【2024年】ツイッターつぶやき
昨夜はハンバーグにしようと思いひき肉を買ってきたのですが、どうもこねて焼くのはめんどくさくなった。
ひき肉の消費期限が25日なのでジレンマ・・・・・
一度面倒になると気持ちを入れ替えて作るというのは強い気持ち場ないとだめですなぁ。かといって消費期限もあるし、冷凍にするのも嫌だ。
仕方ないのでそぼろにしてみました。牛ブタのミックスですからうまいかどうか。。。。。
牛は臭みもあるので味噌を使ったそぼろにしてみました。
案外味つけもうまくいっておいしかったです。
しかし、ハンバーグのために買ってきたひき肉ですら量が多い。
残ったものは今夜キャベツなどを入れて卵をたくさん使いチヂミ風に。
やっと食い終わりました。
≪過去の記事≫
【2003年】
「よしもとばななドットコム見参!」
新潮文庫
よしもと ばなな 著
よしもとばななさんの公式ホームページにある日記を本としたものです。
僕の日記にも
なんだろう?なんとなく感じる違和感は。。。。。
たとえていうと、僕のようなまったくの一般人(凡人)が作家などの芸術家が集まるパーティーになぜか入れてもらったというのか。行ってみたのはいいけど、名前を聞かされても誰のことやらまったくわからず、親しそうに話している輪に入れずに一人ちんまりと見ているというような違和感かな?
と書いたのですが、ばななさんの才能や友人関係の広さ、その活動力。驚くばかりですが、そんな中にどうも僕は興味をもてなく、そしてなんとなく生活感がない日記ではと思いました。
もちろんばななさんのご家族のことやご主人のことも書かれていますので、まったく生活感がないというわけではありませんが、やはり庶民離れをしているというのか。。。。。
もちろんこの感じ方は、僕個人の生活からくるものだと思います。
やはり「作家よしもとばなな」の日記なのでしょうか?
作家としての日常を描いていると見ればそれはそれで楽しいのかな?
お子さんが生まれたそうですが、その中に「母親よしもとばなな」も現れてくるかな?その中で生活観あふれる日記も読めるのではないかと思いつつ、後に2冊を呼んで見ます。
夏生さんの「家ができました」をじっくり読み(見)ました。
新築の家の細部までたくさんの写真と解説の本です。「つれづれノート⑫」には、新築中のことがたくさん書いてありますが、丸太の年輪を壁に貼り付けるなどと楽しいことが書いてありましたが、そのできた壁の写真もありました。
ぱらぱらと本をめくったときは、写真の本だからすぐ読み終わってしまうと思ったのですが、解説を読みながら写真を見ていると、なるほど。。。と、写真を見入ってしまいます。
感じたのですが、家というのも夏生さんの作品なんだなぁとつくづく思いました。もちろんその写真も。夏生さんの趣味はもちろん、家に対する考え方が出ています。
楽しい本です!!
・・・・年末ジャンボ宝くじに当たったら、こんな素敵な家を海の見える南房総に建てたいです。。。。。ハハハ
これからはあるくのだ文春文庫角田 光代 著「これからはあるくのだ」この表題を本屋で目にして、きっと30歳代の女性が前向きに自分の人生を歩んでいくというエッセイ集かと思い買いました。
そしたら・・・・・
コンビニの前に自転車を止めて友人を待っていたら、急にじい様が転んで、角田さんの自転車が急にすごいスピードで走ってきたので転んだのだとウソをつかれいやな思いをしたので、もう自転車は乗らないで歩くのだというものでした(笑)
こんな面白い日常を描いたエッセイ集です。
しかしただ楽しいエッセイ集ではないと思います。この自転車のこともそうですが、何か「不安」が文章の中に感じます。
「記憶」というものがはじめのほうの何篇かに書かれていますが、自分の記憶にないことを回りの人たちが「あの時は・・・・・」と話す。このようなことが多い中で、自分の記憶というものに何かの不安を感じ、それが読むものにも伝わります。
また、あとがきには幼稚園の頃の思い出が書かれていますが、何もしゃべらず、怪我をしても泣かない子。こんなところに小さな子供の頃の思い出とエッセイに書かれている角田さんがダブり、それがなんとなく僕にとっては「不安」という感情が出てきました。
先に描いたじい様のことでは、いつ自分が傷害罪という犯罪者にされるかどうかわかりませんし、心温かいやさしさで着物業者に同情をして着物を買ったらだまされたなど、社会の中で生きていくうえでの「不安」あるいは圧迫感というものを感じさえしました。
また、この不安と同時に、結婚はしないと、友人たちと飲み歩いたり、こんなところに楽しんでいる女性と同時に、その裏側の寂しさも感じました。これはよけいなお世話な僕の感じたものですが。。。。。
エッセイの中には、「時間の隙間」という言葉が2,3度出てきます。
飲んだ帰りの誰もいない交差点、誰も住んでいない廃屋の中。
昼間なら人がたくさん通ったであろう交差点、誰かが生活していたことがはっきりわかる廃屋。でも、そんな深夜の交差点や廃屋に立つと、そんな現実から切り取られた当時時間の隙間に引きずり込まれるような感覚、なんとなくわかるんですよね。。。。。。
みんなが時間の流れの中に流れているはずなのに、一瞬その時間の流れから自分だけが取り残されているのではないかという錯覚。このようなことは僕も時々あります。
社会の中では所詮一人なんだというこんな角田さんの意識がうかがわれます。このようなことは、角田さん自身が好むと好まざるとにかかわらず、角田さんの生き方に自然にそなわっているのではないかと思います。
「孤独」です。
旅での孤独、その孤独は自分の家に帰り友人たちと飲んでしまえば忘れる。でも、またその中に孤独が違った形で「私と同じ存在感で持ってそこにある」
周りの暖かい友人、その中での孤独、この孤独から逃れるためのたび、そしてそのたびの中での孤独。。。。。。
そして日常の中に孤独が隣り合わせ。。。。。。。
以上のように、このエッセイ集には、不安、孤独、時間の隙間という主題があるように思えました。
また他の作品を読みたくなる作家です。
【2004年】
(記事なし)
【2005年】
乃南さんの「晩鐘」読み終わりました。
最後のページを通勤電車の中で読み終わったのですが、通勤電車の中というのも忘れ涙が流れそうになりあわてました。
悲しい結末だから涙が出るのではない。もちろんハッピーエンドだからではもちろんない。なんと言い表わしたらよいのか。。。やるせなさというのかな・・・
大きな流れに逆らおうとするが、どうしてもその流れに、気がつくと流されている。最後はその流れにただ呆然と浮かぶしかない。。。そんなやるせなさ。
そう、やるせなさ。。。
事件の被害者は、肉親を殺され悲しみ怒り涙を流すだろう。しかし長い時間がたつとその事件を忘れて悲しさや怒りがおさまるのではなくて、その悲しみや怒りの涙がどうすることもできないやるせなさという重いものに変化するのではないか?
