【2024年】ツイッターつぶやき
日銀がマイナス金利から抜け出す動きがありましたが、実質的にはマイナス金利に近い利率ですから円が強くなるということは起きないのでしょう。さらに利率をあげてもカンフル剤のようなものかもしれない。
為替といえば対ドルですが、ドルが安くなっているなら円もさらに悲惨です。途上国の通貨の方が強くなり、円は最も安い通貨になっていく。
≪過去の記事≫
【2004年】
夏生さんの作品ミニミニ紹介が出来上がりひと段落です。
これで「ワガママな僕たちを」の感想へ移れそうです。しかし、ばななさんの裏日記も読み終わったし・・・・これもまとめたいなぁ。。。。
午前中は日がさしていたのですが、また曇ってきました。雨かな?
【2005年】
インターネットとテレビメディア。。。。
堀江さん(というよりもライブドア)とフジテレビの確執はまだ続きそうですね。
たしかケーブルテレビはインターネットサービスを行っています。その意味では、テレビとネットの結合は始まっています。
光により高速度のネットが可能になり、テレビ画像も鮮明になってきています。パソコン自体もテレビが見られるというのは常識です。プロバイダーによりケーブルテレビに匹敵する番組提供も始まっています。
こう見ると、堀江さん批判にただの金儲けのためというものがあり、先がどうなるかがはっきりしないというものもありましたが、ネットとテレビの融合は堀江さんの先進性だと思います。ただテレビを馬鹿にしすぎたような発言は残念です。
フジテレビは、テレビ優先だったのでしょう。
ネットは、今の状況でも発展していますが、テレビとの融合によりより発展する(テレビ好きな人間にとっては)のであり、そのためのソフト面としてテレビ局との融合は欠かせないのでしょう。その意味でフジテレビに目をつけた堀江さんはすごい。それともフジテレビにわきの甘さがあったのか?
ネットでの商品販売はすごいという。テレビの通販と比べてどうなのだろ?その上ネットでのコマーシャル収入はラジオ業界を抜いたとも聞いたことがある。テレビもデジタル化やハイビジョン、そして最近では新東京タワーの建設も出ている。双方の相互作用でテレビ人間が多くなるかも?(笑)
しかし視聴者にとっては、NHK・衛星放送料金があり、その上に多チャンネルテレビや有料番組局がある。通信料の増加と同じようにテレビという情報量も増加する。NHKの不祥事が大きく取りざたされているが、そのうちに民営化が出てくるかもしれない。
ライブドア・フジテレビの争いの中に孫さんまでが?(堀江さんも球団は楽天にとられ、フジテレビは孫さんに取られるのかな?)
大きな転換期が来るのでしょうね。
【2006年】
「世にも美しい数学入門」
ちくまプリマー新書
藤原 正彦 著
小川洋子さんの「博士が愛した数式」の関連として読みました。藤原さんと小川さんとの対談として数学の美しさを表現しています。もちろん対談中には、「博士が愛した数式」にもお2人が触れながら小説とは関連しそうもない数学との結びつきを語られています。
「博士の愛した数式」の中には、数学の話しがたくさん出てきますので、この本は「博士の愛した数式」を読むにあたって(あるいは読み終わって)参考になるのではないでしょうか。
数学者藤原さんの純粋さを小川さんが引き出すというような形で対談が進みます。
広大な宇宙そして微細な素粒子の世界まで、自然界というのは厳然と存在をしている。人はその自然に向って五感を持って接する。接する中に自然への感謝や恐れ感じ、そして不思議さを感じる。ただ単に感謝と恐れを持って接しているだけなら、人は宗教的に自然を受け止めるだけだが、不思議さを感じてその不思議を解き明かそうとする中に人の科学的な進歩もあったのだろうと思う。自然をもっと解明しようとしたとき、人の持つ五感や思考だけでは足りなくなる。思考そのものをもっと深くするには五感だけでは足りない。
同時に人は、自然の中の限られた範囲だけに生き延びることができる。人は生き延びるだけではなく、その発展の中から自然に働きかけることをしはじめた。それは人の生きる喜びを増大するために不可欠である。
自然に対しての働きかけと、自然の持つ不思議さの探求は、車の両輪のようなものではないか。
人は星の観測をする中に農業を発展させたし、望遠鏡や顕微鏡も必要性から作り出す。自然に働きかけるものを作り、自然の不思議さを解き明かすための道具も作り出しながら発展してきたのではないか。
その中で、人が作り出したもののひとつに数学があったのだろう。
物を数えることからはじまり、計算すること、図形化することなど、数学は自然を受け止めるためにも解明するためにも役立ってきたのだろう。
今の時代のように、様々な部門において発達した社会でもやはり自然への働きかけと不思議さの解明は車の両輪となって歩み続けている。これは永遠に変わらないものであり、行き着くことはないだろう。
発達が進すみ、そしてその発達のスピードが加速度的に速まった中で、必然的に専門分野は細分化され、ますます分業制も発達をする。この分業は、ある意味人の精神活動と実際に必要なものを作り出すという理論と実践とも言うべき分業も発達しているのではないかと思う。人の精神活動においての理論的な世界観、これはあらゆる分野での精神活動により自然というものを書き表すことであり、この自然を書き表すことでの不可欠な言葉が数学でもある。
数学者藤原さんは、この自然を書き表すための数学を「神の手帳」を読み解く、あるいは新しい次のページをめくるように情熱を持って純粋に語っているのでしょう。
文学や哲学、社会科学や科学、様々な人の精神活動においての自然とのかかわりにはすべてロマンティズムがある。当然に数学にも数学のロマンティズムがあるだろう。特に純粋数学という学問は、今すぐに役立つかどうかはわからず、500年後に生かされるかもしれないという気の遠くなるような学問らしい。壮大なロマンティズムである。
数学には、純粋数学と応用数学という分類の仕方があるようだが、応用数学が、実際の科学発展に強く結びついた実践的な数学とするなら、純粋数学は、数学そのものを純化した理論的な数学といえるのかもしれない(この数学についての分類は、僕のような素人にはまったくわからない世界なのでこれは僕の感じたとらえ方です)。この点については興味深いサイトページを読ませていただきました。
「科学と数学の間」
(トップページは「科学と技術の諸相」です)
(この本や「博士の愛した数式」に出てくる数学者の名も出てきますので参考になると思います)
数学が科学に先んじて自然の姿を書き表すこともあれば、科学がその数学の言葉を具体化をして生きた言葉にし、新たな数学の発展を誘発することもある。ただし純粋数学は、どのように科学に生かされるかは予想はしない。面白い世界だと思います。
でも言えることは、応用数学よりも純粋数学のほうがロマンティズムであるということである。この本の中身も、現実の科学とはあまり接点を持っていないように思われる。
このロマンティズムは、文学が人の心というもつれたものを抽象化して一つの心の働きを描くものとすれば、純粋数学は、もつれた事象を抽象化して一つの公式として解き明かすものでしょう。この意味において文学と数学とが接点を持つことができたのかもしれません。
しかし、この数学の持つロマンティズムだけを引き立たせると、純粋数学を高尚化し過ぎるというものを感じてしまう。
これは藤原さんのもつ独特なものかもしれない。
それは、先に読んだ「国家の品格」に見られる西洋の合理主義を否定した日本の精神文化の高尚化としても現れるのである。
今の社会の様々な矛盾は、政治的実践の中から生まれたものである。もちろんそこには政治的な理論があったのだが、この矛盾を指摘をしてその解決を政治的な実践から提起をせず、その新たな実践の理論をあやふやな精神論的なものに置き換える。これもまたロマンティズムである。
やはり応用数学ではなく、エレガントな純粋数学の世界なのかもしれない。
【2007年】
新しいコーヒーショップを見つけた。
置いてあるパンなどもおいしいし、コーヒーも機械式だけど香もあるおいしいコーヒー。いつも行っているところはコーヒー専門店だけど、なぜかいまいちコーヒーがうまくなかった。なんか浮気しそう(ーー!
