夕螺の一言日記

毎日心に浮かんだことなどを書いてみたいと思います。。。(2014年3月13日開設)

「12月15日という日」

2024年12月15日 08時20分52秒 | 「何を思ってた?」(旧ブログまとめ)
【2023年】ツイッターつぶやき
東京は、夕方まで寒い風が吹いていましたが、さっき、ベランダに出たら生暖かい西風が吹いていました。ベランダに出た瞬間弱い暖房の風のようでした。部屋の中の方が寒い。
週間予報では明日は22度ぐらいまで気温が上がるそうでしたが、予報が外れて19度だそうです。
11月の気候でしょうか。
しかし月曜日からは最低気温が1度から3度らしい。。。。。
体がおかしくなりますなぁ。
でも、暖かい日が1日でもあると嬉しいものです。
来週は夏至冬至です。。。。

≪過去の記事≫

【2003年】
昼食は、久しぶりに喫茶店のナポリタンを食べました。
ケチャップ味でピーマンの苦味が利き、あの赤い皮のハムが。。。。
たまに食べるとおいしいです。

(記事の一部を削除させていただきました)

【2004年】
寒いのでモツ鍋にしました。
肉団子・モツ・キャベツ・薬味として生姜とニラのシンプルなものです。相変わらずキャベツは高めです。
あと、アジのソース焼き。
アジの切り身を小麦粉をつけて焼き、ウスターソースと砂糖スープの素そして水少々のタレを絡めます。このアジのソース焼きは、僕にとってはおふくろの味。子供の頃よく食べました。とは言え昔は生のアジは高かったので味の干物でした。しょっぱかったです。。。
アジを焼いてウスターソースとは合わないようですがこれがまた美味いです。

【2005年】
外食
時々行く中華やさんによったら貸切の宴会中。。。
忘年会シーズンですなぁ。。。
仕方ないからラーメン屋さんでビールを飲んで帰って来ました。
東京も冬は星がきれいです。火星が黄色くピカピカ光っていました。三星もきれいでした。
「百鬼園日記」も半分ほど読みました。
海軍師範学校の講師をやり、内職にドイツ語本の翻訳をやり、祖母や母、三人の子を育て、祖母は生きるか死ぬかの病気をし、子供達は替わりばんこに風邪を引く。大正の世は今と違って気楽に祖母を入院させるような時代ではなく、医者も往診。看護婦まで自宅に呼び看護をさせるそんな時代。百閒は借金をする。この辺の事情は随筆にも見られます。長男の小学校入学を控え動き回る。友人の相談にも乗る。
30歳そこそこの百閒は四苦八苦。
妻は50銭の金もないという。学校に行く電車賃すらない。百閒は金策に行く。借金の利子は雪だるまのよう。
百閒は四苦八苦。。。
しかし百閒は気楽そう(ほんとは首も廻らないほどに悩むが)。

【2006年】
(記事なし)

【2007年】
朝のうちは寒かったですが日中は風もなく暖かでした。
冬は日が短く太陽も低いですが、ベランダの屋根があると太陽が低いぶん日差しがその屋根に邪魔をされずに部屋の中まで差し込み暖かいです。縁側でもあれば日向ぼっこでもしたいです。
昨日、珈琲ショップに行ったら、向かいの席に70を過ぎたおじいちゃんとおばあちゃんが座っていました。はじめはご夫妻かなと思っていたのですが、もれ聞こえる話はどうもご夫婦ではなさそうでした。<リンク>
なんだか若いカップルのようにしっかりと目を合わせながら楽しくお話しをしていました。お二人とも素敵な笑顔でした。そのおじいちゃんがまたハンサムでして。。。。若い頃はもてただろうなぁと。

【2008年】
(記事なし)

【2009年】
(記事なし)

【2010年】ツイッターつぶやき
街を歩いていたらいきなり一人の人間らしきものが近寄ってきて「お前は!」と大きな声で指さしたかと思ったらすぐに「バカだ!」といって去っていった。去り行く後姿をみていたら今度は他のオヤジやらおばさんやらに同じ言葉を繰り返していた。そしたら後ろからやはり人間らしきものが「そうだ!言論の自由だ!!表現の自由だ!」と叫んでいた。
あるオヤジが僕のところにきて
「言論の自由や表現の自由はいらないですなぁ」といった。
僕は
「いや、まぁ。。。。。その・・・・・」
と言葉を濁しながら
「いらないというのはあのような言葉ばを人に投げつける言論の自由や表現の自由といったものは必要ないということでしょうか」
「まぁ、そういうことですが、あれを自由だと言うことは自由を汚して自由自体を規制されたり自己規制を強いられるでしょう」
「なるほど。。。。。」
おばちゃんがやってきて言った
「そうなのよ!こうして自由とは何かを話しすることが今の言論の自由に大切なのよ」
「自由だといって人のことを非難しているだけでは自身の自由が本物かどうかが見えなくなりますなぁ」
「そうだ!言論の自由だ!!」オヤジやおばちゃんは叫んだ。。。。。

【2011年】ツイッターつぶやき
今、公務員の給与や様々な待遇について恵まれているとか国の借金を見たときに賃下げすべきとかいろいろ言われています。民間給与に比べてこれだけ高いとか言われて賃下げをすべきとも。しかしバブル時期のような民間の給与が高くなった時に公務員は人事院勧告では賃上げ率を下げられひどい場合にはその勧告すら守られなかった時期もあったと記憶しています。公務員の声は「民間並みの賃上げ」でした。この時に民間の労働者が「公務員給与をあげろ!」と積極的に言った人はそうは多くない。
もちろん当時から国の予算(財源)や借金あるいは三公社五現業の「親方日の丸」が問題視されていましたが、公務員の給与が高すぎて国の財源が狂ったというわけではなくて、国鉄ひとつとっても整備新幹線があった。
今は民間給与が減ってきて逆に相対的に公務員の給与が高くなっている現象が出ている。もちろんこれは民間級の平均値なわけでして、「公務員並み」やそれ以上受け取っているサラリーマンはいるわけです。
このような民間と公務員との比較はいつも出てくるものです。特に今のような時代は公務員に目が行く。公務員の賃金を下げるといって自分の給与が上がるものではないのに。そして消費税率などの増税幅が小さくなるわけでもないのに。結局は足の引っ張り合いなのです。この足の引っ張り合い自体がマイナス思考という泥沼を作ってしまう。公務員も民間もそろってこれからも賃下げや労働条件の悪化もされていくわけで、マイナス思考はこれを促進する作用しか持たないのです。
バブルの頃、公務員は「民間並みの給与を」とは言いましたが民間の給与を下げるとは言わなかった。民間は春闘をはじめとして70年代後半に大幅賃上げをした。公務員もある程度民間準拠として賃上げがあった。80年代初頭でも賃上げ率は減ったものの賃上げはあった。このようなプラス思考に写らないと労働者は民間も公務員も疲弊をするばかりです。同時の我慢のマイナス思考ではないプラス思考が国内の経済も好転させるでしょう。税収も増えるでしょう。
企業は競争の中で自分の会社だけ個の賃上げはできない。ならばこの競争を廃する国家による制度が必要になる。それが5%程度の労働力を買ったとき(賃金)にも消費税を企業は支払い、一部は労働者の益税にして消費を促し、一部を国家財政として社会保障などに回すべきなのです。