小学生の加害者の大輔の末路も、自分では解決のできない事柄に対して流され流されながら気がつくトラストを迎える。大輔は眠たくて仕方がないという。これもやるせなさではないか?
真裕子や大輔そして建部のやるせない気持ち。
このやるせなさという涙と同じ涙を読者に残した、そんな優れた作品なのかもしれない。
しばらく、読み終わり呆然となってしまった。
乃南さんの作品は心を強くして読まないとずしりと心が重たくなってしまいます。
そんなわけというのではありませんが、川上さんの「東京日記」をさっそく読み始め、ようやく少し心が軽くなってきました。
「東京日記」の中で、川上さんが電車に乗り座っていたら、湯気も見えそうなおしっこが流れてきた。誰が漏らしたのか意図的にしたものか、みんな済まして乗っているというものがありましたが、電車の中というものはおもしろいものです。
この前電車の載ったら、まだまばらに座っているような状態でしたが、そのうちのぽつぽつと乗り込んでくる。そうすると、人間というものは方が触れ合うのを嫌ってはなれて座るものだが、このあとからぽつぽつと乗り込んでくる人が一瞬車内を見回してどの人間と肩を触れ合わせるか躊躇するのである。その一瞬を見ているとおもしろい。そろそろ寒くなり、電車にも暖房が入りはじめた。いつもは座席の端の角地から座席は埋まっていくが、暖房は、座席の真ん中あたりが一番きく。そこでこのごろは座席の真ん中から席が埋まっていくのだが、駅についてその暖かい座席が空いていると、肩が触れ合うことのわずらわしさを忘れて窮屈な真ん中の席に座ってくる。また、一度座ったところは温まっているので動くのが嫌なもので、そうは座席がいっぱいではなくても窮屈に並んでいる。この前も「席が空いてきたので少し端に動けよ」と両端の人に対して思ったのだが両側の人は窮屈に僕の肩に肩が触れさせ動かない。その後も席が空いてきたにもかかわらず僕と両側の人は3人で肩を窮屈に触れながらどんよりと座っていた。
【2006年】
ものすごく寒くなりました。
もう真冬のような寒さです。一気に冬がやってきたようなもので、面食らっています。
コタツをこの前から出しました。うつぶせになりコタツにもぐりこんで夏生さんの詩集を少し読みました。娘がやはりコタツにもぐりこんでテレビを見ていました。でも、詩集を読んでいると、そのテレビの音も遠い世界に響く音のような気がしました。
風邪がはっきりしなくて腰がすごく重いのですが、コタツの中で暖めたら気持ちよかったです。寒さは嫌ですが、こんなコタツに入ってののんびりした時間は好きです。
おっと、ここでうたた寝をすると風邪をぶり返してしまう。。。。
寒い中買い物に行きました。
頭の中は真っ白。。。。メニューが浮かびません。
ぼうっとしながら適当にかごに入れてレジで清算。家に帰ってきてからビニールの袋の中を見ながら、今日は何を作るんだったっけ?
なんだかボケています。
風呂に入ったら寝てしまいそうになった。
今夜は速く寝ます。
【2007年】
(記事なし)
【2008年】
(記事なし)
【2009年】
(記事なし)
【2010年】ツイッターつぶやき
河出書房新社発行 文藝別冊「銀色夏生 その瞳の奥にある自由」が発売になりました。
マルチな作家とも言われていますが、これまでの作詞家・詩人・作家そして写真やイラスト・最近では音楽を配信と、さまざまな角度から夏生さんのこれまでを見ることができる本です。そして「つれづれノート」などに見る生活者である銀色夏生もいらっしゃるわけですが、ご家族の今とその紹介も。
ずっとファンだった方にはこれまで見たことのない写真や文章も。またこれまで夏生さんの作品をお読みでなかった方には、銀色夏追っ手銀色夏生って?という疑問に十分応える本だと思います。
本屋さんで見かけたらぱらぱらとページをめくってみてください。ぐっと引き込まれてつい買ってしまうと(笑)と思います。
銀色夏生のこれまでの軌跡といった内容ですが、その軌跡の編集の仕方を通して現在の銀色夏生が表現されているのではないでしょうか?