午前中は強い雨でした。昨日からの強風は少し弱くなったのでよかったですが、それでもベランダにも相当吹き込んできました。植木にもだいぶ雨がかかりましたが、花々にとっては気持ちのよい春の雨だったかもしれません。
【2008年】
今夜はブログからコピー。。。どもども
もう何年前だろ。。。
小さな川を渡った次の駅に
僕は誘われるように
降り立った
どうも不思議なのである
いつもの通勤電車の車窓に
桜の季節になると
ピンクの桜が満開になる
線路から五百メートルぐらいだろうか
小さな川のほとりにその桜は咲いている
しかし。。。。
朝の通勤には見えないのである
きまって宵から夜にその桜は見える
ぼうっと浮かぶようにその桜の木は立っていた
その日も桜が満開だった
暮れる宵の空には
春宵月
オレンジ色の欠け行く月が
ぼうっと低く浮かんでいた
小さな川を渡った次の駅。。。
降り立つと宵の暖かな空気が
僕を包み込んだ
僕はひきつけられるように商店街を抜け
小さな川を探してゆらゆらと歩いた
まだ宵というのに人通りが少ない
すれ違う人の顔が見えない
うつむいているのか。。。。
ぼうっと影のように見えない
やがて小さな川のほとりに
その桜は大きな桜だった
もう夕闇になり
桜は霞むように立っていた
一枚そして一枚と
花びらが散り始めた
僕は見上げた
春の風は心地よい
春の風は花びらを落とす
僕は一瞬めまいを感じた
花びらはさらさらと降る
「こんばんわ」
「いらしてくださったのですね♪」
僕は驚いて後ろを振り向いた
そこには透き通るような女性が
僕を笑みを浮かべて見ていた
「こんばんは。。。。」
白いワンピースがゆらゆらと
それは桜色に染まりつつあった
くるくると舞う
くるくると花びらも舞う
「ハハハハ・・・・」
春月夜に声が響いた
僕は周りを見つめた
そこは小さなお墓が
孤独に立つ墓地だった
僕は春月夜を見上げる
くるくると花びらは舞っていた
と、言うのも、一昨日の日記で書いた「春月夜」とか「幻の桜」という言葉に誘発されて。。。。
【2009年】
(記事なし)
【2010年】
僕は夕方の街にふらっと散歩に出た
心は空っぽのままに
やっと出た月の光に暗い雲が流れていた
歩きなれた道を歩き歩道を見つめ
公園に着いたとき僕は引き込まれた
もう誰もいない公園のベンチを見つめ
まだ葉が出ない木々を見上げた
さっき点いた街灯の光が消えて
公園の土を隠すほどに月の光が降り注いだ
僕が歩くと月の光は舞い上がりつつ
冷たく僕を包み僕を誘った
しばらく立ち尽くしているとそこは深い森となって
一筋の小道が光って森の木々を照らしていた
僕が小道を歩きはじめると空っぽな心に
孤独と悲しみの小道美しい孤独と悲しみと聞こえた
小道の先が開けて荒涼とした草原となり
たった一本の木が立っていた
近づいてみるとカサッと木の葉を揺らしながら
僕を見た妖精が木の実の裏に隠れた
草原の遠い先にはまた森が見え
僕は呆然としてまた立ち尽くした
「木の実を食べて」「さぁ、どうぞ」
二人の小さな妖精がいつの間にか現れていた
このとき僕は空っぽな心ではないと
重くて混沌とした心であったことに気付いた
僕は孤独と悲しみの小道を歩き
その孤独と悲しみの小道が美しいと知ったから
空には二つの月が光り冷たい光が風に乗り
一筋となって草原の先の森に吸い込まれた
「木の実を食べて」「さぁ、どうぞ」
また小さな妖精たちはつぶやいた
明日発売になる夏生さんの「カイルの森」のイメージイラストがホームページに載せられました。 こちら
銀色夏生らしいイラストですね。
かわいく面白いイラストの世界のもう一つの銀色夏生のイラスト世界です。
上は、ちょっとおふざけで「イメージ駄文」(笑)
【2011年】ツイッターつぶやき
銀色夏生「しげちゃん田んぼに立つ ばらとおむつ3」
(2011年2月25日 角川文庫より初版発行)
「ばらとおむつ」「珊瑚の島で千鳥足 ばらとおむつ2」に続いてのシリーズ3冊目です。
いずれのタイトルも夏生さんの母「しげちゃん」が脳溢血で倒れて入院したときに「しげちゃん」の看病をする夏生さんの兄「せっせ」がご兄弟・妹にしげちゃんの様子をメール通信という形で送った通信名です。1,2巻ではこのせっせのメール通信を紹介をしながら近くに住む夏生さんが訪れてはそのしげちゃんとせっせの二人の生活の様子を日記風に書きとめたり、夏生さんのお子さんたちの様子をも書いています。
夏生さんには20年ほど続く「つれづれノート」シリーズがありこれも日記風のエッセイです。この「つれづれノート」が一時中断しますがその間にこの「ばらとおむつ」の1冊目が出ます。ある意味同じような日記風のエッセイですからファンにとっては「つれづれノート」の穴を埋めるような感じで読めました。たしか夏生さんはどこかでこの二つのシリーズは違うものだとお書きになっていたと思いますが、たしかに中身は違いがあります。特に今回の作品はすべてせっせの通信だけを収めています。そしてシリーズ全体にしても「つれづれノート」は銀色夏生家、「ばらとおむつ」は本名山元家の二人の生活というものを感じますし、「つれづれノート」はもっと夏生さんご自身の内面を強くあらわしています。
上に兄せっせの通信と書きましたが、その意味では特に今回はせっせの内面が出てきていると思います。夏生さんの目を通さないせっせともいえるかもしれません。最後のページに書かれる夏生さんのせっせの姿のイラストと手書きの「いつも忙しいセッセ」というのが印象的です。
セッセの任務は大きく分けて二つある。
先祖から引き継いだ家や田んぼ畑、広い土地を整理していきほっぽらかしというわけではないがゴミや荒れた庭を整理していき、土地は売るべきものはうって隣や親戚ともめながらも境界をきちんとしてブロック塀を作る。しげちゃんが大切にしている梅ノ木にバラの木も。。。。写真を見ると整地された土地にぽつんと、屋根に穴があき廊下からは藤木が出てくる古い家が建っている。本では書かれていないのですが本からうかがえるセッセの性格からして一気に思うがままに整理したがあとから殺風景さにどんよりしてしまうのではないかとも思ったりします。
二つ目はしげちゃんの看病というのか老後の介護です。
デイケアーに行くしげちゃんの着替えから日常のいろいろな世話、年に1回の介護等級を決める面接にしげちゃんが元気であることをアピールする様子にがくっとする。しげちゃんが元気なうちは親戚との付き合いもあるわけで、軽トラックで奔走する。そして。。。。。時々ウンチが付いている服に愕然としながら洗濯。しげちゃんの痴呆症を気にする。そして寝たきりや排泄の世話が始まったときに介護も本番だと。しげちゃんの痔の世話をするせっせは。。。。
実際に介護をされている方のご苦労は大変だと思います。しかしせっせはそれをあるときは自虐的に、あるときは母親のいつか来る死を思い、あるときはしげちゃんと喧嘩をし。。。。しかしその中にあるのはしげちゃんへの愛情でしょう。生きている間は、元気でいる間はという気持ちが出ています。
だいぶ前の「つれづれノート」に夏生さんの家の棟上のときにセッセが酔っ払いますが、それを夏生さんは普通のおじさんだと表現していましたが、そう、普通のオジサンなわけでこの本の中でも酒量が増えていく。
せっせにはせっせの生活があり、その中に生きる。読者には読者の生活がありその中に生きる。何も介護が大変だということを書いた本ではありません。毎日の生活の中に生きる一人の人間の姿でしょう。その心にはさまざまなものが沸き起こってくる。けしてきれい事ばかりやしげちゃんへの愛情を美化しない。今の世の中特にネット上には観念論的な美化された言葉が流れそれを下に人を非難する動きもある。同じように生活をしている、そこにこそ喜怒哀楽がある。これを強く感じます。
今回の本では夏生さんが見たしげちゃんとせっせは見えません。せっせのそのままの言葉をそのままに乗せたほうがいいという思いが出ているのかもしれません。それが編集して本にするというある意味せっせへの感謝の気持ちかもしれません。あるいは二人の生活だから二人がどのように生活していくかを見たいというものも?夏生さんご自身も東京に残る娘さん「かんちゃん」と宮崎に残る(東京の学校になじめない)長男「さくちゃん」の間を行ったり来たりの生活。その中に夏生さんの今の生活の中に生きている。
いろいろな生活はそれぞれ一人ひとり違います。
しかしその中には同じ喜怒哀楽がきっとあるわけです。同じものが形を変えて現れるそれが日常の生活です。それをどう生きるか、どうあるときには楽しさにしていくのか。。。。それが大切ですね。
楽しさに変えるという意味では、せっせはこのような通信を書くことで自分を客観視できますし、このような形で本にもなるということに楽しさを感じているのではないでしょうか。自分を客観視することの大切さは、ブログなどでもできるわけです。そんな時間を大切にしたいですね。
【2012年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
【2013年】ツイッターつぶやき
解雇規制の緩和については時々ネット上でも見かけるが、安倍内閣により本格的に検討されるようである。
しかしこの解雇規制の緩和からの労働力(雇用)の流動化がなぜ必要なのかは見えてこない。誰がどのような理由で必要なのか?
昔から経済の発展段階においてスクラップ&ビルドが必要とされ、急激に発展した競争力のある産業が生まれた場合そこに資本と労働力を移動させる必要があった時もある。もちろんこの時も解雇というのは最後の手段でした。しかし現在はこの経済の発展もなく労働力が足りなくなるような新たな産業は見当たらない。ではなぜ今解雇規制の緩和なのだろうか?