【2012年】ツイッターつぶやき
「2010年5月に第1子を出産したとされる女性の54.1%が、出産前後に仕事を辞めたことが13日、厚生労働省の「21世紀出生児縦断調査結果」で分かった。このうちフルタイム勤務だった人の35.3%が「仕事を続けたかったが、育児との両立が難しい」を理由に挙げた。また、10.5%で「解雇、退職勧奨」が行われていた。」
財政や待機児童問題、保育所の不足や料金など、子育ての支援は言われるが、子育てと仕事の両立が難しいのは政府による制度的なものだけではかたずかないことがこの記事でわかります。「10.5%で「解雇、退職勧奨」が行われていた。」というところはまさに企業責任が問われるところです。
男女共同参画社会に関する世論調査結果では「夫は外で働き、妻は家庭を守るべきだ」という考え方について、賛成は51.6%、反対は45.1%だった。」
このような意識も子育てと仕事が両立しないという事から。

【2013年】ツイッターつぶやき
何回かブログで日本は自粛・萎縮する社会になるのではないかと書きましたが、国家が主導する国が統制経済でも国家独占資本主義に成れの果てでもそれが過度に作用をすると国民の自主性が減少して自由な発想や行動も減少していくでしょう。この政治的作用による萎縮は経済にもまた逆作用をして経済の萎縮がさらに進む。
自由主義国家といわれるのも理想的な自由と民主主義のある国家体制ではないことは明らかですが、常に理念としてはこの自由や民主主義が根底にあって萎縮する社会を修正していくものである。司会政治的統制が進むとこの自由と民主主義の理念が崩れて修正作用が利かなくなります。今の日本が自由主義の理念を忘れて一時的な統制の利益を求めるのか、そのことで国際競争に勝とうとするのか、あるいは自由主義的な理念を保ちながら世界の発展に寄与するのか。その姿勢によっては日本は大きく世界の中での位置づけも変わってくるでしょう。何よりも経済の安定と発展に影響を及ぼすでしょう。
萎縮する社会は国をも萎縮させる。もちろん反比例をして観念論がはやり軍事は強力となる。

【2014年】ツイッターつぶやき
自民党が今回の総選挙で勝ったのかといえば、マスコミの予想の300議席以上には届かったし議席は減らしている。
むしろ自民党離れは進みつつあるのかもしれない。しかし野党に有力な党はなく民主党も保守二大政党制に固執する中で存在感を伸ばせなかった。
自民党の議席数は自民党しか期待を持つ政党がなかったという事でしょう。もちろん期待はこの間の2年間で崩れているはずだがやはりほかに期待感を持てる政党がなかったという事が大きい。
しかしこの期待感とは何か?
アベノミクスの修正あるいは平和や外交の問題などでの修正を求められているのではないか?自民党に変わってほしいという期待。
自民党自体も10%への消費増税の先延ばしを決めているわけで、自ら修正を余儀なくされているという事である。
同時に自民党がそうは議席数を減らさず与党としては三分の二を越えたが、株価を見るとどうだろうか?272円下落をしている。アベノミクスに失望しはじめt外国投資家。。。
このような中で安倍総理はこれまでの経済政策を変更はしない。
安倍政権は予算編成加速、歳出絞り込みが財政再建の試金石。。。歳出削減はどこから?一方における法人減税とNISAの減税枠拡大。国民生活から見たアベノミクスの本質が見えてくるでしょう。
この中に二回目の国民の期待はどう失望に変わっていくか。

【2015年】ツイッターつぶやき
(記事なし)

【2016年】ツイッターつぶやき
(記事なし)

【2017年】ツイッターつぶやき
こちらのブログを読んでの感想です。
「通貨とは、その国の経済力や労働力や信用の元に通用するものであり、経済が拡大すれば通貨も増刷しなければデフレになってしまう。コメが10俵生産していた田畑で、生産性が向上して100俵取れるようになった場合、通貨も10倍発行しないとデフレになってしまう。
逆に、大不作で100俵取れてた田畑から10俵しかコメが取れなかった場合は、コメが高騰して10倍に値上がりしてしまう。そのような時は国は通貨を回収してバランスを取らなければならない。バブルの発生も日本経済が停滞しているにもかかわらず金をばらまけば、株や土地などが値上がりしてしまって資産インフレになってしまった。」
(上記ブログより引用)
この引用させていただいた部分は経済学では重要な部分で、その考え方次第では経済を停滞させる元となります。その意味で引用させていただき僕の考え方を書かせていただきます。
まずデフレとは何か、インフレとは何かを見ると、デフレとは物価が下がることで、インフレとは物価が騰がることですが、この物価が低い・高いというのは何を基準にしているのでしょうか?
「コメが10俵生産していた田畑で、生産性が向上して100俵取れるようになった場合、通貨も10倍発行しないとデフレになってしまう。」
コメの生産の生産性が上がればコメの値段は下がります。これは生産性の向上により同じ労働力量で10倍のコメが生産されるのですから米1票当たりの価値は下がります。これは経済法則です。その時にコメの値段を維持するために通貨を10倍発行したらどうなるでしょうか?
価値の低下をきたしたコメがその価値の10倍の値段で売られるわけですから、それは10倍のインフレを作り出してしまうでしょう。「通貨も10倍発行しないとデフレになってしまう」という言葉を訊けばデフレはダメだという短絡的な考え方を受け入れてしまいますが、しかし現実はコメの値段が10倍も高騰するインフレをきたすのだという事を忘れてしまうのです。
コメの実際の価値とインフレによる10倍の貨幣量【価格】の差額はコメの生産者の懐に入ってしまい、逆に最終消費者は10倍の貨幣を払ってそのコメの生産者の懐を潤すことになる。インフレとともにその矛盾は貨幣の滞留あるいは回転を鈍くさせてしまう。それは「金余り」という現象を起こすでしょう。という事は、10倍の貨幣を発行することによりその貨幣量に等しい金余りが生じてしまうことになる。
同時に最終消費者は貨幣の不足が生じるでしょう。
以上の経済矛盾が顕在化することがデフレです。
最終消費者は10倍ものコメの量を同じ価格で消費することは懐の貨幣量からして困難になります。すると、米の消費を維持できないのですから、コメは過剰傾向を示して価格は下がっていくでしょう。最終消費者の懐にある貨幣量で消費できる量は元の10俵になっていくでしょう。これが「大不作で100俵取れてた田畑から10俵しかコメが取れなかった場合」に等しい状態を作り出します。価格は下がり続けてこの価格の下落がデフレというものにつながるでしょう。
コメの価格はその価値に等しくなっていくでしょう。しかし、その時先の生産性の向上により米の価値は10分の1に下がっているわけですから、10俵売ってもコメの生産者に入る貨幣量は10分の1になる。不況が本格化する。
コメの生産者の競争があり続けるから。弱い生産者は脱落していく。
勿論価格の下げが続けば消費も戻るから不況には陥らないという面もあります。コメの例ではわかりにくいですからある商品を生産する産業としてみたらどうでしょうか?
不況に陥れば倒産をする企業が出たり、生き残った企業でも人員削減や賃下げが起きるでしょう。すると最終消費者の懐の貨幣量の総額は減るわけですから、消費が戻ることを困難にします。
コメでいえば田んぼ、企業でいえば生産設備の過剰という資本の過剰が生じる。生産者や企業がため込んだ貨幣資本も過剰になる。
ここでも「金余り」が生じるのです。
「コメが10俵生産していた田畑で、生産性が向上して100俵取れるようになった場合、通貨も10倍発行しないとデフレになってしまう。
逆に、大不作で100俵取れてた田畑から10俵しかコメが取れなかった場合」