書き下ろしの文章やメッセージも含まれています。
この「文藝別冊」というのは、その編集は編集者が行うものと思うのですが、夏生さんの場合は、「責任編集 銀色夏生」となっています。ここにも夏生さんの読者へ何を伝えたいかという気持ちが入っているのではないでしょうか?ですからただの「銀色夏生ワールド」紹介の本ではなくて一つの作品製性がリます。
【2011年】ツイッターつぶやき
朝日新聞3面に「プロメテウスの罠」という原発事故に関する連載がある。
プロメテウスというタイトルがどこから来るのか調べてみたら、もしかしたら宮崎監督のインタビューによる「プロメテウスの火」から来ているのかもしれません。ゼウスに逆らって人類の文明の源である火を与えたプロメテウス。その火は人類の文明が発達する中で原子力という火を持ってしまった。しかしその火は人類自身が制御できないものとなり、もしかしたら神も手の施しようがないものになってしまったのか。
そんな人類が手に入れてしまった原子力(核)という火はその莫大なエネルギーであるがゆえに核爆弾にもつながって人類を何度も死滅させる武器となってしまった。人類の文明というものでの制御不能であると同時に人類の戦争という心も制御不能になるまでのエネルギーを持ってしまった。
プロメテウスは火を与えた罪によりゼウスから不死であるがゆえに永遠にその肝臓を切り取られる苦しみを持ってしまった。人類も同じくその苦しみをプロメテウスとともに味わうことになったのか。
人類に火という文明の源を与えてしまったプロメテウスが原発というを作りださせたというわけではないでしょうからプロメテウスの人類への罠ではないでしょう。人類自身がその文明に安全神話というものを自ら作り出してしまった自らの作りだした罠にはまってしまったのである。
人類はこの罠にはまってしまった誤りを正そうとして核兵器の根絶を叫ぶようになり、また今は原発のない社会を叫び始めた。しかし人類はまだその一部の人間の利益のためにそして核兵器を放棄しないためにまたその罠にはまろうとしている。
今の社会の中でその罠にはまってしまう人々は時に滑稽でさえある論理をふりまき、国家機関がそれを権力として認めるのである。
「プロメテウスの罠」記事に「無主物の責任」というものが3回ほど連載されている。
東電は事故によりばらまかれた放射性物質を無主物として東電の所有物ではないので除染には責任は持てないという。放射性物質はゴルフ場の除染を求めた裁判の原告であるゴルフ場の土地にあるのだからゴルフ場が除染をすべきという論理らしい。そこに国の法などの責任があるのだから国の除染や賠償の行方を待てということらしい。
ゴルフ場は放射性物質の所有権がある?
こんな滑稽な論理がまかり通って原発は維持されていき、また人類は罠にはまっていくのである。
たとえば、今後化化学工場などで火災や爆発などの事故があった場合、その企業はその爆発による直接的な死傷者がない場合、有害なガスや煙の所有権を放棄さえすればそれは無主物となり、そのガスや煙が流れて行った土地を所有する人々の所有物となりその責任において対処せよということが出てくるわけでしょう。いくら土地はその週者の不動産だが、そこに流れてきたものは所有物ではない。ゴルフ場は強制的な放射性物質の所有権を放棄をして東電に戻させなければならないだろう。
逆に考えれば、東電が事故など(油断して紛失するのも事故)重要な書類や金を紛失した場合、その書類や金をネコババしても所有はそれを拾った者のものになるということである。ばらまいた放射性物質には所有権がないが金にはあるというばかげた論理。。。。結局は放射性物質が無主物となるというのは、東電がその所有権を放棄したからということに他ならない。しかし金だって管理する義務があるのと同じく有害なものは管理をする義務がある。水蒸気爆発をしたとしても有害なものはちび散らないように管理する義務がある。この管理する義務があるなら放射性物質は東電の所有物なのである。権利放棄のできない所有物なのである。
【2012年】ツイッターつぶやき
一昨日の「自然
水中水準(2)」では賃金高や雇用者数との関係から利潤率への影響が語られているといった中身について書きましたが、利潤率は労働力を買う場合にもその価値によって買うわけですから他の原材料を買うのと同じで利潤を得るには価値通りの値段で買ってそれを消費して商品をつくる中で得られるものです。今は労働力も買いたたかれて安く雇用売ることが企業の利益だといった謝ったものがはびこるようになってしまいました。しかし利潤率の一定化と商品価値(市場での価格)は下がるのが法則だといった視点で考えるべきかと思います。
以下、以前書いたものの再録ですが、長いのであくまでも自分自身のおさらいとしてこちらに乗せます。(まとまらずにわかりにくいです。自分でイライラする(笑))
「労働の生産性の向上は商品の価格を下げる。社会的合理性は賃金を下げる。
これはデフレと勘違いをされますが、社会的な経済政策の変更によっては社会の発展となるわけです。
そこにはもう少しなぜ商品価格は下がる傾向になるのか、賃金はなぜ下がる傾向になるのかを見なくてはならない。 」
と書きました。
ある商品を生産するには生産手段と労働力が結びつかねばなりません。企業は生産手段と労働力を買うわけですが、それは生産手段を買うための不変資本と労働力を買うための可変資本を投資します。ここでは生産手段も労働力もその価値どうりに支払われます。