この点で一つの考え方を現している「解雇ルール確立で新陳代謝を 雇用の流動化で新たな雇用を生み出す」という産経新聞のネット記事があった。
多くの経済学者等が解雇規制の緩和・雇用の流動化を言う中でなかなかどこに視点があるのかはっきりしたものが見えなかったのですが、この記事はある意味本音を出しているのでしょう。
経済協力開発機構(OECD)によると、日本は正社員の解雇が先進国で最も厳しく規制され、それが産業活性化に不可欠な雇用の流動化を阻害しているという状況がある。正社員が既得権益化し、非正規社員との待遇格差も生んでいる。 (上記リンク記事より引用)
この情勢の見方は正しいだろうか?
「正社員が既得権益化し、非正規社員との待遇格差も生んでいる。」というが、これは公務員の既得権益と民間を比べて公務員給与などを下げろといった論法に酷似している。日本はもともと正社員数が多く派遣法の改悪により派遣労働の範囲が広がったという経過がある。その過程の中で正社員数は激減をして派遣労働が増え、また非正規社員数全体も増えてきた。それは雇用形態の変化にとどまらずに低賃金化への経過でもあったのではないか。またこの非正規労働だからこそ解雇も自由になったのではないか。「正社員が既得権益化」したのではなくて非正規雇用の様々な労働条件の切り下げであったのではないか。公務員が条件(賃金など)を拡大して民間が相対的にひどくなったのではなくて、公務員はそのままで民間が絶対的のひどくなったのであり、同じように正社員の条件が拡大して相対的に灯式雇用者がひどくなったのではなくて正社員もひどくはなったがそれ以上に非正規雇用者が絶対的にひどくなったという事でしょう。ですから「正社員が既得権益化」という見方は適切ではないし、正社員も非正規雇用者並みにと言っているにすぎないのではないか。
ですから「産業活性化に不可欠な雇用の流動化」というのは、正社員の賃金をはじめ労働環境を切り下げることが産業の活性化につながるという意味にとらええる。
日本の労働者の賃金は正社員も例外ではなくて下がる一方だった。派遣労働の拡大などの非正規雇用の増大は雇用の流動化そのものだったはずです。しかしこのような日本が経済的に成長路線をとれたかと言えばそうではない。リーマンショックからの立ち直りでは一番遅いとも言われてデフレに陥った。このようなこの間の労働政策により企業はその利潤を維持しようとした安易な利潤追求の矛盾が現れているのではないか。まだ正社員という中間層が経済を支える主流となってもいたがその中流層自体を減らしてしまった。
この記事の中身はさらに企業利益維持のために正社員という中間層を減らせという事だろうか?
この記事では「新陳代謝」「雇用の流動化で新たな雇用」という言葉を使う。しかし新陳代謝の必要性はすでに団塊の世代が定年となり始まっていることである。そして年金支給年齢が伸びることによる再雇用が雇用の流動化として始まっている。また、女性労働力の活用も言われており、新陳代謝あるいは新たな雇用という言葉が若い人そして非正規雇用者の正社員化に結び付くかと言えばそうではないだろう。高齢者や女性労働が新たな低賃金層として社会に現れる。その中において正社員の数が増えたり賃上げにつながる保証は何もないでしょう。
より多くの不安定雇用が広がり、多くの労働者は将来を見つめることもできない社会にさらに近づくという事です。
雇用の規制緩和は賃金奴隷を増やすでしょう。
【2014年】ツイッターつぶやき
先日「生産性の低下」というのを書きましたが、人の行動で生産性を上げるとして行われてきた賃下げは実は生産性の低下を招くとすればこれはひとつの皮肉でしょう。しかしこの皮肉こそが経済の法則性ではないでしょうか。保守政党も賃上げを言わざるを得ないというのも皮肉です。
経済活動はもちろん人の行為を通して形作られるのですが、しかしその行動が間違いならば経済はその人の行動に皮肉な答えを出します。結局人の行動は経済の法則にのっとった形でしか自由に行えないのでしょう。
より少ない労働量でより多くの商品を生産できるということはその商品の価値を低下させることができます。今の社会はコンピューター化とロボット化が進んでいるわけですからここからの生産性は飛躍的な発展でしょう。本来ならば労働時間の中でも安い商品を消費できる社会になったということで、安い商品が増えるということは生活費の費用を少なくするのですからそうは賃上げの必要性も薄れていくわけです。そうは成長を求めなくても人々の生活は科学の発達の中で豊かになるはずなんです。こういった社会を作ろうと人の行動が経済に働きかけるならそれは法則性にのっとったものですから人の行動が経済を矛盾なく働きかけることができるでしょう。
【2015年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
【2016年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
【2017年】ツイッターつぶやき
「開花」と言っても桜のお話ではなくて、冬の間に出窓で育てていた松葉ボタンが開花しました。
赤い花が1輪。。。。。
今朝、だいぶ蕾が大きくなっていたと思ったら、帰ってきたら開花していました。
他の蕾もだいぶ膨らんでいますので1週間ぐらいすればいくつかの花を楽しめるようになると思います。
そろそろプランタに移し替えてもよい大きさに育っているのですが、まだ朝晩は冷え込みます。少し窮屈でしょうがしばらくは我慢してもらい4月の気候を見ながら移したいと思います。
先日蒔いた種もたくさん発芽してぽつぽつと松葉ボタンたしい葉が出てきました。
こちらは5月ぐらいちょうどい時期に開化すると思いますのですぐにプランタに移そうと思います。だいぶ多く種をまいてしまい密集しています。半分ぐらい煮まわて移してもよいのかと思っています。
トリニアが発芽しました。
1か月ほどで成長してやはり5月には開花かな。。。。。
松葉ボタンと一緒にプランタに植えるのが楽しみです。でも、ビオラも5月下旬から6月上旬あたりまで元気ですから植え植え付け時期も難しい。フリージアが4月中旬ごろまで策と思いますが、咲き終わってしばらくしたら球根をあげてトリニアを植えたいと思います。
そういえば去年のニチニチソウの小さなものが冬を越して元気になってきました。
これも植え替えねばならない。。。。
なんだかんだと言って忙しいです。
そういえばこのいろいろな花たちは去年の花から種を採ったり小さな芽を植え替えたりしたものですから、今年の夏の花は予算ゼロ円です。
gooお題お題「桜は開花しましたか?」
一輪咲きそうでしたが北風が寒い。。。。。
宵の桜の幻想。。。。
2008年に書いたものがホームページから出てきましたので採録
もう何年前だろ。。。
小さな川を渡った次の駅に
僕は誘われるように
降り立った
どうも不思議なのである
いつもの通勤電車の車窓に
桜の季節になると
ピンクの桜が満開になる
線路から五百メートルぐらいだろうか
小さな川のほとりにその桜は咲いている
しかし。。。。
朝の通勤には見えないのである
きまって宵から夜にその桜は見える
ぼうっと浮かぶようにその桜の木は立っていた
その日も桜が満開だった
暮れる宵の空には
春宵月
オレンジ色の欠け行く月が
ぼうっと低く浮かんでいた
小さな川を渡った次の駅。。。
降り立つと宵の暖かな空気が
僕を包み込んだ
僕はひきつけられるように商店街を抜け
小さな川を探してゆらゆらと歩いた
まだ宵というのに人通りが少ない
すれ違う人の顔が見えない
うつむいているのか。。。。
ぼうっと影のように見えない
やがて小さな川のほとりに
その桜は大きな桜だった
もう夕闇になり
桜は霞むように立っていた
一枚そして一枚と
花びらが散り始めた
僕は見上げた
春の風は心地よい
春の風は花びらを落とす
僕は一瞬めまいを感じた
花びらはさらさらと降る
「こんばんわ」
「いらしてくださったのですね♪」
僕は驚いて後ろを振り向いた
そこには透き通るような女性が
僕を笑みを浮かべて見ていた
「こんばんは。。。。」
白いワンピースがゆらゆらと
それは桜色に染まりつつあった
くるくると舞う
くるくると花びらも舞う
「ハハハハ・・・・」
春月夜に声が響いた
僕は周りを見つめた
そこは小さなお墓が
孤独に立つ墓地だった
僕は春月夜を見上げる
くるくると花びらは舞っていた
【2018年】ツイッターつぶやき
ここ数年3月から5月は野暮用と言っては怒られますが忙しい日々が続いていました。
今年も忙しくなってきた・・・・・・
「野暮用」が済んで帰宅する途中公園の夜桜がきれいでした。
ホッとしますなぁ。。。。。自然の美しさは。
なんだか政治の世界はどろどろとしたものが見え隠れしてきました。当事者の政治家も夜桜でも見て素直に国民のことを考えるべきです。
それができるのは平和と民主主義が発達した社会だけですが、その平和と民主主義を守り発展させるには政治の世界での闘争(国会内でも社会全体でも話し合いを作り上げるという意味において)が必要というのは一つの矛盾ではありますが。。。。。
そんな社会を今年もまた桜の花は見下ろしています。満開になれば雀たちが花の宴。。。。。
たくさんの花たちが生き生きと生長します。
【2019年】ツイッターつぶやき
以下ツイッターから
窮乏化も生存の不安定性にまで突き進む。
日本は先進国ですからこれまでは相対的貧困の度合いが問題になっていた。しかしこれからは相対的貧困の中に絶対的貧困が忍び寄るでしょう。