どちらにしても「金余り」が生じるのです。
この金余りはもちろん貨幣量による。いくら貨幣量を増加させても経済は好転せずに、貨幣は吹き溜まってしまう。
そこで大切なのは貨幣の量的変化ではなくて質的変化です。それは貨幣の回転を速めるという事です。
今の日本のように貨幣が株式や企業の内部留保に吹き溜まっている状況が量的緩和の副作用です。この金余りを作り出すのではなくて、勤労国民などに貨幣が循環する社会システムが必要なのです。その中で生産と消費のバランスが均衡化してそれは貨幣の回転を速めるでしょう。
GDPも貨幣量だけではなくて貨幣の回転がそれを高めるでしょう。

gooお題「年賀状手書き派?パソコン派?」
表の宛名は手書きで、裏はパソコンで印刷。
パソコンで印刷しますが、一言手書きで書き加えるスペースをつくっておいてそこに手書きで一言。
パソコン以前はワープロもありましたが、どうもあのギザギザ文字が嫌で「プリントごっこ」を使っていました。正月のイラストはイラスト帳から切り取りはって、「賀正」や「あけましておめでとうございます」はやはりイラスト帳から。そしてやはり手書きで一言欠けるスペースを残しておきました。
プリントごっこ・・・・・
楽しかったですね。
昔のガリ版のような紙にイラストや文字を乗せて、プリントごっこの機械にフラッシュをねじ込みバチン通すとぴかっと光って原稿の出来上がり。
その原稿にインクが混ざらないようにスポンジを細く張る。そのスポンジで囲われたところに好きなインクを流していく。
あとはその原稿の下に年賀状を入れてグイッ押して印刷。力加減が難しかった。。。。
案外版画に似た風合いがありました。
ここ10年は年賀状にも関心が薄れて送っていただいた方にはお返事を出すだけになりました。1年ごとにいただく枚数は減るのは必然。。。。
子供たちに来る年賀状は楽しみです。結婚の知らせや出産や・・・・文章も若い方のはつらつさがあります。昔を思い出しますなぁ。。。。。
でも、子供も最近ではメールやらラインやらで、見せてもらえない(笑)
枚数が減って、最近は切っても当たらなくなりました。
こちらにプリントごっこの詳しいサイトがありました。

【2018年】ツイッターつぶやき
政府日銀は物価を上げようとしている。物価が上がることは経済が好転した証だから。しかし逆立ちをして物価が上がれば経済が好転すると勘違いをしている。
アベノミクスと日銀緩和の結果は、企業や富裕層へカネが吹きたまり、株価のバブルである。
物価を上げることを人為的に行えるのだろう?原油高になれば物価は上がるから原油安を先進国は警戒する。輸入に頼る日本までが円安誘導による原油高を期待する。
こんな経済学はないはずでしょう。
ITが言われて事務やサービス業も含めて人員削減を行おうとしている。企業は常により低コストで大量生産を目指す。資本主義初期から機械化を進めてそのためのエネルギーを開発してきた。より少ない労働力でより多くの商品を生産することは生産性向上という競争として行われてきた。この競争がまた新たなより優れた機械や生産工程を作ってきた。
しかしこの生産性の向上は、生産した商品がすべて売れていればよいが、過剰生産傾向を生むことになる。
この時企業は値下げをして過剰気味の商品を売りさばこうとするでしょう。しかし企業は値下げをしても利益を上げる。商品は生産性の向上によりその商品価値を減らしているわけですから商品の価格は勝ちに近づくだけでしょう。しかし企業は利潤率を低下させていく。生産性の悪い競争企業は倒産するか廃業(資本の移動)をする。その企業の労働者は失業するでしょう。生き残った企業の労働者も人員減が行われるでしょう。
日本全体の産業でこのような状態となれば物価が下がり続ける不況となるでしょう。失業者の増加や低賃金化はさらにこのデフレ不況を進めるでしょう。
今の日本は完全雇用だといわれていますが、それは労働力の減少によるものであり、低賃金化は進み更により低賃金の外国人労働者を入れる。景気が良くなったから企業の設備投資も伸びて労働力不足が生じているわけではない。
今も日本はデフレ不況にあるのではないかと思います。
その中で企業と政府はIT革命として労働力を減らす生産性の向上を行おうとしている。
すると商品やサービスは価値低下を起こしてより価格を低下させていくでしょう。はじめのうちはIT化をいち早く行った企業の利益(特別剰余価値)は大きくなりますが、IT化それが広く行われるようになると全体的な値下げ競争となるでしょう。日本はデフレ不況の中にあるのですから。
労働力不足中でも失業は増大して低賃金化が進むでしょう。
しかし以上の状態は強欲的な資本主義がこのまま続くことによります。
生産性の向上として機械化、IT化により商品やサービスの価格が下がることというはより多くの商品やサービスを国民は受け取ることができる条件となります。そして生産性の向上が失業者や長時間労働者を作り出すのではなくて労働者の労働時間短縮の条件ともなるのです。
これは政治によってどちらを選ぶのかができるものです。生産性の向上が労働者を苦しめるように放置するのか、労働者の豊かさや労働時間の短縮を作り出すのか。。。。。