労働の生産性が高まるというのは、より少ない労働力でより多くの商品を生産することにあります。そのために機械化は進み生産システムは合理化されます。例えば、ある企業が今までは1000人の労働力を使って年間10万個の商品を作っていたとします。この中で生産性が高まり、極端な数字ですが、年間20万個の商品を生産できるようになったとします。すると可変し本領資本量は変化しませんが不変資本は新たな工場や機械を導入したり原材料も2倍になるわけですから可変資本に対して不変資本は大きくなります。または市場を見て20万個の商品は過剰という見通しを立て今までのように10万個の商品を生産するとなると必要な労働力は500人と半減をします。
ここで何がおきるかといえばこのような労働の生産性の向上は不変資本に対する可変資本量の変化として現れます。この変化は生産のための不変資本と可変資本の有機的組成を変化させます。
この企業は市場に倍の20万個の商品を出すか、同じ10万個の商品を出して500人首を切るかを選択するわけです。
このような中で何がおきるかといえば、上の企業と同じ商品を生産する産業があるわけですが、その産業全体で同じことが行われるわけですから、市場にはあふれるような商品が投げ出されるか、その産業内においての労働力の削減が行われるわけです。商品の過剰生産か失業が不可避的になります。そしてこの生産性の向上は、国内、現在では全世界において行われ、資本主義生産は過剰生産と失業という矛盾を引き起こさざるを得ません。
次はこの矛盾を引き起こす原動力となるものが何かをみなければなりません。
労働の生産性は同じ労働力量に対してより多くの商品を生産し時には過剰生産というものも生み出し、もしくは労働の生産性が高まる中でその商品量を同じにしたとするならばそこに必要な労働力量は過剰になり時には失業を生み出すと書きました。
もちろん市場における好景気時はその商品の消費量は個人消費という形でより多く消費をされ同時に設備投資という中での消費も盛んになります。しかしこの好景気にも個人消費には限度があり、設備投資をされた不変資本は最終的には大衆消費財として個人消費のための商品に価値移転されるわけですからこの設備投資という消費も限界になる。やはりこの帰結の中に過剰生産と失業はすでに内包しているわけです。
常に過剰生産傾向と失業傾向は生産性の向上の中において必然性を含んでいます。
このように一つの矛盾を引き起こす生産性の向上がなぜ急速にすすむのでしょうか?
よく言われるのは生産性の向上はあたらいい商品をよりやすく生産をして国民生活を豊かにすることが目的であり、だからこそ人々は生産性の向上に取り組んでいくのだと。しかしこれは動機と結果が逆転した結果論にほかなりません。労働自体は生活を豊かにすることは間違いはないので、人々が労働することからこそ国民は豊かになるわけです。ここでは新しい機能性に優れた商品を生み出すといったようなことは、何も生産性の向上に関係なく生まれていきます。ただ安い商品を作り出すことが動機なわけです。これが動機ですから安い商品を市場に流通させることが生産性向上の原動力なわけです。目的なわけです。この目的と結果は一致するとは限りません。国民生活を豊かにするというものは直接の目的ではないからある場合にはこれが結果として出てくることは限らないのです。ここに過剰生産と失業という結果が同時に出てくるし、労働の生産性の向上が一つの矛盾として現れます。
生産性の向上というその動機と目的は商品価値を下げるということです。そしてそれは競争に支配されいます。この競争はより多くの利潤獲得と生き残りの競争です。これが生産性を急速に推し進める原動力です。
より多くの利潤の獲得といった場合、市場の中で見えやすいという点では、ある商品の中である企業が作る商品の性能や機能性そしてデザインなどといったもので売り上げに変化がおきます。しかしこれらの付加価値はその商品の使用価値の高まりによるもので価値自体が高くなったわけではない。同じ労働力を消費した商品は使用価値を高めることはあっても価値は高めない。今年爆発的な売り上げをした自動車は、他の企業が同じものを売り出すと価格が下がった。価格が下がったというのは、価値が下がったというのではなくて使用価値が特別なものであったがそれが特別なものでなくなったからの価格下落で、その自動車の価格が価値に近づいたということです。自動車産業全体の同じグレードの車はその価値によって価格が決まるというのが基本で、長い市場の流れの中に価値は基本的なものであることは経験としても見ることができるでしょう。
商品はどのぐらいの労働力量を消費したかでその価値は決まる。そして労働力を消費している過程である労働が商品という形を形成したり他にはない上のような付加価値もつける中に使用価値を形付けるという労働価値説から商品をよりやすく生産をし、利潤を高めるという中の競走を見なくてはいけない。
ある商品をつくる産業内にABCという3社があったとする。この3社は生産性の違いがある。
A社は100人あたりの商品の生産性は年間5万個とする。
B社は100人あたり10万個。
C社は100人あたり15万個。
少し極端な数字ですがその生産性の違いをわかりやすくしておきます。
上の生産性は労働力を「100人あたり」としての比率であり、3社にはとうぜん生産規模は異なります。また、商品のデザインなどという使用価値はここでは考えずにその商品の価値はどのくらいの労働力を必要としたかの労働価値説としてその生産性を考えます。そしてその労働力は価値どおりに買われ賃金として支払われ3社共に同じ額とします。
この3社で生産された商品が市場に出ます。