水道の民営化が行われれば生きるのに必要な電気、ガス、水道が利潤目的となる。絶対的貧困はこの基本的なものにも。
この絶対的貧困が忍び寄る国民の状態としての窮乏化は、同時に中間層の減少ともなり、相対的貧困自体も進む。経済は衰弱をする。この経済の衰弱は企業をも衰退させるだろう。ここにも窮乏化が。国民と企業(生産)に寄生する人々に窮乏化を持続させる政治的力が必要に。ここでも窮乏化は貫徹される。
これまでの発展途上国が内需や社会資本整備により経済の発展を果たしていく中で先進国の資本はその国々に移動する。中国のような発展を果たす国々がこれからも生まれるでしょう。先進国の相対的な退化が必然的に進む。これがグローバル経済の中身である。先進国が相対的後進国となる日が。国民の貧困化
中国はこれまでの先進国とは違う道を通りながら経済的覇権を果たそうとしている。まだ社会主義を言っているが、中身は社会民主主義に向かうでしょう。すでに経済成長を果たした上に内需の拡大による貧困をなくそうとしている。日本やアメリカとの思想的な違いは大きくなるでしょう。
アメリカや日本は、特に日本は冷戦の終結を自由主義の勝利として国民生活の向上を捨てた。
しかしその自由主義がもたらした中身が先のツイートにあるような国家的な窮乏化である。
容赦のない搾取と収奪が経済を発展させるという誤った生産性の向上が言われる。
究極なそして原始的な資本主義の終焉が
資本主義の発展自体の中に生まれる矛盾は、資本主義自体に内包する矛盾である。
一方では経済はより発展を求めることは法則である。
経済が発展しようとする一方において資本主義はその経済の発展を阻害するでしょう。
この根本的な矛盾は止揚される。
資本主義の生産力を残しながら社会的な経済システムを変化させる。貧困を作り出すのではなく、そして格差を広げるのではなく社会的な富の分配を平等に行うこと。これが資本主義が生き残る道であることを示している。これが社会的な新たな経済システムである。
富の平等な分配には政治的な自由と民主主義が作り出される。
資本主義の最終的な発展段階としての社会民主主義は不可欠です。
こうしないと資本主義的競争に勝てなくなる時期が来るでしょう。
真逆な日本が経済力も落ちてきていることで証明している。
このブログでも何度か原発がスクラップ産業だと書いてきました。
再稼働がはじまりましたが、原発の発電は電力会社にとっても重石になっているようです。もちろんまだ原発を使いながら減価償却や利益を得ようとしたり、国策ですから協力をしなければならない。減価償却といってもすでに40年過ぎの原発が多くなっているのですから、減価償却にどのくらい利益を上積みするかを考えているのでしょう。
しかし再稼働をしても原発の赤字は出ているようです。
朝日新聞に「原発支援に補助制度案 経産省」という記事がありました。
どうも原発の安全神話と同時に原発発電は安い電力だという神話も崩れ去ろうとしています。
福島原発の事故処理費用は税金に白電力料金に白国民負担で行われます。また多くの原発で廃炉が廃寺まりますがこの費用も電力料金反映していくでしょう。そのうえ補助制度です。
「消費者や企業が払う電気料金に原発を支える費用が上乗せされることになる」
「直近では、原発の発電量1キロワット時あたり約1・9円を価格に上乗せして売ることができる。日本の電力業界関係者は「赤字の原発が黒字になるくらいのインパクトがある」と分析する。」
(引用)
原発ゼロ状態で大停電は起きませんでした。九州では太陽光発電の受電を電力会社が一時行わないということも置きました。再生可能エネルギーが発展しているにもかかわらず政府は原発の再稼働をする。そしてその原発の維持費用を国民負担とする。
こんなバカげたことが2020年から起きるのです。
Co2削減のための原発であり、そのために補助精度を行うという理屈ですが、詭弁でしょう。原発事故がどのくらい環境を汚染したか。福島には地震や津波にも多くの被害を受けなかった町が死の町になりました。除染をして住民を戻すといっても若い人たちが戻れないような状態です。
Co2削減は何も発電に限ったことではないはすです。再生可能エネルギーの活用システムを構築する方が早いでしょう。そして経済的にも負担は減るでしょう。
【2020年】ツイッターつぶやき
今夜は爆弾納豆にしました。
なんだか物騒な名前ですがうまいです。
具材は。。。。。
納豆、山芋、ネギトロ用刺身、沢庵、わかめ、長ネギ、卵
納豆は小粒がいいと思います。山芋はすりおろします。沢庵は薄く切って千切り。わかめは小さめに。長ネギはみじん切り。卵は卵黄だけ。
これを器に盛り付けて食べるときに醤油か麺つゆをかけて・・・・・ぐちゃぐちゃっと。
酒のつまみにもいいし、アツアツのご飯にのせてもうまいです。
我が家の爆弾納豆の具材は上記したものが定番ですが、ネットで調べてみたら各ご家庭で具材は様々ですね。味付けも含めて具材は無限かもしれません。
キムチや韓国のりを使えば韓国風に。
チーズやオリーブオイルを使えばイタリア風などなど
納豆というものがそれだけ無限の食材に溶け込むということなのかもしれません。
納豆がコロナウイルス対策で取り上げられてから品薄になっていますが、やはり健康食として最高なんでしょう。そこに長いもを入れたりしますから最強の栄養食!ねばねばと言えば、夏はオクラのみじん切りも入れます。
【2021年】ツイッターつぶやき
明日から聖火リレーがはじまるようですね。
菅首相も行かなくなったとか、芸能人や元アスリートとかがリレーを辞退するニュースをぼうっと聞き流していたのですが、明日が聖火リレーの初日とは知らなかった。
福島事故原発では水位が下がり続けているそうです。今日のニュースでは排水路付近で汚染された得体のしれないゲル状のものが見つかったそうです。事故の終息とは程遠い状態である。福島の県民の皆さんを励ます効果はあるでしょうが、心の奥底に重いものをひそめた盛り上がりになるのかもしれません。
完全な形での開催は一般入国者は来れなくなりましたし、オリンピック開催自体が疑心暗鬼の状態です。オリンピック組織自体が女性蔑視などでボロボロ状態で、政治は首相のスキャンダル。
コロナに打ち勝った証どころか緊急事態宣言を解除していた大阪でも250ンほどの新規感染者が出たそうで、宮城県は第四波状態です。東京もまた400人を超えました。
選手団を送る国々でもロックアウト状態の国が。
このような中でマスコミなどで聖火リレーを盛り上げようとすればするほどむなしさが出るでしょう。しかし国民の応援は大きいという判断をしながら7月にずれ込もうとしているのでしょう。
【2022年】ツイッターつぶやき
東京との新規感染者数が先週より400人ほど増加をした。
すぐに増加現象と判断することはできませんが、下げ止まり現象は起きていることは確かでしょう。その下げ止まりも1万人にはならないまでも6千人から8千人程度の高い数字での下げ止まりです。
この原因がオミクロン株の変異株のBA2と呼ばれるウイルスが原因のようです。世界的にも感染防止の規制を解除した国々で再拡大が起きている。アジアにおいても香港や韓国で感染の拡大がけた違いです。東京ではすでに40%ほど置き換わっているようで4月には70%程度になると言われています。
東京でも今後増加現象が起きる可能性があります。
BA2がさらに弱毒化しているのかはわかりませんが、弱毒化しつつ消えていくのか?それとも新たな強毒性のウイルスが現れるのか。
どちらのしても重症者や死亡者は感染が拡大すれば増加していきます。
すでにまん延防止も解除されていますしGo Toも再開するといううわさが出ています。ワクチン接種で乗り切ろうとしているのでしょう。すでに5月過ぎには4回目のワクチンが行われるかもしれません。しかし素手の3回目の接種率は上がりません。人間の体の方が先におかしくなるでしょう。
すると、コロナ対策も野放し状態になりますね。
死ぬ人は死んで無症状者は闊歩する社会に。
【2023年】ツイッターつぶやき
ドイツが4月から残りの3基の原発を順次停止するらしい。
ロシアからの天然ガスを制裁としてそしてパイプラインの破壊により苦しい立場にあるでしょうが、その中で脱原発に向かう。どうも脱原発と同時に脱炭素もすすんでおり再生可能エネルギーとその中での水素エネルギーによりエネルギーを賄うようです。
政治的には脱原発での対立もあるようですが、この対立を乗り越えてきたのでしょう。
その対立を乗り越えるための原発への警戒が福島原発事故にあるようです。
汚染水問題が諸外国から批判され、まだ人が住めない地域を残している。住むにしても不安が残る。
その面では、福島原発事故を忘れようとする再生可能エネルギーも遅々と進まない日本とは違いが大きいですね。
日銀がマイナス金利から抜け出す動きがありましたが、実質的にはマイナス金利に近い利率ですから円が強くなるということは起きないのでしょう。さらに利率をあげてもカンフル剤のようなものかもしれない。
為替といえば対ドルですが、ドルが安くなっているなら円もさらに悲惨です。途上国の通貨の方が強くなり、円は最も安い通貨になっていく。
≪過去の記事≫
【2004年】
夏生さんの作品ミニミニ紹介が出来上がりひと段落です。
これで「ワガママな僕たちを」の感想へ移れそうです。しかし、ばななさんの裏日記も読み終わったし・・・・これもまとめたいなぁ。。。。
午前中は日がさしていたのですが、また曇ってきました。雨かな?