【2019年】ツイッターつぶやき
もう、何年ぐらい前でしょう。カーナビが出はじめたのは。
地図に弱い僕はすぐに興味を持ち始めたのですが、そのころのカーナビはいつの間にか海や田んぼの中を走りだしたり急カーブが続く道路ではとんでもない山の中を走っていました。
だんだんカーナビもどうにか使い物になってきたようなので買いましたが、今のように車の距離計に連動しなくてタイヤの4分の1ほどを磁化をして車内のセンサーで感知して距離を測っていました。やはり時々とんでもないところを走って気になって仕方なかったです。時にはカーナビを見つめてしまい危ないかなと思ったりもしました。
そして今は自動運転がはじまりました。
ネットで自動運転の動画などを見たりしますが、上記した初期のカーナビのような現状ではないかと思います。
自動運転も高速道路での追い越しができるようになったといいます。
しかしガラガラの高速道路で前に低速で走る車がいるようなまれに見る好条件で自動運転車が追い抜きをする。どう見ても自動運転を必要とする状態ではないですね。ウインカーを出して追い抜けばいいだけで、そんなに危険を伴うわけでもないし、神経を使うような運転操作ではない。高い金を出して自動運転も必要ないでしょう。しかも一般道をいつもは走っているのですから。
カーナビも物珍しさでもありましたが、自動運転も物珍しさからのものでしかないのかもしれません。自動運転で空いた高速道路で遊ぶのも面白いかもしれませんが。必要かといえばそうでもない。まだ初期のカーナビのほうが使う価値はあったのかも。
しかし自動運転技術そのものが無駄だということではありません。
カーナビと同じように将来はスマホをしながら、寝ながら目的地に行けるようになるでしょう。そしてその発展のためにも現在の技術の活用が必要でしょう。
ある意味、まだやっと実際の道路で実験ができるようになった段階でしょうね。その実験を車のユーザーが行うわけです。そこにはユーザーに大きなリスクが伴いますね。
法的にも自己が起きれば、メーカーの責任ではなくて運転者の責任です。事故が起きて「となるはずではないか!」といってもいろいろな条件が満たなければメーカーの責任は問えない。ですから道交法も変わらないでしょう。
追い越しをするにも車のメッセージを読んで許可するボタンを押して。。。。。。
リスクが大きいです。それよりウインカーを出して自分で車線変更したほうが良い。
自動運転の技術の一つに事故防止の役目があります。
今は自動運転車よりも人の間違いや錯覚などでの事故の防止ができる車を作る段階ではないでしょうか?
自動運転もドライバーが寝ていないかスマホをしていないかを感知するようですが、追い越しをさせるよりもこの技術を普及させることのほうが先でしょう。
また、発展途上の自動運転車が多く走り出すと思わぬ渋滞などが起きることがあるでしょう。もちろん自動運転車と人間ドライバーとの事故も増えるでしょう。人間ドライバー側が悪いとされますね。きっと。
ハード面の発展と同時にソフト面で考えられる困難の研究や防止技術も大切になってくるでしょう。

【2020年】ツイッターつぶやき
昨日の続きのようなものです。以下、ツイッターから。。。
年末年始は仕事を休む人が多いですから、東京の空も毎年きれいになります。そして通勤電車もガラガラですね。
これは人の移動や密を避ける効果があります。その時にGo Toトラベルを中止することも効果があるでしょう。
それは感染拡大防止になります。
しかし・・・・
Go Toトラベルを中止してもそれを利用しなければ自由に旅行等ができます。不要不急の外出の自粛要請は出ていませんから。
すると、Go Toトラベル中止でどのくらいの効果があるかわかりません。
今後Go Toトラベルのキャンセルがどのくらい出て人の移動が減るかを見ないといけない。
しかし・・・・
ある程度経済的余裕のある人は旅行に出かける。余裕のない人はキャンセルして出かけられない。
これは経済格差による人の移動の「分散」でしかない。
たばこ増税による禁煙と同じで、経済的に余裕のない人は不本意ながら禁煙で、余裕のある人は気にもしないで喫煙できると。
そこで・・・・・
年末年始に旅行に出かけることを規制して感染拡大を防止するにして、所得格差によって出かける人出かけられない人に分散する理不尽さと、Go To中止の効果が薄まることが起きることに間違いはないでしょう。
また・・・・・
旅行に出かけられないにしても、Go Toイートやイベントは中止ではない?のですから、例えば東京やその周辺の高級ホテルなどに人が移動することがまた考えられる。
この連続ツイートの親記事にある「君子豹変 小人革面」
菅総理は「君子豹変」したか、「小人革面」でしかないのかを考えると、菅総理は本気で国民全体の事を考えて突然急変したという君子豹変ではなく、支持率もあるでしょうし専門家や医師会の要請もあり、表面だけ(上っ面だけ)変えただけでしょう
1月11日以降2週間までが勝負の週となるでしょう。
企業が長い連休となり、国民がGo Toキャンペーン全体を自ら自粛するようであれば感染拡大はある程度抑えられるでしょう。
一方、GO Toトラベルが抜け穴ばかりならば感染は高い水準で維持されるでしょう。
どちらにしても・・・・
どちらにしても、今の様に感染が拡大してしまってからの中止はあまりにも遅かったのです。感染拡大防止の面でも、経済のさらなる混乱からしても。。。。
そして何よりも年末年始にかけては重症者や死亡者が増加し続ける危険性と医療崩壊の危惧が残ります。

【2021年】ツイッターつぶやき
大雪本格的な寒さに。
冬らしくなりました。
昨日の朝は雨が一時霙になりました。
熊も穴にこもる季節。
僕は炬燵にこもって昼寝。

【2022年】ツイッターつぶやき
岸田内閣は防衛費倍増を言い1兆円の増税を言い出した。
法人税と煙草税などの増税を言っていたが、どうも法人税の増税は財界の反発もあり無理なようです。残るは取りやすいタバコ税ですが、法人増税分をどこから取るか。やはり取りやすいところから取るでしょう。自動車税の増税という一部報道もありますが、酒税など国民生活に関連するところから取るでしょうね。それが「国民の責任」という言葉に出ています。
しかしこの1兆円の増税だけではなく、3兆円の財源が問題でしょう。
これについては具体的な報道がありませんが、これまでの自民党政治を見れば企業にばらまく税を少なくするということはしないで社会保障など国民生活に依依拠するところが削られるでしょう。すでに復興財源を回すようです。
このように増税も税の使い道としての財源も国民生活に影響すると思われますが、社会的福祉の後退として現れるでしょう。
しかし以上の増税や財源の問題以上に危ないのが平和そのものです。
これまで敵基地の攻撃能力を持つことが進められましたが、今後はトマホークの配備など専守防衛から逸脱した武器を持つようになり、そのためにも防衛費の倍増が必要とされます。
憲法はおろか、どうにか合憲と解釈改憲を行った中身の専守防衛も捨てようとしています。
アメリカの軍事態勢の一部として日本はいざとなればアメリカ防衛のために戦争を行わざるを得ないようになっています。安保条約は軍事同盟になりましたから。
保守派は日本を守ることが最大の福祉だといった論理を持っていますが、そこには必ず軍事力でという枕詞が付きます。そうではなく平和こそが災害の福祉なんです。平和を維持していく政治が求められていますが、岸田内閣はこれを露骨に崩していきます。
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2024年12月14日(土)「星がきれいです」

