
繁華街から少し離れた住宅街。
その端っこで、一人の男が自身の手を眺めていた。

男の名は河村亮。
階段に座りながら、昔故障したその左手をじっと眺め続ける。

一度ぐっと握って、

ゆっくりと開いた。
手は動く。あの時のように震えることなく。


亮は昼間目にした、淳と雪のことを思い出していた。
負傷し血が滲む淳の右手が、いつまでも瞼の裏に焼き付いている。

昔味わったあの感情が、指の先から熱を奪って行った。
今まではただ忌々しかったあの事件。けれど今は、少し違った意味合いで亮を縛る。

あの事件を引き起こしたのは自分自身だった。
そのことを亮に知らしめるように、あの時、ずっと震えが止まらなかった‥。


帰路を歩いていた河村静香は、家が近づいて来たので道端に煙草を投げ捨てた。
すると数メートル先に弟の姿の姿が見える。彼女は怪訝な顔をした。
「は?何なの?」


亮が開いているその本に見憶えがあった。
というか、それは静香自身の物なのだ。
何なのぉ?!

静香は怒りの形相で、亮の手からそれを奪い取る。
「なんでアンタがそれ持ってんのよ!バカにすんのもいい加減に‥」
「染み、キレイになってんじゃんか」

以前、その本にはコーヒーの染みがついていた。
赤山雪と言い争いになった時、アクシデントでぶちまけられたものだ。

けれど今それは丹念に拭き取られ、染みが付いた当初よりは大分マシになっていた。
本を握る静香の手に力がこもる。亮はそんな姉を見て、こう言葉を掛けた。
「いつもショボいのはヤダってボロクソ言うくせに、
この本のことは大事にしてんじゃん。オレが新しいヤツ買ってやろうか?」
「はぁ?」

その亮の言葉に、思わず高笑いする静香。
「ぷはははっ!ちょっと、マジウケんだけど!今日一でウケたわ!」
「今日は何してたんだよ」

くすりとも笑わずにそう言う亮に、静香は心外な顔をした。
「はー?人が何してようが‥」
「お前」

「この先ずっとここで今みたいに暮らして行くわけ?」

突然そう切り出した弟に、静香はキョトンと目を丸くする。

そして面倒臭そうに、息をハッと吐き捨てた。亮は静かな口調で、姉に向かって言葉を紡ぐ。
「はー‥まーた説教タイムかよ‥」
「お前もオレも、見栄張ってばっかの人生じゃんか」

「愚痴言ったり虚勢張ったり、オレらの行動なんて全部中身は空っぽだ。
あの頃に戻りたくないって、足掻いてるだけで」


上辺だけのその鎧を脱ぎ捨てたら、高校時代の自分が叫んでいる。
それは静香もそうなのだろう。
もしかしたら彼女は、もっと幼い自身の叫びしか聞こえないかもしれない‥。

亮は静香が握り締めた美術の本を見つめながら、低いトーンでこう続けた。
「でもそれが本心なら‥」

「誰かに焚き付けられたとかバカにされたからとかじゃなくて、
お前が心から望んでることならよ、オレはもう口出ししねぇよ」

「お前の好きにすりゃいいさ」

「‥何なのよ」

俯き加減でそう言った弟の言葉の真意を、静香は分かりかねた。
けれど亮は彼女の内側を見透かすかのように、その虚勢の裏側を指摘する。
「あたしはいつもやりたいように生きて来たわよ?金が問題なだけ」
「いつも美術をやるのやらねぇだの言うけど、口先だけだろ。実際に始めもしねーでよ。
そういう人の顔色窺うような真似止めろよ」
「はぁ?スポンサーは当然必要‥」

「素直になれって」

諭すようにそう言った亮に、静香の顔がピクリと引き攣った。
「は?このガキ‥」

「ちょっと!自分は今までやりたいように生きて来たこと棚に上げて、
よく平気な顔してそんなこと言えるわね!」

そう言って静香はブンブンと拳を振り上げた。
しかし目の前の弟は姉に食って掛かることなく、まるで予想外の言葉を口にしたのだった。
「だよな。すまん」


突然発せられた謝罪に、静香は驚いた。
いつもなら再び言い返して来るのが常だというのに。

張っていた虚勢が、ぐらりと揺れた。
静香の表情に、切なさと弱さが僅かに入り込む。

「アンタのせいで‥」と、掠れた声が口から漏れた。
それを聞いている亮は、姉の感情を全て受け入れるかのように沈黙している。

静香は剥がれかけた虚勢を、再び背負い直した。
目の前に居る弟に、怒りをぶつけて誤魔化しながら。
「アンタのせいで!!」

「あたしがこうなったの、アンタのせいだから!
明日アンタが出てったら楽譜全部燃やして、物干しに吊るして晒してやる!」

静香の怒号は続いていたが、おもむろに亮は立ち上がった。
静香は一瞬怯んだが、すぐにまた暴言を浴びせ始める。
「ちょ、聞いてんのかよ!コンクールにも出れないように、寝てる時アンタの指を全部‥」

「虚勢しか残ってねぇか」
「はぁ?」

亮はキャップを目深にかぶり直しながら、そうポツリと口にした。
そして家とは反対方向へと歩いて行く。

「どこ行くのよ!」

そう声を荒げる静香に、亮は振り返りもせずにそっけなく返答した。
「先寝てろ」

小さくなる背中。
まるで今にも消えてしまいそうな‥。

「‥‥‥‥」

静香は顔を顰めながら、去って行く弟の後ろ姿をじっと見つめていた。
まるで何かを悟ったような、いや、諦めたようなその口調が、
いつまでも鼓膜の裏にこびりついていた‥。
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<虚勢の裏側>でした。
ようやく時間軸が元に戻りましたね。
そして久しぶりの亮さん登場!実に三ヶ月弱ぶりの登場です。
だんだんと皆の前から去って行く覚悟を決めているかのような亮さんが切ない‥!
(聡美のように号泣して引き止め隊)

亮さんが謝った直後の、ふと弱さが見える静香の表情も印象的でした。
スンキさん‥!この姉弟を幸せにしてあげて下さい‥!(T T)
次回は<彼女の確信>です。
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