【2005年】
インターネットとテレビメディア。。。。
堀江さん(というよりもライブドア)とフジテレビの確執はまだ続きそうですね。
たしかケーブルテレビはインターネットサービスを行っています。その意味では、テレビとネットの結合は始まっています。
光により高速度のネットが可能になり、テレビ画像も鮮明になってきています。パソコン自体もテレビが見られるというのは常識です。プロバイダーによりケーブルテレビに匹敵する番組提供も始まっています。
こう見ると、堀江さん批判にただの金儲けのためというものがあり、先がどうなるかがはっきりしないというものもありましたが、ネットとテレビの融合は堀江さんの先進性だと思います。ただテレビを馬鹿にしすぎたような発言は残念です。
フジテレビは、テレビ優先だったのでしょう。
ネットは、今の状況でも発展していますが、テレビとの融合によりより発展する(テレビ好きな人間にとっては)のであり、そのためのソフト面としてテレビ局との融合は欠かせないのでしょう。その意味でフジテレビに目をつけた堀江さんはすごい。それともフジテレビにわきの甘さがあったのか?
ネットでの商品販売はすごいという。テレビの通販と比べてどうなのだろ?その上ネットでのコマーシャル収入はラジオ業界を抜いたとも聞いたことがある。テレビもデジタル化やハイビジョン、そして最近では新東京タワーの建設も出ている。双方の相互作用でテレビ人間が多くなるかも?(笑)
しかし視聴者にとっては、NHK・衛星放送料金があり、その上に多チャンネルテレビや有料番組局がある。通信料の増加と同じようにテレビという情報量も増加する。NHKの不祥事が大きく取りざたされているが、そのうちに民営化が出てくるかもしれない。
ライブドア・フジテレビの争いの中に孫さんまでが?(堀江さんも球団は楽天にとられ、フジテレビは孫さんに取られるのかな?)
大きな転換期が来るのでしょうね。
【2006年】
「世にも美しい数学入門」
ちくまプリマー新書
藤原 正彦 著
小川洋子さんの「博士が愛した数式」の関連として読みました。藤原さんと小川さんとの対談として数学の美しさを表現しています。もちろん対談中には、「博士が愛した数式」にもお2人が触れながら小説とは関連しそうもない数学との結びつきを語られています。
「博士の愛した数式」の中には、数学の話しがたくさん出てきますので、この本は「博士の愛した数式」を読むにあたって(あるいは読み終わって)参考になるのではないでしょうか。
数学者藤原さんの純粋さを小川さんが引き出すというような形で対談が進みます。
広大な宇宙そして微細な素粒子の世界まで、自然界というのは厳然と存在をしている。人はその自然に向って五感を持って接する。接する中に自然への感謝や恐れ感じ、そして不思議さを感じる。ただ単に感謝と恐れを持って接しているだけなら、人は宗教的に自然を受け止めるだけだが、不思議さを感じてその不思議を解き明かそうとする中に人の科学的な進歩もあったのだろうと思う。自然をもっと解明しようとしたとき、人の持つ五感や思考だけでは足りなくなる。思考そのものをもっと深くするには五感だけでは足りない。
同時に人は、自然の中の限られた範囲だけに生き延びることができる。人は生き延びるだけではなく、その発展の中から自然に働きかけることをしはじめた。それは人の生きる喜びを増大するために不可欠である。
自然に対しての働きかけと、自然の持つ不思議さの探求は、車の両輪のようなものではないか。
人は星の観測をする中に農業を発展させたし、望遠鏡や顕微鏡も必要性から作り出す。自然に働きかけるものを作り、自然の不思議さを解き明かすための道具も作り出しながら発展してきたのではないか。
その中で、人が作り出したもののひとつに数学があったのだろう。
物を数えることからはじまり、計算すること、図形化することなど、数学は自然を受け止めるためにも解明するためにも役立ってきたのだろう。
今の時代のように、様々な部門において発達した社会でもやはり自然への働きかけと不思議さの解明は車の両輪となって歩み続けている。これは永遠に変わらないものであり、行き着くことはないだろう。
発達が進すみ、そしてその発達のスピードが加速度的に速まった中で、必然的に専門分野は細分化され、ますます分業制も発達をする。この分業は、ある意味人の精神活動と実際に必要なものを作り出すという理論と実践とも言うべき分業も発達しているのではないかと思う。人の精神活動においての理論的な世界観、これはあらゆる分野での精神活動により自然というものを書き表すことであり、この自然を書き表すことでの不可欠な言葉が数学でもある。
数学者藤原さんは、この自然を書き表すための数学を「神の手帳」を読み解く、あるいは新しい次のページをめくるように情熱を持って純粋に語っているのでしょう。
文学や哲学、社会科学や科学、様々な人の精神活動においての自然とのかかわりにはすべてロマンティズムがある。当然に数学にも数学のロマンティズムがあるだろう。特に純粋数学という学問は、今すぐに役立つかどうかはわからず、500年後に生かされるかもしれないという気の遠くなるような学問らしい。壮大なロマンティズムである。
数学には、純粋数学と応用数学という分類の仕方があるようだが、応用数学が、実際の科学発展に強く結びついた実践的な数学とするなら、純粋数学は、数学そのものを純化した理論的な数学といえるのかもしれない(この数学についての分類は、僕のような素人にはまったくわからない世界なのでこれは僕の感じたとらえ方です)。この点については興味深いサイトページを読ませていただきました。
「科学と数学の間」
(トップページは「科学と技術の諸相」です)
(この本や「博士の愛した数式」に出てくる数学者の名も出てきますので参考になると思います)
数学が科学に先んじて自然の姿を書き表すこともあれば、科学がその数学の言葉を具体化をして生きた言葉にし、新たな数学の発展を誘発することもある。ただし純粋数学は、どのように科学に生かされるかは予想はしない。面白い世界だと思います。
でも言えることは、応用数学よりも純粋数学のほうがロマンティズムであるということである。この本の中身も、現実の科学とはあまり接点を持っていないように思われる。
このロマンティズムは、文学が人の心というもつれたものを抽象化して一つの心の働きを描くものとすれば、純粋数学は、もつれた事象を抽象化して一つの公式として解き明かすものでしょう。この意味において文学と数学とが接点を持つことができたのかもしれません。
しかし、この数学の持つロマンティズムだけを引き立たせると、純粋数学を高尚化し過ぎるというものを感じてしまう。
これは藤原さんのもつ独特なものかもしれない。
それは、先に読んだ「国家の品格」に見られる西洋の合理主義を否定した日本の精神文化の高尚化としても現れるのである。
今の社会の様々な矛盾は、政治的実践の中から生まれたものである。もちろんそこには政治的な理論があったのだが、この矛盾を指摘をしてその解決を政治的な実践から提起をせず、その新たな実践の理論をあやふやな精神論的なものに置き換える。これもまたロマンティズムである。
やはり応用数学ではなく、エレガントな純粋数学の世界なのかもしれない。
【2007年】
新しいコーヒーショップを見つけた。
置いてあるパンなどもおいしいし、コーヒーも機械式だけど香もあるおいしいコーヒー。いつも行っているところはコーヒー専門店だけど、なぜかいまいちコーヒーがうまくなかった。なんか浮気しそう(ーー!