2024年12月14日 22時08分06秒 | 「思うこと」
東京の夜空ですから明るい星しかはっきり見えませんが、見つけやすい三ツ星が見えました。周辺には明るい星が囲んでいます。赤く輝く星はペテルギウスでしょうか。大きなオリオン座。。。。。。
そういえば、今夜は満月でしょうか。
来週は冬至ですなぁ♪
苦手な11月も過ぎて12月に入るとあっという間に過ぎていきます。
冬至にカボチャを食べて柚子に入り、すぐにケーキを食べてお正月。。。。。
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「12月14日という日」

2024年12月14日 07時59分14秒 | 「何を思ってた?」(旧ブログまとめ)
【2024年】ツイッターつぶやき
東京の夜空ですから明るい星しかはっきり見えませんが、見つけやすい三ツ星が見えました。周辺には明るい星が囲んでいます。赤く輝く星はペテルギウスでしょうか。大きなオリオン座。。。。。。
そういえば、今夜は満月でしょうか。
来週は冬至ですなぁ♪
苦手な11月も過ぎて12月に入るとあっという間に過ぎていきます。
冬至にカボチャを食べて柚子に入り、すぐにケーキを食べてお正月。。。。。

≪過去の記事≫

【2003年】
早朝の商店街を歩いていたら、ガスか水道か?道路を掘って工事をしていました。もうアスファルトを固めているときでしたから、たぶん徹夜の工事だったと思います。
たしかに商店街ですから昼間の工事では商売に影響をしますからね。でも、商店街とはいえ、そこには住んでいる人もいますしマンションもあります。
たぶんこれらの人は寝られない一夜だったのでは?
買い物の便もよく、駅に近い商店街にあるマンション、あこがれますがこういう騒音を考えると悪い面がありますね。
普段でも商店街やスーパーのごみ処理は早いですからね。。。。
今の我が家のようにへんぴな場所のほうがいいのかもしれません・・・と自己満足

【2004年】
12月も中旬。。。。
なんか車を運転していても周りの車の運転があわただしいというのかどこか急いでいるような気がします。師走とはよく言ったものです。
交通事故には気をつけよう。。。。
今朝は寒かったです。冬眠したくななる。もうすぐ冬至。この日記も冬になります。

【2005年】
今夜は満月?ほとんどまん丸な月が昇っています。スポーツジムの帰り、庭から顔を出した犬が月に向って遠吠えをしていました。
ワァウォ~~ン♪
犬の遠吠えは感傷的になります。
今夜は妻が外泊。。。なんでも会社のお世話になった先輩が退職をするというので、その先輩と1泊で温泉に浸かるようです。うらやましい。。。。
そういえば僕ものんびりと子供から離れて温泉というのもなかったなぁ。。。。
今度一人で出かけてみようかなぁ。。。。
この前に書いた津田清楓の「漱石と十弟子」をぺらっと開いて読んだら、どうも百閒の名前がない(とは言っても清楓と百閒の仲は書いてあるんだけど)。扉の十弟子を画いた挿絵をまじまじ見たら、百閒を含めて11人いる。どうも百閒はちゃっかりと十弟子の仲間入りをしているようである。
百閒は、漱石晩年の弟子だから十弟子にはないはずだが、なぜ描かれているのだろう?
もう20年以上も昔に読んだ本だから忘れているのだろうが、この辺もなぜ描かれているのかを読み返したい。
今、キャベツロールを煮込んでいます。

【2006年】
仕事が遅くなり外食でした。
いつものラーメン屋さん。
野菜炒めの野菜が少し生め。。。
帰り、そうは寒くなかったですが、嫌な雨でした。

【2007年】
(記事なし)

【2008年】
(記事なし)

【2009年】
(記事なし)

【2010年】ツイッターつぶやき
5%の法人税減税が決まったようです。
なぜ今、法人税減税なのか?表向きは減税により設備投資を増やし雇用を確保するといった論理のようですが。。。。また以前から日本の法人税は諸外国に比べて高く、企業が海外に出て行き外国の企業が日本に入ってこないとも言われていました。
日本企業が生産拠点を海外に持っていくというのは税制の問題ではないということは安い労働力を求めてであり市場を確保することにあったことは明白です。また減税により設備投資を増やしそれが雇用増に結びつくような現状でしょうか?わずかに冬のボーナスはアップしたとは言いますが個人消費の落ち込みはなお冷えているのが現状で、その中において国内消費関連の企業が設備投資を詩雇用を増やすでしょうか?多少の雇用増はあったとしても依然として不安定雇用の増加でしかないでしょう。また輸出関連企業はなおも海外生産に軸足を移していくのではないでしょうか。
その中での法人税減税分の資金はどこに流れるのか?
アメリカ国内の景気回復は輸出関連企業の最も必要とするものですし、中国をはじめとした発展途上国への投資はなおも必要とされ、最近では中国に替わる投資先を模索しているのではないでしょうか。このように見ると法人税減税による資金流れがどうなるか。。。。。。
同時に行われるとされる子供手当て増は、国内消費を多少増加をさせるかもしれませんが、その恩恵は一部の過程家庭に限られ、一方には増税があります。この増税は自民党時代と異なり高所得層の負担を増やす中に行われることは一定の評価はありますが、高齢化社会といわれている中での相続税アップも?あるようですし、成人扶養(無職の成人)に対する控除もなくなる?ようです。
このように子供手当ての財源は具体的な増税が提起されているわけですが、法人税減税の財源はほとんど決まっていないようです。法人税減税は先行して行われる中であとでどの部分で増税がされるのか。。。。。
今の政府の議論はわからないものばかりです。

