報から、日置市吉利のガイドブックが出来たということで、4月25日に父と二人で久しぶりの吉利参り。

  以前行ったのは2008年6月1日でした。

  『鬼丸神社 せっぺとべ(2008. 6.1)

  『小松帯刀仮屋跡(吉利小学校)〜 清浄山園林寺

※ 右の検索欄で「吉利」と入れるとこれ以外の記事が出てきますのでご覧下さい

 

FBには書いても特定の人しか見られないので、このブログでも画像アップしておきます。

 

 

流石にあまり人がいませんでした。 

 

旧・吉利小学校の校庭から校舎のある高台に登ると、卒業生の記念作品がありました。 

 

12年前に行った時は、こちら側は見ていませんでした。体育館が今は吉利公民館になっているそうです。

 

 

   

 

こちらは今盛んに行われている日置市の歴史イベントなどで使う、甲冑などの衣装・道具が保存してある場所だそうです。

 

 

夕方遅く行ったので、次回吉利や永吉地区を巡る時は昼間にじっくり探索してみたいと思います。

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港区のホームページ

2020-06-08 08:54:54 | 日記

2008年3月に書いた『「目黒区の大円寺」mixi日記より』に港区のHPをリンクしていたけど、今見てみたら、随分変わっていた。

 ちなみに「港区エリアガイド」というのがあったので見てみると面白い、かも?

 

2018年7月に『大円寺いろいろ』と題して、目黒区ではなく、杉並区の大円寺のことを「最近、桐野作人さんにご教示いただいた」と書いているけど、

2008年4月に『「大円寺」違い。。』の中ですでに、

 「きょうの南日本新聞読んでたら、大円寺にもいろいろあって
  杉並区の永福町にある曹洞宗のお寺、泉谷山大円寺
  島津家の菩提寺であるらしいことが書かれていました。
   *桐野作人さんの「さつま人国誌」No.54
     『島津ゆかりの大円寺』 」

と、自分で書いていた( 爆!)

お粗末様でした

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町田家の人々と名越家

2020-06-02 08:52:42 | 町田家の人々

最近になって思うこと

「名越家」のこともよく分からない状態ですが、名越左源太時敏の父・盛胤(町田實明)も祖父・盛尚も町田家から養子に入っているんですよね。

ということは、私たちにしても、元をたどれば町田家の人間ということではないかと、思うのです。

 名越盛胤:実は町田(主馬)久輔二男、町田實明 → 名越盛尚養子となり、名越左源太盛胤と改める

 名越盛尚:右膳 実は町田源左衛門久亮二男 → 名越恒当養子 左源太

  ※ 盛尚は盛胤の父・町田久輔の弟であり、盛胤の叔父にあたる

 

備忘録として

 名越氏(左源太家)享保年中樹家 ( = は養子)

初代・恒渡(つねただ) ‥‥ 浅右衛門右膳 妹於須磨ノ方ハ継豊公ノ御母堂也、享保五年家老

  恒渡 ー 恒索(平八 右源太) ー 恒次(当)(※恒篤) = 盛尚 =盛胤 ー 時敏 ー 時成 

※名越恒次(恒当、恒篤)の表記が度々違うのに戸惑いますが、恒篤のこと。

《関連記事》→ 『 寺山用央と名越恒篤と二階堂省行與右衛門 』(2019-10-13 

 

 

 以前たまたま見つけた石谷町「町田家」の墓地で撮った写真を再度上げておこうと思います。

(確認したら、初めて見たのは2013年5月22日の事でした。 → 『 町田家墓地(石谷) 』)

☆昔の携帯で撮ったので、画像が小さいのはご容赦下さい。

   

ここ(画像3)には↓「町田實用」という名前も刻まれていますが、まだよく把握出来ていません。

「町田郷九郎 久儔」の刻銘もありました。(画像4)

 例の『島津家家臣団系図集』によれば、「町田久儔」は町田氏本家「忠時公七男忠経流」(監物家) 町田久居を嗣ぐ

町田久倍 ー 忠綱 = 久幸(実は忠綱の弟) = 忠尚(家久公六男) ー 久東(兄・久孝,江戸にて病死15才) ー久居 =久儔

  

どの石塔に刻まれていたかは覚えていませんが、「町田久長」「町田久成」「小松清廉」「町田實用」「町田藤七郎」などの名前があります。「町田實用」って?「町田實明」とは違いますよね? 「仙壽院」とはどなた?

  

いろいろ気になるのでもう一度確認してみたいです。  

 

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