午前中は強い雨でした。昨日からの強風は少し弱くなったのでよかったですが、それでもベランダにも相当吹き込んできました。植木にもだいぶ雨がかかりましたが、花々にとっては気持ちのよい春の雨だったかもしれません。
【2008年】
今夜はブログからコピー。。。どもども
もう何年前だろ。。。
小さな川を渡った次の駅に
僕は誘われるように
降り立った
どうも不思議なのである
いつもの通勤電車の車窓に
桜の季節になると
ピンクの桜が満開になる
線路から五百メートルぐらいだろうか
小さな川のほとりにその桜は咲いている
しかし。。。。
朝の通勤には見えないのである
きまって宵から夜にその桜は見える
ぼうっと浮かぶようにその桜の木は立っていた
その日も桜が満開だった
暮れる宵の空には
春宵月
オレンジ色の欠け行く月が
ぼうっと低く浮かんでいた
小さな川を渡った次の駅。。。
降り立つと宵の暖かな空気が
僕を包み込んだ
僕はひきつけられるように商店街を抜け
小さな川を探してゆらゆらと歩いた
まだ宵というのに人通りが少ない
すれ違う人の顔が見えない
うつむいているのか。。。。
ぼうっと影のように見えない
やがて小さな川のほとりに
その桜は大きな桜だった
もう夕闇になり
桜は霞むように立っていた
一枚そして一枚と
花びらが散り始めた
僕は見上げた
春の風は心地よい
春の風は花びらを落とす
僕は一瞬めまいを感じた
花びらはさらさらと降る
「こんばんわ」
「いらしてくださったのですね♪」
僕は驚いて後ろを振り向いた
そこには透き通るような女性が
僕を笑みを浮かべて見ていた
「こんばんは。。。。」
白いワンピースがゆらゆらと
それは桜色に染まりつつあった
くるくると舞う
くるくると花びらも舞う
「ハハハハ・・・・」
春月夜に声が響いた
僕は周りを見つめた
そこは小さなお墓が
孤独に立つ墓地だった
僕は春月夜を見上げる
くるくると花びらは舞っていた
と、言うのも、一昨日の日記で書いた「春月夜」とか「幻の桜」という言葉に誘発されて。。。。
【2009年】
(記事なし)
【2010年】
僕は夕方の街にふらっと散歩に出た
心は空っぽのままに
やっと出た月の光に暗い雲が流れていた
歩きなれた道を歩き歩道を見つめ
公園に着いたとき僕は引き込まれた
もう誰もいない公園のベンチを見つめ
まだ葉が出ない木々を見上げた
さっき点いた街灯の光が消えて
公園の土を隠すほどに月の光が降り注いだ
僕が歩くと月の光は舞い上がりつつ
冷たく僕を包み僕を誘った
しばらく立ち尽くしているとそこは深い森となって
一筋の小道が光って森の木々を照らしていた
僕が小道を歩きはじめると空っぽな心に
孤独と悲しみの小道美しい孤独と悲しみと聞こえた
小道の先が開けて荒涼とした草原となり
たった一本の木が立っていた
近づいてみるとカサッと木の葉を揺らしながら
僕を見た妖精が木の実の裏に隠れた
草原の遠い先にはまた森が見え
僕は呆然としてまた立ち尽くした
「木の実を食べて」「さぁ、どうぞ」
二人の小さな妖精がいつの間にか現れていた
このとき僕は空っぽな心ではないと
重くて混沌とした心であったことに気付いた
僕は孤独と悲しみの小道を歩き
その孤独と悲しみの小道が美しいと知ったから
空には二つの月が光り冷たい光が風に乗り
一筋となって草原の先の森に吸い込まれた
「木の実を食べて」「さぁ、どうぞ」
また小さな妖精たちはつぶやいた
明日発売になる夏生さんの「カイルの森」のイメージイラストがホームページに載せられました。 こちら
銀色夏生らしいイラストですね。
かわいく面白いイラストの世界のもう一つの銀色夏生のイラスト世界です。
上は、ちょっとおふざけで「イメージ駄文」(笑)
【2011年】ツイッターつぶやき
銀色夏生「しげちゃん田んぼに立つ ばらとおむつ3」
(2011年2月25日 角川文庫より初版発行)
「ばらとおむつ」「珊瑚の島で千鳥足 ばらとおむつ2」に続いてのシリーズ3冊目です。
いずれのタイトルも夏生さんの母「しげちゃん」が脳溢血で倒れて入院したときに「しげちゃん」の看病をする夏生さんの兄「せっせ」がご兄弟・妹にしげちゃんの様子をメール通信という形で送った通信名です。1,2巻ではこのせっせのメール通信を紹介をしながら近くに住む夏生さんが訪れてはそのしげちゃんとせっせの二人の生活の様子を日記風に書きとめたり、夏生さんのお子さんたちの様子をも書いています。
夏生さんには20年ほど続く「つれづれノート」シリーズがありこれも日記風のエッセイです。この「つれづれノート」が一時中断しますがその間にこの「ばらとおむつ」の1冊目が出ます。ある意味同じような日記風のエッセイですからファンにとっては「つれづれノート」の穴を埋めるような感じで読めました。たしか夏生さんはどこかでこの二つのシリーズは違うものだとお書きになっていたと思いますが、たしかに中身は違いがあります。特に今回の作品はすべてせっせの通信だけを収めています。そしてシリーズ全体にしても「つれづれノート」は銀色夏生家、「ばらとおむつ」は本名山元家の二人の生活というものを感じますし、「つれづれノート」はもっと夏生さんご自身の内面を強くあらわしています。
上に兄せっせの通信と書きましたが、その意味では特に今回はせっせの内面が出てきていると思います。夏生さんの目を通さないせっせともいえるかもしれません。最後のページに書かれる夏生さんのせっせの姿のイラストと手書きの「いつも忙しいセッセ」というのが印象的です。
セッセの任務は大きく分けて二つある。
先祖から引き継いだ家や田んぼ畑、広い土地を整理していきほっぽらかしというわけではないがゴミや荒れた庭を整理していき、土地は売るべきものはうって隣や親戚ともめながらも境界をきちんとしてブロック塀を作る。しげちゃんが大切にしている梅ノ木にバラの木も。。。。写真を見ると整地された土地にぽつんと、屋根に穴があき廊下からは藤木が出てくる古い家が建っている。本では書かれていないのですが本からうかがえるセッセの性格からして一気に思うがままに整理したがあとから殺風景さにどんよりしてしまうのではないかとも思ったりします。
二つ目はしげちゃんの看病というのか老後の介護です。
デイケアーに行くしげちゃんの着替えから日常のいろいろな世話、年に1回の介護等級を決める面接にしげちゃんが元気であることをアピールする様子にがくっとする。しげちゃんが元気なうちは親戚との付き合いもあるわけで、軽トラックで奔走する。そして。。。。。時々ウンチが付いている服に愕然としながら洗濯。しげちゃんの痴呆症を気にする。そして寝たきりや排泄の世話が始まったときに介護も本番だと。しげちゃんの痔の世話をするせっせは。。。。
実際に介護をされている方のご苦労は大変だと思います。しかしせっせはそれをあるときは自虐的に、あるときは母親のいつか来る死を思い、あるときはしげちゃんと喧嘩をし。。。。しかしその中にあるのはしげちゃんへの愛情でしょう。生きている間は、元気でいる間はという気持ちが出ています。
だいぶ前の「つれづれノート」に夏生さんの家の棟上のときにセッセが酔っ払いますが、それを夏生さんは普通のおじさんだと表現していましたが、そう、普通のオジサンなわけでこの本の中でも酒量が増えていく。
せっせにはせっせの生活があり、その中に生きる。読者には読者の生活がありその中に生きる。何も介護が大変だということを書いた本ではありません。毎日の生活の中に生きる一人の人間の姿でしょう。その心にはさまざまなものが沸き起こってくる。けしてきれい事ばかりやしげちゃんへの愛情を美化しない。今の世の中特にネット上には観念論的な美化された言葉が流れそれを下に人を非難する動きもある。同じように生活をしている、そこにこそ喜怒哀楽がある。これを強く感じます。
今回の本では夏生さんが見たしげちゃんとせっせは見えません。せっせのそのままの言葉をそのままに乗せたほうがいいという思いが出ているのかもしれません。それが編集して本にするというある意味せっせへの感謝の気持ちかもしれません。あるいは二人の生活だから二人がどのように生活していくかを見たいというものも?夏生さんご自身も東京に残る娘さん「かんちゃん」と宮崎に残る(東京の学校になじめない)長男「さくちゃん」の間を行ったり来たりの生活。その中に夏生さんの今の生活の中に生きている。
いろいろな生活はそれぞれ一人ひとり違います。
しかしその中には同じ喜怒哀楽がきっとあるわけです。同じものが形を変えて現れるそれが日常の生活です。それをどう生きるか、どうあるときには楽しさにしていくのか。。。。それが大切ですね。
楽しさに変えるという意味では、せっせはこのような通信を書くことで自分を客観視できますし、このような形で本にもなるということに楽しさを感じているのではないでしょうか。自分を客観視することの大切さは、ブログなどでもできるわけです。そんな時間を大切にしたいですね。
【2012年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
【2013年】ツイッターつぶやき
解雇規制の緩和については時々ネット上でも見かけるが、安倍内閣により本格的に検討されるようである。
しかしこの解雇規制の緩和からの労働力(雇用)の流動化がなぜ必要なのかは見えてこない。誰がどのような理由で必要なのか?
昔から経済の発展段階においてスクラップ&ビルドが必要とされ、急激に発展した競争力のある産業が生まれた場合そこに資本と労働力を移動させる必要があった時もある。もちろんこの時も解雇というのは最後の手段でした。しかし現在はこの経済の発展もなく労働力が足りなくなるような新たな産業は見当たらない。ではなぜ今解雇規制の緩和なのだろうか?