【2011年】ツイッターつぶやき
厚労省は年金支給年齢の引き上げに伴い2013年から65歳までの再雇用を企業に義務付けることを固めた。有期雇用については契約満了の決めない無期雇用にする中で「雇止め」のない雇用形態となると。
再雇用の対象を限定できる規定を撤廃するというのは一定の評価ができるだろう。
しかし再雇用というのは労働側が受け入れることができる者だろうか?あくまでも労働側は「定年延長」でなければならない。定年延長なら賃下げにはならないことがあり得るが、再雇用制度では現在の状況を見れば賃下げは避けられないだろう。
問題点としては60歳以降も同じ仕事を続けるのに年齢的な限界があるということである。たとえば肉体労働であったりトラックの運転などの交通機関であったり様々な労働分野においては65歳まで働くことの負担が大きいだろう。もちろん頭脳労働者でも労働時間の負担も同じであるが。
また60歳以降も同じ仕事を続けるとなるとその分若い方や失業中の方などの就職の枠が狭められるだろう。
年金支給開始年齢の引き上げは、年金制度の危機の中に言われている。しかし同時に今後労働人口が減り労働力不足が懸念される。そこで企業は安い労働力を必要とする。それが再雇用制度により安い賃金で同じ仕事をやらせることができるものが企業にとっては必要にしているのではないか。労働力不足は労働力市場の中で売り手市場になり賃上げの力が働く。もちろん失業者数は一定程度置かなければ労働力市場は売り手市場になる。失業率は現在のままに労働力不足を起こさない方策が企業の論理だろう。
再雇用制度に企業は反対のような口ぶりだが、本音は定年延長では困るということではないか。定年延長を回避して再雇用制度に。これが国と財界の落としどころではないか。

【2012年】ツイッターつぶやき
ぽつぽつと立っている人がいるのんびりした電車に乗り込んだ
吊革につかまってのんびりと外を眺める
次はターミナル駅なので席が空くかと期待する。。。。
すると僕の前に座っているおばちゃんがそわそわし始めて
そして立ち上がった
(うわっ、空いた。。。。。)
電車はターミナル駅に到着
するとそのおばちゃんがまた座ってしまった。。。。。。
(フェイントかよ。。。。)
その時ハッと思い出した、そのおばちゃんのこと
以前、僕が席が空いたので座ろうとしたらいきなりその席にかばんを置いて
一瞬ひるんで座り損ねたところに座っておばちゃんだ
そしてある時は僕のはす向かいの席が空いた時
僕の右隣に座っていたおばちゃんがその席に走っていった
すると座ろうとしていた若い男が座り損ねたのだ
なぜ座っているのに空いた席に走っていったか。。。。。
そう、あのおばちゃんなのだ
この日もそのおばちゃんは僕にフェイントをかけてからしばらく
挙動不審な目つきで車内を見渡していた。。。

統制経済といえば戦時での統制経済を思い浮かべますが、今は戦時経済ではないのですからこの「統制経済」というのは当てはまらないかもしれません。しかし国家が前面に出て経済の流れを変えていくという意味では党生殖を色濃く出しているでしょう。もちろんこれは先進国の経済の混乱から同日本が生き延びるのかという面で経済界全体が国家の全面的な協力とその力を必要とし始めたということでもあるでしょう。
異次元の量的緩和やそこと結びついたアベノミクス。そしてそれは成長路線として更なる賃下げや労働の不安定化そして労働条件にも影響を及ぼしてこの労働の規制緩和は国家的な経済への介入を引き起こします。これはある意味統制経済のような面を出していると見えます。もちろんそこにはこの計の統制とともに上部構造の統制にもつながります。もちろんこの動きは行き詰まった資本主義の流れの中に大なり小なり先進国の中で強まる傾向のものでしょう。
統制的に見える経済は、実は国家独占資本主義ともいえます。福祉国家は行き詰まったとか経済の成長の鈍化の中で社会保障は削られて低賃金化や不安定効用の増大も含めてすべての富は企業活動に動員をされる。その中心となるのが国家なわけです。この国家独占資本主義が露骨に表れたのが安倍内閣でしょう。
しかし国家独占資本主義と統制経済は違うわけです。民主主義や自由という理念を政治的にも経済的にも持ち続けるのが国家独占資本主義です。

【2013年】ツイッターつぶやき
(記事なし)

【2014年】ツイッターつぶやき
こちらにADーAS分析の二つのモデルが書かれている。
ケインズモデルと新古典派モデルである。
難しくてよくわかりませんが、需要と供給そして物価の関係でしょう。アベノミクスは物価を上げることによるデフレからの脱却を目指しているわけですが、政策的に物価を吊り上げることの不自然さと、その物価も貨幣価値の低下からのものですからなおさら不自然さを持つ。
貨幣価値の低下による物価が騰がれば国民所得は高くなるのでしょうか?物価を政策的にあげれば総需要線はシフトするのでしょうか?
そもそも簡単に総需要曲線がシフトすればという何げない言葉がそうも簡単に起こせるのでしょうか?
総需要ですからその需要の中身は問われないのですが、その需要のためには貨幣がどこに集まるかの違いからの分析がないのでは?
今の景気判断では企業の利益と株価に貨幣量が増えて国民生活には貨幣量が不足していますが、この中で全体の貨幣量が増えることによる総需要が言われてしまうわけです。
しかしここに大きな落とし穴があるのではないでしょうか?
生産される商品は直接大衆消費財として消費をされるものもありますが、企業の設備投資のように企業間取引によっての商品もあります。この設備投資に必要な他の企業が生産した商品は、その使用において設備投資をした企業が生産する商品に価値移転がされていきます。この価値移転先は最終的には大衆消費財とならなければならない。
ですから総需要の重点は大衆消費財の需要とならなけれなならないし、そのためには貨幣量が一般国民に移動しなければならない。これはケインズも新古典派もその経済学において自然に行われるとして超楽天的なのかもしれないが、資本主義の矛盾はこれが自然に行えないという事を示している。
ですからケインズも新古典派もその経済政策がうまくいかないのです。

【2015年】ツイッターつぶやき
(記事なし)

【2016年】ツイッターつぶやき
(記事なし)