一つひとつの商品の価値は市場価格として現れます。当然にA社の商品は市場において高くなり、C社の商品は安くなります。B社の商品が平均的な価格となります。各社の生産規模の違いなどもあり市場の中での商品量の中で市場価格がB社が生産した商品の価格に一致したと過程をします。それを仮に10万個の商品の価格を100億円とします。
するとどういうことがおきるかといえば、100人あたりの労働力としては、A社は同じ労働力を使ったにもかかわらず5万個の商品50億円の売り上げしかありません。それに比べてC社は15万個150億円の売り上げが出るわけです。同じ労働力量を使ってもその売り上げに大きな差が出ます。平均的なB社は10万個の商品で100億円の売り上げがありますが、この平均的なB社を基準に見ると、A社は生産性が極端に低く、C社はそうとう高い生産性となります。
各社の商品の価値は市場の中で平均的な価値に落ち着きそのある商品の価値を決定する。するとA社の利潤は低く、C社の利潤は高くなり、B社が平均的となります。しかしここで注意をしなくてはいけないのは、生産性が低いとはいえA社はけっして「赤字」ではない。ただ会社としての利潤が低いだけであり、労働者には何の責任もないし賃下げ理由にはならないことは後の議論には必要となります。
同じ労働力を消費しながらも市場においての利潤が異なる。一つひとつの商品価値は、C社は低いにもかかわらず平均的なB社と市場では同じ価格として売れる。この平均的な価値と本来の価値との差額を特別な剰余価値としてC社は手に入れるわけです。
この中においてA社はもちろんB社もC社と同じ生産性に高めようとします。C社は今以上に生産性を高めようとします。利潤追求のために。。。。
これが資本主義的競争なわけであり、商品をより安く大量に生産していくという原動力なわけです。
A社は100人あたりの商品の生産性は年間5万個とする。
B社は100人あたり10万個。
C社は100人あたり15万個。
というひとつの産業内のこの3社を別の角度から見ることにする。
A社は、不変資本(設備や原材料など)と可変資本(労働力を買うための賃金)に投資をして生産を行うわけですが、100人あたりという労働力が5万個という商品量に価値移転させる不変資本量は少ない。一方C社は同じ100人あたりの労働力が15万個の商品を生産するために不変資本量は多くなる。すると100人あたりの労働力への賃金である可変資本量は同じでも不変資本量は大きな違いを見せる。同じ可変資本量に対して不変資本量が大きくなる割合として資本の有機的な組成が高くなるわけですが、これは企業活動から見ると一つの生産拡大となります。
また、C社は圧倒的にその商品価値を安く生産できるわけですから(5)で診たように平均的な市場での価値(価格)で商品を売らなくても値下げをして市場での独占化を行うことができます。独占化はより多く生産された商品を売りさばくことにも有効なわけですから、商品を値引きしたとしてもそれは利潤の拡大となります。この独占化傾向は、C社がもう一つ同じような工場をつくる動機ともなります。ここに生産拡大というものが強くなります。
(5)でも書いたようにAB両社もこれに追いつけ追い越せと生産性を上げながら生産拡大を行います。
商品がより多く生産される拡大再生産されるというものは資本主義経済法則の一つの現れです。
ちなみにこの生産拡大によるより多く市場に出された商品価値(価格)はどうなるかというと、100人あたりの生産性の拡大の中では、その生産拡大は不変資本量の増加という形で現れることを上に書きましたし、C社がもう一つ工場を作り新たな100人という労働力を増やしたとしても100人あたりというものには変わりはなく資本の有機的な組成は変化しません。労働の過程の中により多くの不変資本が新たな商品に価値移転(機械の減価償却や原材料の消費など)されるわけですが、この不変資本は価値移転されるだけであり新たな価値を生み出すものではありません。新たな価値を生み出すのは、不変資本を商品という形に価値移転させる過程においての労働力量にほかなりません。ですから商品の価値は、不変資本量がどのくらい価値移転されたかというものにプラスされて労働過程でどのくらいの労働力量が消費されたかにあり、新たな価値創造として残るのは労働力の消費という形での価値の増加という商品価値となります。
C社が以前はB社と同じ生産性にあり、生産性の工場により現在の生産性に高まったと過程をしてみると、以前は100人の労働力量で10万個の商品を生産していたのですが、今は15万個になった。しかし商品に新たな価値としてプラスされたのは同じ100人の労働力なわけですから、以前の10万個の商品価値と現在の15万個の商品価値は同じとなります。これを一つあたりの商品価値としてみると、一つあたりの商品価値は以前より価値を減らしたということになり、市場における商品価値はsがっていく傾向を示します。価値どおりに売られれば商品は相当安くなります。
この商品の価値の低下による低価格化葉もまた資本主義的生産の法則性となります。これで資本主義の市場においての商品の低価格化と商品量の爆発的な生産拡大が資本主義的経済法則の必然であり法則性だということがいえると思います。
ではこの資本主義的生産がどのような帰結をもたらすのかということになります。
A社は100人あたりの商品の生産性は年間5万個とする。
B社は100人あたり10万個。
C社は100人あたり15万個。
(6)でも触れましたが、この労働の生産性の違いから生じる商品の市場価格がその価値からはなれて平均の価格形成としての特別な剰余価値を与える中での各社の利潤率はC社が一番高くA社が一番低くなる事を見ました。そしてここに資本主義的競争の原動力がある事を見ました。