この点で一つの考え方を現している「解雇ルール確立で新陳代謝を 雇用の流動化で新たな雇用を生み出す」という産経新聞のネット記事があった。
多くの経済学者等が解雇規制の緩和・雇用の流動化を言う中でなかなかどこに視点があるのかはっきりしたものが見えなかったのですが、この記事はある意味本音を出しているのでしょう。
経済協力開発機構(OECD)によると、日本は正社員の解雇が先進国で最も厳しく規制され、それが産業活性化に不可欠な雇用の流動化を阻害しているという状況がある。正社員が既得権益化し、非正規社員との待遇格差も生んでいる。 (上記リンク記事より引用)
この情勢の見方は正しいだろうか?
「正社員が既得権益化し、非正規社員との待遇格差も生んでいる。」というが、これは公務員の既得権益と民間を比べて公務員給与などを下げろといった論法に酷似している。日本はもともと正社員数が多く派遣法の改悪により派遣労働の範囲が広がったという経過がある。その過程の中で正社員数は激減をして派遣労働が増え、また非正規社員数全体も増えてきた。それは雇用形態の変化にとどまらずに低賃金化への経過でもあったのではないか。またこの非正規労働だからこそ解雇も自由になったのではないか。「正社員が既得権益化」したのではなくて非正規雇用の様々な労働条件の切り下げであったのではないか。公務員が条件(賃金など)を拡大して民間が相対的にひどくなったのではなくて、公務員はそのままで民間が絶対的のひどくなったのであり、同じように正社員の条件が拡大して相対的に灯式雇用者がひどくなったのではなくて正社員もひどくはなったがそれ以上に非正規雇用者が絶対的にひどくなったという事でしょう。ですから「正社員が既得権益化」という見方は適切ではないし、正社員も非正規雇用者並みにと言っているにすぎないのではないか。
ですから「産業活性化に不可欠な雇用の流動化」というのは、正社員の賃金をはじめ労働環境を切り下げることが産業の活性化につながるという意味にとらええる。
日本の労働者の賃金は正社員も例外ではなくて下がる一方だった。派遣労働の拡大などの非正規雇用の増大は雇用の流動化そのものだったはずです。しかしこのような日本が経済的に成長路線をとれたかと言えばそうではない。リーマンショックからの立ち直りでは一番遅いとも言われてデフレに陥った。このようなこの間の労働政策により企業はその利潤を維持しようとした安易な利潤追求の矛盾が現れているのではないか。まだ正社員という中間層が経済を支える主流となってもいたがその中流層自体を減らしてしまった。
この記事の中身はさらに企業利益維持のために正社員という中間層を減らせという事だろうか?
この記事では「新陳代謝」「雇用の流動化で新たな雇用」という言葉を使う。しかし新陳代謝の必要性はすでに団塊の世代が定年となり始まっていることである。そして年金支給年齢が伸びることによる再雇用が雇用の流動化として始まっている。また、女性労働力の活用も言われており、新陳代謝あるいは新たな雇用という言葉が若い人そして非正規雇用者の正社員化に結び付くかと言えばそうではないだろう。高齢者や女性労働が新たな低賃金層として社会に現れる。その中において正社員の数が増えたり賃上げにつながる保証は何もないでしょう。
より多くの不安定雇用が広がり、多くの労働者は将来を見つめることもできない社会にさらに近づくという事です。
雇用の規制緩和は賃金奴隷を増やすでしょう。
【2014年】ツイッターつぶやき
先日「生産性の低下」というのを書きましたが、人の行動で生産性を上げるとして行われてきた賃下げは実は生産性の低下を招くとすればこれはひとつの皮肉でしょう。しかしこの皮肉こそが経済の法則性ではないでしょうか。保守政党も賃上げを言わざるを得ないというのも皮肉です。
経済活動はもちろん人の行為を通して形作られるのですが、しかしその行動が間違いならば経済はその人の行動に皮肉な答えを出します。結局人の行動は経済の法則にのっとった形でしか自由に行えないのでしょう。
より少ない労働量でより多くの商品を生産できるということはその商品の価値を低下させることができます。今の社会はコンピューター化とロボット化が進んでいるわけですからここからの生産性は飛躍的な発展でしょう。本来ならば労働時間の中でも安い商品を消費できる社会になったということで、安い商品が増えるということは生活費の費用を少なくするのですからそうは賃上げの必要性も薄れていくわけです。そうは成長を求めなくても人々の生活は科学の発達の中で豊かになるはずなんです。こういった社会を作ろうと人の行動が経済に働きかけるならそれは法則性にのっとったものですから人の行動が経済を矛盾なく働きかけることができるでしょう。
【2015年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
【2016年】ツイッターつぶやき
(記事なし)
【2017年】ツイッターつぶやき
「開花」と言っても桜のお話ではなくて、冬の間に出窓で育てていた松葉ボタンが開花しました。
赤い花が1輪。。。。。
今朝、だいぶ蕾が大きくなっていたと思ったら、帰ってきたら開花していました。
他の蕾もだいぶ膨らんでいますので1週間ぐらいすればいくつかの花を楽しめるようになると思います。
そろそろプランタに移し替えてもよい大きさに育っているのですが、まだ朝晩は冷え込みます。少し窮屈でしょうがしばらくは我慢してもらい4月の気候を見ながら移したいと思います。
先日蒔いた種もたくさん発芽してぽつぽつと松葉ボタンたしい葉が出てきました。
こちらは5月ぐらいちょうどい時期に開化すると思いますのですぐにプランタに移そうと思います。だいぶ多く種をまいてしまい密集しています。半分ぐらい煮まわて移してもよいのかと思っています。
トリニアが発芽しました。
1か月ほどで成長してやはり5月には開花かな。。。。。
松葉ボタンと一緒にプランタに植えるのが楽しみです。でも、ビオラも5月下旬から6月上旬あたりまで元気ですから植え植え付け時期も難しい。フリージアが4月中旬ごろまで策と思いますが、咲き終わってしばらくしたら球根をあげてトリニアを植えたいと思います。
そういえば去年のニチニチソウの小さなものが冬を越して元気になってきました。
これも植え替えねばならない。。。。
なんだかんだと言って忙しいです。
そういえばこのいろいろな花たちは去年の花から種を採ったり小さな芽を植え替えたりしたものですから、今年の夏の花は予算ゼロ円です。
gooお題お題「桜は開花しましたか?」
一輪咲きそうでしたが北風が寒い。。。。。
宵の桜の幻想。。。。
2008年に書いたものがホームページから出てきましたので採録
もう何年前だろ。。。
小さな川を渡った次の駅に
僕は誘われるように
降り立った
どうも不思議なのである
いつもの通勤電車の車窓に
桜の季節になると
ピンクの桜が満開になる
線路から五百メートルぐらいだろうか
小さな川のほとりにその桜は咲いている
しかし。。。。
朝の通勤には見えないのである
きまって宵から夜にその桜は見える
ぼうっと浮かぶようにその桜の木は立っていた
その日も桜が満開だった
暮れる宵の空には
春宵月
オレンジ色の欠け行く月が
ぼうっと低く浮かんでいた
小さな川を渡った次の駅。。。
降り立つと宵の暖かな空気が
僕を包み込んだ
僕はひきつけられるように商店街を抜け
小さな川を探してゆらゆらと歩いた
まだ宵というのに人通りが少ない
すれ違う人の顔が見えない
うつむいているのか。。。。
ぼうっと影のように見えない
やがて小さな川のほとりに
その桜は大きな桜だった
もう夕闇になり
桜は霞むように立っていた
一枚そして一枚と
花びらが散り始めた
僕は見上げた
春の風は心地よい
春の風は花びらを落とす
僕は一瞬めまいを感じた
花びらはさらさらと降る
「こんばんわ」
「いらしてくださったのですね♪」
僕は驚いて後ろを振り向いた
そこには透き通るような女性が
僕を笑みを浮かべて見ていた
「こんばんは。。。。」
白いワンピースがゆらゆらと
それは桜色に染まりつつあった
くるくると舞う
くるくると花びらも舞う
「ハハハハ・・・・」
春月夜に声が響いた
僕は周りを見つめた
そこは小さなお墓が
孤独に立つ墓地だった
僕は春月夜を見上げる
くるくると花びらは舞っていた
【2018年】ツイッターつぶやき
ここ数年3月から5月は野暮用と言っては怒られますが忙しい日々が続いていました。
今年も忙しくなってきた・・・・・・
「野暮用」が済んで帰宅する途中公園の夜桜がきれいでした。
ホッとしますなぁ。。。。。自然の美しさは。
なんだか政治の世界はどろどろとしたものが見え隠れしてきました。当事者の政治家も夜桜でも見て素直に国民のことを考えるべきです。
それができるのは平和と民主主義が発達した社会だけですが、その平和と民主主義を守り発展させるには政治の世界での闘争(国会内でも社会全体でも話し合いを作り上げるという意味において)が必要というのは一つの矛盾ではありますが。。。。。
そんな社会を今年もまた桜の花は見下ろしています。満開になれば雀たちが花の宴。。。。。
たくさんの花たちが生き生きと生長します。