【2017年】ツイッターつぶやき
以下ツイッターから転載
">「ゴキブリ入りの料理」などネット中傷で辞職勧告の石川・加賀市議が続投表明 - 産経ニュース。。。どうにかしがみついて次の選挙でミソギとでもと思っているのか?市議だと無投票もあるかもしれないが・・・・
国政を見ても選挙で勝てば禊はしたと。。。。。これが当たり前のことになっていますからね。政治家を狂わせています。この中で口先政治も行われていて十分な説明と言っているうちに議会が終わればミソギになってしまう。おかしな世の中はおかしな政治を産む。
国民の中でも年寄り相手の詐欺が多くなり、企業はコンプライアンスを無視したブラック化。政治もブラック化をしていき、官僚や国家機関も忖度。一方ではその日の生活に四苦八苦しながら労働をする国民。国民の一部と政財官の癒着がその四苦八苦している国民に寄生する社会。
人の幸せはカネだけではない。しかしカネも必要なのは確かです。そのカネに視点を向ければ、労働で得た1万円も犯罪やブラック化した手法で得た1万円も買い物に行けば同じ1万円ですからねぇ・・・・そして国民に寄生して得た1万円も。
社会のパイはしぼむばかりです。そのしぼむパイの分け前を以前と同じ大きさに維持しようとすれば人の分け前を搾取や収奪や犯罪によって手に入れねばならないと考える人が多くなるでしょう。もちろん人より頑張って大きなパイを得る人が多数ですが、頑張っても取り分は少なくなる。ブラック化した社会は
1%の人々にあるいは巨大企業に社会の富が集中するという事は、社会のブラック化の現れです。巨大ピラミッドや古墳が作られる一方で国民は働けど貧しくなっていくという奴隷制社会が現在の方において正当化される。その方は1%の人々あるいは巨大企業の太鼓持ちである政治家が作る。
どう見てもおかしいことが正当化される社会がブラック社会です。ブラック社会にふさわしい人材が必要とされる。一番先のツイートの市議もこの流れの中に生きているのでしょう。市議だから詰め腹を切らされるだけ。

【2018年】ツイッターつぶやき
あおり運転事故の判決が出ました。
求刑は確か23年でしたが、判決では18年となりました。
この判決の量刑が少ないと見るか多いと見るかは人によって違うと思います。
また、時速ゼロ㌔の危険運転が法的にはさばけなくあおり運転との因果関係において判決が出ました。
今後法の整備も進むのかと思いますが、どうなるんでしょうか?
求刑通りの判決が出ませんでしたが、この判断はどこにあったのでしょうか?
判決の18年については上記したような中身で触れられていますが、18年になった理由がよくわかりません。
裁判官は被告の反省については酌量の余地はないとしますが。。。。。
裁判員の一人は、
「刑の重さは被告や被害者側の人生を決めてしまうことでもあり、難しい判断でした。正直、今でも気持ちの整理がついていません」 NHK
と、語っているようですが、今回の判決のむずかしさがあったのでしょう。

【2019年】ツイッターつぶやき
ベランダに出てしばらく北寄りの東の夜空を眺めていました。
ずっと見ていると錯覚なのか?ほんの一瞬光が流れたような?
今夜はふたご座流星群が良く見えるそうです。
残念ながら夜空は満月が過ぎたばかりで明るすぎるそうです。特に東京の夜空は明るいですからなぁ。。。。。
それでも一つぐらいは見ることができるかもとベランダで粘りました。
それにしても冬の夜空を眺めるって寒いですなぁ。。。。
それでも寒さを忘れるほどきれいです。
昨夜、NHKで長野県の基礎木曽あたりの展望台の紹介をやっていました。
天の川がきれいに見えて恐ろしくなるような数の星が見えるそうです。
もしかしたら、天気にもよるでしょうが多くの天文ファンが訪れているかな。
また11時ごろ寝る前に少し眺めてみようと思います。
その前にゆっくり風呂に入って温まってこよ・・・・・

【2020年】ツイッターつぶやき
君子豹変 小人革面
君子は豹変するが、小人は面(顔)を革(あら)たむ
君子は間違いに気づいたらすぐに改めるが、小人はわけがわからないから、人に言われて上っ面だけを改める。
すぐに元に戻ります。
菅総理が全国一律12月28日から1月11日までGo Toを中止するとしました。
これは良いのですが、どう見ても菅総理は君子ではない。
対応があまりにも遅く、しかも2週間先の28日からです。なぜ二週間先延ばしをするのかは別としても中止をこれまでかたくなに拒んできて世論や専門家そして野党や自民党の一部からも批判される中でやっと中止を行いました。ですから君子豹変とはとても言えません。やはり小人革面ですね。
でも総理大臣ですから何も考えずにいるわけではないでしょう。なぜ二週間も先の中止なのか?
今年は休みの分散や長期化が予想されていますから、26,7(土日)に出かけてしまえばいいでしょう。そして12日に帰ってくればいい。
いろいろと抜け道を考えているでしょう。

【2021年】ツイッターつぶやき
最近はコロナの影響もありますが、以前から公園に人がいなくなりました。
昔は少し広い公園ですと子供たちが野球やサッカーをして遊んでいました。
そのころお年寄りのゲートボールも流行りゲートボールでお年寄りが集まっていました。するとお年寄りとサッカーなどをやる子供たちが一緒になるのでお年寄りが「危ないでしょ!」と子供たちを怒っていたりしていました。
そのためかどうかわかりませんがしばらくしたら公園内での球技が禁止になりお年寄りのゲートボールだけに。
しかしゲートボールも球技ですい広い場所を使うので中に他の人が入れない。するとゲートボールもいつしか禁止になったのかお年寄りの姿が見えなくなりました。もちろん子供たちの球技も禁止ですから子供の姿も消えました。
僕のような喫煙者はほとんど人のいなくなった公園のベンチでのんびりツ煙草を吸っていたのですが、近年の嫌煙運動のために公園内が禁煙になりました。
多くの公園では危険だから(事故もありましたから)いろいろな遊具もなくなりました。
だれもいなくなった公園。。。。。
とはいえ桜の季節ぐらいは少し人が集まりますが。
なぜ公園に誰もいなくなってしまったのか。。。。。
公園は不特定多数の人がそれぞれに楽しむために集まってくる場所です。
子供たちの野球やサッカーが危ないからと苦情が多くなれば禁止になり、ゲートボールも球技で広い場所を使うという苦情があれば禁止になる。遊具で怪我をする子が出れば苦情で遊具がなくなる。そして喫煙も苦情が出れば禁止になる。
不特定多数の人がそれぞれに楽しむ場であるにもかかわらず。その不特定多数の人が互いに苦情を出し合ってなんでも禁止になるという愚。。。。。。
その苦情というのは市民同士での話し合いではなくて直接区役所に苦情が行くのでしょうか。禁止を守られないと通報される。
苦情を言っていた人も公園は面白くない場所になるのです。
人が集まらない公園という場所は子供たちにとって危険な場所になる。
喫煙者でもタバコを吸っていれば大人が子供たちを守ることができますがこれも一緒に禁止になるのですからねぇ。。。。
苦情魔通報者の強くなる社会はまともな社会にはなりません。
これは正当化されれば監視社会にもつながります。昔のような互いに監視し合う社会に。。。。。