この中でA社はもちろんB者もその生産性を向上させようとします。そしてC社と並ぶ生産性を得たと仮定します(C社の生産性は現在のある限界内にあり停滞するとします)。するとこのある商品を生産する産業内には平均な利潤が確定します。各社はそれぞれ100人当たり15万個の商品を生産することができるのですから、この産業をX産業とすれば
X産業は100人あたりの生産性は45万個
となります。
仮に10年前のX産業の生産性は低くてA社並みだったとすれば、X産業はこの10年で同じ労働力量(100人あたり)での商品の生産数が15万個から45万個の増加したこととなります。10年前と現在でも不変資本量と可変し本領の投資される資本は同じとすれば、それを分母として商品の総(100人あたりの労働力に対してですが)売上を分子にした場合、ある利潤率が決まります(追記:分子分母反対だったかな?)。しかしこの生産性の違いにより何が異なるかといえば、生産された商品量にあります。ある一定の利潤を得るには、10年前は15万個生産をしていたが今では45万個を生産している。そうすると商品1個あたりを見るとその価格は3分の1になります。X産業では同じ利潤を得るのにより多くの商品を市場に出さねばならなくなったということです。
同時に特別な剰余価値を得られなくなっているわけですから市場価格は価値に一致してきます。
資本主義生産とその資本主義的競争がもたらす一つの帰結は、市場における商品量の増加と一つあたりの商品の価格は価値に一致をして低下するということです。
これは資本主義生産の無政府性として現れざるを得ません。
X産業では、より多くの利潤を求めようとすれば工場の新設や市場の独占化のために各社の潰しあいに頼らざるを得なくなります。これがまた資本主義競争として行われるようになります。そしてまたこの工場の新設の競争がさらに市場に送る商品量の増加とも結びつくことが起こります。しかしここでは先にも書いたように特別な剰余価値を得られなくなっていますから、企業の利潤率は上がりません。生産性の向上のない中に工場の新設だけでは利潤額は上がるが利潤率は高まらない。ここに企業あるいはX産業そのものにまず停滞感が現れます。
一方商品量は市場の中により多く出されるわけですしその商品量は無政府性の中にあり一度過剰感が出てくると各社の中では値下げ競争もはじまります。値下げといっても赤字になるわけではないが、利潤低下であると同時に剰余価値率の低下として現れ始めて企業の停滞感はさらに深まります。
その産業では株価が下落をして資金が他の産業に流れていくでしょう。今資本をより吸収する産業の育成とか言われていますが、それはこのことからはじまる一つの帰結菜わけです。
しかし以上のような現象が他の産業にも波及をしていくならば、一つの社会そのものが不況という形をとり始めます。
【2013年】ツイッターつぶやき
自らの生活の実態をあらゆる角度から見つめ直してこの社会でいいのか、憲法が保証するような生活が営まれているのかを考えてみようとするものでしょう。
もしこの社会が例えば社会保障が後退をして最低限の生活のその最低限がさらに低くなっているならその実態からその社会を見つめ直そうという提起でしょう。それは憲法を活かす積極的護憲となります。改憲反対はもちろん明文改憲の中身の検討からの反対も大切ですが、なぜ反対なのかを上に書いたように自らの生活実体の中から反対をしなければ力とならないでしょう。生活実態と言っても経済問題だけではなくて民主主義や自由がどうなっているのかといった中身からも。
秘密保護法案が衆議院で可決されましたが、たしかに直接国民生活には及ぼすものがないと見えますが、この法案の影響は考え方として社会全般に広がるでしょう。自粛という意識もそうですが委縮した社会が生活にどのような影響を及ぼすかです。それは今の格差社会や社会保障制度の小唄そして低賃金化などにまで及ぶものです。文化芸術もその中にあります。ですからますます自分の回りに起きている様々な現象をもう一度見つめることが求められ、その実態をどうにかしようという積極的護憲が求められるでしょう。
議会制民主主義はそれを選挙という形でも日常の世論としても機能していきます。
一人ひとりが抱える生活の実態は違いが出ます。しかしそれはほかの人とも多くの共通したものが含まれているはずです。それを集約するのが野党の仕事でしょう。あるいはマスコミの社会的責任でもあります。地道にその力で議会を変えていかねばなりませんね。
【2014年】ツイッターつぶやき
昨日も引用したがOECDは「日本は2014年に0.4%程度の非常に弱い成長にとどまるが、15年には賃上げや金融緩和効果を前提に0.8%成長へやや回復する見込み」(ロイター)と発表をした。さらに2016年も「16年は1.0%と緩慢な伸びにとどまるとの見通しを示した。16年の成長率は「先進国クラブ」とされるOECD加盟34カ国の中でイタリアと並び最も低い。」(毎日)
アベノミクスで力強く成長するとした中身がこれである。
もちろんマイナス成長よりはいいが、この数字からして下手をすればマイナス成長ということもあり得るだろう。
「インタビュー:「危ない橋」渡る日銀、円の信認喪失も」(ロイター)
多少の利益を得るために多くの支出をするということは企業としたら大赤字でしょう。これと同じことがアベノミクスにおいて現れているのではないか。多少の(利益を得た人というものも含め)成果のために多くの(損失を受けた人々も含め)損失を出した非効率性が見える。
2014年に0.4%の成長のためにどのくらいの国民の損失や犠牲があったか?
この0.4%の成長がどのくらい国民生活に帰ってきたか?