【2019年】ツイッターつぶやき
以下ツイッターから
窮乏化も生存の不安定性にまで突き進む。
日本は先進国ですからこれまでは相対的貧困の度合いが問題になっていた。しかしこれからは相対的貧困の中に絶対的貧困が忍び寄るでしょう。
水道の民営化が行われれば生きるのに必要な電気、ガス、水道が利潤目的となる。絶対的貧困はこの基本的なものにも。
この絶対的貧困が忍び寄る国民の状態としての窮乏化は、同時に中間層の減少ともなり、相対的貧困自体も進む。経済は衰弱をする。この経済の衰弱は企業をも衰退させるだろう。ここにも窮乏化が。国民と企業(生産)に寄生する人々に窮乏化を持続させる政治的力が必要に。ここでも窮乏化は貫徹される。
これまでの発展途上国が内需や社会資本整備により経済の発展を果たしていく中で先進国の資本はその国々に移動する。中国のような発展を果たす国々がこれからも生まれるでしょう。先進国の相対的な退化が必然的に進む。これがグローバル経済の中身である。先進国が相対的後進国となる日が。国民の貧困化
中国はこれまでの先進国とは違う道を通りながら経済的覇権を果たそうとしている。まだ社会主義を言っているが、中身は社会民主主義に向かうでしょう。すでに経済成長を果たした上に内需の拡大による貧困をなくそうとしている。日本やアメリカとの思想的な違いは大きくなるでしょう。
アメリカや日本は、特に日本は冷戦の終結を自由主義の勝利として国民生活の向上を捨てた。
しかしその自由主義がもたらした中身が先のツイートにあるような国家的な窮乏化である。
容赦のない搾取と収奪が経済を発展させるという誤った生産性の向上が言われる。
究極なそして原始的な資本主義の終焉が
資本主義の発展自体の中に生まれる矛盾は、資本主義自体に内包する矛盾である。
一方では経済はより発展を求めることは法則である。
経済が発展しようとする一方において資本主義はその経済の発展を阻害するでしょう。
この根本的な矛盾は止揚される。
資本主義の生産力を残しながら社会的な経済システムを変化させる。貧困を作り出すのではなく、そして格差を広げるのではなく社会的な富の分配を平等に行うこと。これが資本主義が生き残る道であることを示している。これが社会的な新たな経済システムである。
富の平等な分配には政治的な自由と民主主義が作り出される。
資本主義の最終的な発展段階としての社会民主主義は不可欠です。
こうしないと資本主義的競争に勝てなくなる時期が来るでしょう。
真逆な日本が経済力も落ちてきていることで証明している。
このブログでも何度か原発がスクラップ産業だと書いてきました。
再稼働がはじまりましたが、原発の発電は電力会社にとっても重石になっているようです。もちろんまだ原発を使いながら減価償却や利益を得ようとしたり、国策ですから協力をしなければならない。減価償却といってもすでに40年過ぎの原発が多くなっているのですから、減価償却にどのくらい利益を上積みするかを考えているのでしょう。
しかし再稼働をしても原発の赤字は出ているようです。
朝日新聞に「原発支援に補助制度案 経産省」という記事がありました。
どうも原発の安全神話と同時に原発発電は安い電力だという神話も崩れ去ろうとしています。
福島原発の事故処理費用は税金に白電力料金に白国民負担で行われます。また多くの原発で廃炉が廃寺まりますがこの費用も電力料金反映していくでしょう。そのうえ補助制度です。
「消費者や企業が払う電気料金に原発を支える費用が上乗せされることになる」
「直近では、原発の発電量1キロワット時あたり約1・9円を価格に上乗せして売ることができる。日本の電力業界関係者は「赤字の原発が黒字になるくらいのインパクトがある」と分析する。」
(引用)
原発ゼロ状態で大停電は起きませんでした。九州では太陽光発電の受電を電力会社が一時行わないということも置きました。再生可能エネルギーが発展しているにもかかわらず政府は原発の再稼働をする。そしてその原発の維持費用を国民負担とする。
こんなバカげたことが2020年から起きるのです。
Co2削減のための原発であり、そのために補助精度を行うという理屈ですが、詭弁でしょう。原発事故がどのくらい環境を汚染したか。福島には地震や津波にも多くの被害を受けなかった町が死の町になりました。除染をして住民を戻すといっても若い人たちが戻れないような状態です。
Co2削減は何も発電に限ったことではないはすです。再生可能エネルギーの活用システムを構築する方が早いでしょう。そして経済的にも負担は減るでしょう。
【2020年】ツイッターつぶやき
今夜は爆弾納豆にしました。
なんだか物騒な名前ですがうまいです。
具材は。。。。。
納豆、山芋、ネギトロ用刺身、沢庵、わかめ、長ネギ、卵
納豆は小粒がいいと思います。山芋はすりおろします。沢庵は薄く切って千切り。わかめは小さめに。長ネギはみじん切り。卵は卵黄だけ。
これを器に盛り付けて食べるときに醤油か麺つゆをかけて・・・・・ぐちゃぐちゃっと。
酒のつまみにもいいし、アツアツのご飯にのせてもうまいです。
我が家の爆弾納豆の具材は上記したものが定番ですが、ネットで調べてみたら各ご家庭で具材は様々ですね。味付けも含めて具材は無限かもしれません。
キムチや韓国のりを使えば韓国風に。
チーズやオリーブオイルを使えばイタリア風などなど
納豆というものがそれだけ無限の食材に溶け込むということなのかもしれません。
納豆がコロナウイルス対策で取り上げられてから品薄になっていますが、やはり健康食として最高なんでしょう。そこに長いもを入れたりしますから最強の栄養食!ねばねばと言えば、夏はオクラのみじん切りも入れます。
【2021年】ツイッターつぶやき
明日から聖火リレーがはじまるようですね。
菅首相も行かなくなったとか、芸能人や元アスリートとかがリレーを辞退するニュースをぼうっと聞き流していたのですが、明日が聖火リレーの初日とは知らなかった。
福島事故原発では水位が下がり続けているそうです。今日のニュースでは排水路付近で汚染された得体のしれないゲル状のものが見つかったそうです。事故の終息とは程遠い状態である。福島の県民の皆さんを励ます効果はあるでしょうが、心の奥底に重いものをひそめた盛り上がりになるのかもしれません。
完全な形での開催は一般入国者は来れなくなりましたし、オリンピック開催自体が疑心暗鬼の状態です。オリンピック組織自体が女性蔑視などでボロボロ状態で、政治は首相のスキャンダル。
コロナに打ち勝った証どころか緊急事態宣言を解除していた大阪でも250ンほどの新規感染者が出たそうで、宮城県は第四波状態です。東京もまた400人を超えました。
選手団を送る国々でもロックアウト状態の国が。
このような中でマスコミなどで聖火リレーを盛り上げようとすればするほどむなしさが出るでしょう。しかし国民の応援は大きいという判断をしながら7月にずれ込もうとしているのでしょう。
【2022年】ツイッターつぶやき
東京との新規感染者数が先週より400人ほど増加をした。
すぐに増加現象と判断することはできませんが、下げ止まり現象は起きていることは確かでしょう。その下げ止まりも1万人にはならないまでも6千人から8千人程度の高い数字での下げ止まりです。
この原因がオミクロン株の変異株のBA2と呼ばれるウイルスが原因のようです。世界的にも感染防止の規制を解除した国々で再拡大が起きている。アジアにおいても香港や韓国で感染の拡大がけた違いです。東京ではすでに40%ほど置き換わっているようで4月には70%程度になると言われています。
東京でも今後増加現象が起きる可能性があります。
BA2がさらに弱毒化しているのかはわかりませんが、弱毒化しつつ消えていくのか?それとも新たな強毒性のウイルスが現れるのか。
どちらのしても重症者や死亡者は感染が拡大すれば増加していきます。
すでにまん延防止も解除されていますしGo Toも再開するといううわさが出ています。ワクチン接種で乗り切ろうとしているのでしょう。すでに5月過ぎには4回目のワクチンが行われるかもしれません。しかし素手の3回目の接種率は上がりません。人間の体の方が先におかしくなるでしょう。
すると、コロナ対策も野放し状態になりますね。
死ぬ人は死んで無症状者は闊歩する社会に。
【2023年】ツイッターつぶやき
ドイツが4月から残りの3基の原発を順次停止するらしい。
ロシアからの天然ガスを制裁としてそしてパイプラインの破壊により苦しい立場にあるでしょうが、その中で脱原発に向かう。どうも脱原発と同時に脱炭素もすすんでおり再生可能エネルギーとその中での水素エネルギーによりエネルギーを賄うようです。
政治的には脱原発での対立もあるようですが、この対立を乗り越えてきたのでしょう。
その対立を乗り越えるための原発への警戒が福島原発事故にあるようです。
汚染水問題が諸外国から批判され、まだ人が住めない地域を残している。住むにしても不安が残る。
その面では、福島原発事故を忘れようとする再生可能エネルギーも遅々と進まない日本とは違いが大きいですね。
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