これは経済だけではなくて政治全般にも言えるのではないか?まずはわけのわからない衆議院の解散。
中国という仮想敵国に勝つための外交犠牲。そしてその中国も含めてだが韓国との外交上の「戦後レジームからの脱却」としての歴史問題での損失。拉致問題は親展ぜず、海外援助の垂れ流し。外交上は数多くの国々の首脳と会ったというがどのくらいの成果があったのか?尊敬されうに本になったのか?美しい国になったのか?
様々なところで非効率性が現れているのではないか?
【2015年】ツイッタつぶやき
(記事なし)
【2016年】ツイッタつぶやき
(記事なし)
【2017年】ツイッターつぶやき
自民党内での改憲への討議が加速していますが、ここにきて改憲四項目の一つ教育の無償化が、
無償化の明記ではなくて努力目標(朝日新聞)にする案が出ているようです。
もともと教育の無償化はとってつけたような改憲論であったと思います。現実としては大学などの無償化はすでに出世払いにといったものも出ていますし、幼児教育も一部は無償化とはならずに、待機児童はがさらに増加することが見える中で保育園数湯や保育士の数そして保育士の待遇など問題は山隅です。
この現実の中で改憲四項目の国民のためと言われる改憲案が後退をしてきました。
残るは9条と緊急事態条項そして一票の格差に大きく影響される参院選合区の解消となります。
教育の無償化は政府与党の公明党の声が大きかったように思えますが、与党内から見ても混乱が出ているのではないでしょうか。
結局は国民の利益から離れた国民を統治する視点からの改憲が残るものと思います。憲法は政治を国民のために機能させる役割がありましたが、改憲は政治が国民を統治するものへとなっていきます。
【2018年】ツイッターつぶやき
gooお題「ダイエットも忘れるコンビニスイーツは?」
今日、スーパーに買い物に行ったら、何となく甘いものが食いたくなったのでカップに入った善哉を買ってきました。スイーツは何でも好きですが、何か一つといわれればやはり餡子ですなぁ。。。。。
ですからやはりコンビニでも餡子系に手が伸びます。
コンビニの餡子系もまんじゅうなど多く置いてありますし、冬になればアンマンも🎵
しかしその中でもどら焼きですなぁ。餡子だけではなくて生クリームも入ったものが好きです。
餡子の甘さに生クリームの風味が混じり合わさってうまいです。
コッペパンもあんこだけではなくてマーガリンが入っているとうまいですね。
しかし最近、あんこの量が減ってきたような?
そういえば、パン屋さんに餡ドーナツをあまり見なくなりました。餡子がたくさん入っていてしっとりと揚げた周りに細かいザラメ状の砂糖がたくさんついているあの餡ドーナツ。。。。。
最近は結婚式の引き出物にあんこがたくさん入っていて鯛の形をした粉菓子(何と言いましたっけ?落雁ではないし・・・・)も好きです。
ロイターの記事に日銀黒田さんの言葉が載っていた。
『日銀による大量の国債買い入れについて、黒田総裁は「あくまで2%の物価安定目標を実現するという金融政策上の目的のために行っており、政府による財政資金の調達を助けることを目的とするものではない」と述べた。』(引用)
日銀の国債買い入れによって金融市場の貨幣量は増加をする傾向があるが、この間のアベノミクスと日銀緩和により2%の物価上昇は起きずに、すでに物価目標は放棄されたとみることができる。貨幣量の増加はドルに対して円の価値が下がりますから円安傾向となる。これにより輸出企業の利益を拡大しそこから日本経済の好循環を起こし、その経済の好転が国内の景気を向上(インフレ傾向)させることから物価の上昇が起きるということでしょうが、実際には先にも書いたように2%目標は放棄されている。一方では輸入品(エネルギーや食品(原料)等)は円安のために値上がりをして国民生活や内需関連企業は苦しむ。悪性の物価高が経済に対してデフレ圧力おなる。
一方、金融市場に流れる資金は社会の中で活用されずに塩漬け状態になっている。そして長期国債は人為的な政策によりマイナス金利としたがその塩漬け状態には大きな変化はない。
これは何を意味するか?
貨幣資本が新たな起業も含めた設備投資や賃金という資本に転嫁できない状態になっているということでしょう。
貨幣量は変化しない場合でも貨幣資本が資本に転嫁できない場合は、それは一つの金余り状態にあるということです。デフレ不況というのは貨幣量が足りないからではなくて、貨幣量が余っている状態なのです。それなのに日銀は貨幣量を増加させた。さらにカネ余りは深刻になるでしょう。それが副作用の顕在化に。
アベノミクスは変質をして積極財政になった。
もちろん社会保障ならばその必要性はあるのだが、消費増税も含めて公共事業に金を回し始めている。国家財政の健全化は忘れ去られた。この中で日銀は今後も国債を買い入れるでしょう。政府は消費増税10%に向けて税収増による財政再建は無理になっている。
こう見えれば日銀の国債買い入れは財政ファイナンス以外のものではありえない。
【2019年】ツイッターつぶやき
一昨日すーぱでゆずを見つけたら急にナマスが食いたくなり買ってきました。大根と人参のシンプルなものです。
半分ナマスに使って残りを冷蔵庫に入れておきました。
東京は昨日より一気に12度も気温が下がり寒い一日でした。こう寒くなると風呂が楽しみですなぁ。
今日11月26日は「いい風呂の日」だそうで、冷蔵庫の中の柚子を思い出しました。
柚子の香りに包まれて、柚子の成分がピリピリと体を刺激します。
風呂上りもずっと暖かでこのまま布団へ入れば気持ちいいでしょおうなぁ。
柚子の成分はもちろん食っても様々な効果があるようですが、風呂も温め効果のほか疲労回復などの効果があるようです。でも、一番の効果はあの香りですなぁ。精神的にもいいのかも。。。。。
これから本格的な冬になりますが我が家ではほとんど柚子を切らしません。
時々柚子ジュースが飲みたくなるのですが、やはり体が欲しているのでしょう。
【2020年】ツイッターつぶやき
新規感染者数の増加に伴い重症者数が増加している。
東京では少し前に30名程度でしたがそれが60人へとほぼ倍増している。全国的にもベッド数が足りないというニュースが出ていますから東京と同じ状況ではないかと思われる。
第二の波の時には東京知恵場新宿歌舞伎町でのクラスターにはじまり繁華街で感染拡大があり、若い人たちの感染が目立った。しかし今回の波では高齢者の新規感染が増加をしている。第二の波から新規感染者数が大きく減少することもなく若い人たちから職場内や家庭内感染が徐々に広がったのではないか。
高齢者は重症化するケースが多くそれは死にもつながる。
新規感染者数の増加については、政府はGo Toでの影響はないとしますが、現実は専門家のGo To中止の意見によりGO Toを一時的に中止をした。このこと自体が専門家も政府もGo Toの影響を認めたことに等しいでしょう。口が裂けてもGo Toの影響は言えないでしょうから政府は専門家の意見だとして逃げているだけです。
しかしこのGo Toの一時停止にしても国と都では互いに牽制し合い、国は都からの要請がないとし、と白に政策だから国が決めるべきとする。どう見ても都側の主張がもっともなのですが、国はかたくなに都の判断を待つようです。
重症者数の急増は命の問題といえます。
その命の問題を国は自己の責任回避として各自治体に責任を押し付けている現状にあります。国民の命を蔑ろにしています。
【2021年】ツイッターつぶやき
新変異株が南アフリカで発生した。
すでにアフリカ内6か国で感染が広がりつつあり、イスラエルや香港でも確認されたようです。
これまでの新変異株での感染の広がりは早いですから今回もかなりのスピードをもって広がる可能性があります。
すでにイギリスの研究者は「これまでで最も重大」といいワクチンの有効性を確認する必要があるとしています。
日本は水際対策を解除していましたが急遽アフリカ6か国からの帰国者などを10日間隔離をするとしました。しかしこの日本の水際対策は過去いずれも失敗をしており感染の拡大を防げませんでしたから今回も危ないでしょう。すでに入りこんでいる危険性を否定できるでしょうか。
すでに世界中に広がっているのではないかという懸念を感じます。アメリカやヨーロッパそしてアジアでは韓国での新規感染者数が急増侍ています。ブレークスルー感染だとも言われています。しかしこの急激な感染拡大はブレークスルー感染だとするには急激すぎないでしょうか。
寒くなった北海道では二桁の新規感染者が出ています。
12月に入って日本全国の感染者数はどうなるか。。。。。
【2022年】ツイッターつぶやき
ネット上で時々見られる言葉に批判に対して「そんなに嫌なら日本から出ていけばいいだろ」とか「会社の方針がいやなら辞めたらどうか」といったものがある。そこから反日だとか不満分子だとかという烙印が押される。
これは力のある者や専門家に対する批判がしにくい雰囲気を作り出さす。
子供のころから学校で批判的な思考が詰められる社会ですとこの社会は無批判的に従う社会が作り上げられる。
この無批判的な言動が美徳にさえなってしまう。
今の日本はこういった社会になっているのではないか。
批判をする者は異端分子になります。
ここに民主主義が失われる。
マスコミや野党に対して「反対ばかり」だとか「批判ばかり」だとかという人々も多い。しかし反対意見や批判がない社会は発展がなく停滞する政治社会になる。
労働者が生活を切り詰めることが国家を支えると我慢をすれば、結局はこの日本の経済を委縮させていく。
政治的多数派選挙によってつくられるが、多数意見が常に正しいかといえばそうではない。その多数意見を批判的に見て間違いならば少数意見に従わなければならないでしょう。選挙結果が民主主義ではなくて少数意見を異端視することがない社会が民主主義なのです。
今の自民党は圧倒的多数を得ている。しかし政治の腐敗は止まらず企業や富裕層(不労所得)に富を集中させるために経済は動かされる。ここを批判してはまずいのだろうか?いつまで消去法で自民党でなければならないと無批判的な国民でいなくてはいけないのか。
気が付けば民主主義の土台が壊される時代です。
【2023年】ツイッターつぶやき
大きい鶏の胸肉を買ってきましたが、大葉を挟んで天婦羅にするか焼くかしようと思ったのですが、いつも作っているので少し飽きたのでどうしようかと。。。。。
そこで佃煮にしたらどうだろうかと作ってみました。
2センチ角ぐらいに切って千切りショウガを入れて時間をかけて煮詰めてみました。
調味料は、砂糖、みりん、醤油だけです。
ほとんど汁けがなくなるまで煮詰めたら出来上がり。
しかしどうもねっとり感が出ない。
水あめでも入れるのでしょうか?
でもおいしかったです。昔たしかクジラだと思うのですがその佃煮やマグロの佃煮にも似た食感です。でも、胸肉ではだいぶあっさり系になりました。