【2022年】ツイッターつぶやき
双子座流星群
風呂上がりに南の空を見上げていました。
あはは・・・・・寒い。

【2023年】ツイッターつぶやき
知人が庭にたくさんの柚子が生ったので送ってくれました。
小さい柚子ですが、昨夜は皮を擦って柚子豆腐を作りました。
たくさんあるので柚子ジャムにしてみました。マーマレードにしようか悩んだのですが、小さい柚子でめんどくさいのでミキサーで細かくしてジャムにしました。
う・・・・ん、少し渋みが強かったかな。。。。。
ヨーグルトに入れて食べたいと思います。
残りは皮を千切りにして冷凍します。
実はジュースにしたり凍らせておいて風呂にでも入れようと思います。
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2024年12月13日(金)「冬本番」

2024年12月13日 22時09分07秒 | 「思うこと」
さむいですなぁ。。。。。。
今年の秋は異常なほど暑さも感じる秋でした。このまま弾頭かなと思ったり、自然は帳尻合わせをしますから寒波がやってくるかなと思ったりしていました。
日本海側から東北北海道は雪が多そうですね。
室温もぐんぐん下がり、この前は20度ほどありましたが今夜は13度。
長袖の下着を出しました。
東京はずっと晴れていましたが、今日は曇り空。最高気温も9度。
急に外に出たらクシャミが止まらなかった。
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「12月13日という日」

2024年12月13日 08時00分13秒 | 「何を思ってた?」(旧ブログまとめ)
【2024年】ツイッターつぶやき
さむいですなぁ。。。。。。
今年の秋は異常なほど暑さも感じる秋でした。このまま弾頭かなと思ったり、自然は帳尻合わせをしますから寒波がやってくるかなと思ったりしていました。
日本海側から東北北海道は雪が多そうですね。
室温もぐんぐん下がり、この前は20度ほどありましたが今夜は13度。
長袖の下着を出しました。
東京はずっと晴れていましたが、今日は曇り空。最高気温も9度。
急に外に出たらクシャミが止まらなかった。

≪過去の記事≫

【2003年】
早朝駅前をとぼとぼ歩いていたら、女のコ3人組にいきなり「お兄さん!!」と。何だろと思って振り返ったら酔っ払い。「どこか飲むところ知らない?」と。朝の6時前。。。。。アホか!!
20歳そこそこだと思うのですが・・・・まぁ、これも青春かな!?

【2004年】
暖かかった。。。めまぐるしく気温が変わります。
内田百閒の「私の漱石と龍之介」を読み終わったが、明治・大正の作家達のおおらかさを感じる。百閒はユーモラスだが、その裏に苦悩がある。悲しみがある。だからこそ楽天的になれる。
今の世も苦悩が多いが楽天的になれればと思う。
昨夜NHKの新撰組を観たが、近藤勇など最後の武士らしい武士という男の名誉のようなものを感じたが、結局は時代は武士の世界から金を持つ商人の世になる。武士は商人から金を借りざるを得ないほどその役割は終わっていた。しかし明治の代も矛盾があった。そして大正のデモクラシー、昭和の不幸な戦争。そして戦後から平成へ。その時代時代には多くの問題点を抱えながらも長い目で見れば社会は発展してきた。結局は一般大衆が時代を決めるのである。この点でも楽天的にならないとと思う。

「私の「漱石」と「龍之介」」  内田 百閒  著
漱石の鼻毛が付着した原稿用紙は写真で見た覚えがある。この原稿用紙の持ち主が内田百閒だったとは。。。。
漱石はひとつの作品を書き上げる間に5,6寸の高さにもなる書き直し原稿を出したようですが、しかし同じ高さの札束を原稿料としてもらっていたそうです。その書き直した原稿を内田百閒はもらったそうで、その中に鼻毛の付いた原稿もあったようです。
内田百閒の漱石の思い出は、こんなユーモラスなものがあり楽しく読めました。
百閒は金に困って漱石の保養する温泉にまで行く。漱石は多額の金を妻から受け取れという。そのうえ一泊宿に泊めてもらい、温泉にまで浸かり、「ビールを飲んでもいいですか」と(笑)
いつ漱石先生の雷が落ちるかびくびくしている弟子たちですし、漱石は時々たしかに雷を落としたようです。しかし弟子たちへの思いやりもあり、書簡集を読むと百閒が金に困っているためか本の校正をやらせています。
漱石の弟子たちは、漱石の思い出を書いていますが、大阪朝日新聞に文芸欄を作り、若い作家に発表の場を与えたりし、岩波書店の初代岩波茂男が本の普及のために今で言えば文庫本を出す計画をするのですが、漱石はすぐに坊ちゃんだったかを発売させます。
日本画家の津田清楓が「漱石と十弟子」(芸艸堂・昭和53年版)という本に漱石山房木曜会の様子を書いていますが、挿絵も含めてのんびりした様子を書いていますが、百閒もこんなのんびりとした木曜会の空気を吸っていました。こんな木曜会の空気を吸いながらも漱石の作品に影響されたものと思います。「吾輩は猫である」は小説ですが随筆といっても良い作品です。漱石は「夢十夜」「文鳥」そして生い立ちを書いた「ガラス戸の中」などの随筆を書いていますが、この随筆に影響されたのではないかと思います。
胃を壊しながら悩んだ漱石、悩んだこそ弟子には厳しいながらもおおらかな漱石。そんなおおらかな漱石になつくようにやはりおおらかな百閒。この思い出を筆力のある随筆として百閒は綴っています。
芥川龍之介と百閒は、漱石山房晩期の弟子ですが、その意味においてもその交友は深かったようです。百閒は龍之介が自殺する2日前に会っています。麻薬でろれつの廻らない龍之介。百閒は龍之介の苦悩を知っていたのでしょう。しかし百閒は次ぎなように書きます。
龍之介の死んだ夏は猛暑であった。龍之介はこんな猛暑で癇癪を起こして死んだのだろうと。ここには龍之介の苦しみを知っているからこそユーモラスにその死を書けたのでしょう。
楽しい百閒の随筆。。。。龍之介の苦悩を知っていてユーモラスなものがあるように、自身の苦悩があるからこそ楽しい随筆をも書けたのでしょう。
おもしろさの裏に悲しみが満ち溢れている。これが百閒の魅力かもしれない。
<追記>2005年12月12日
上の文章に
「日本画家の津田清楓が「漱石と十弟子」(芸艸堂・昭和53年版)という本に漱石山房木曜会の様子を書いていますが、挿絵も含めてのんびりした様子を書いていますが、百閒もこんなのんびりとした木曜会の空気を吸っていました。こんな木曜会の空気を吸いながらも漱石の作品に影響されたものと思います。」
と、書きましたが、このときは百閒のもう一つの雅号「百鬼園」というものを知らなかったので、挿絵に「内田」あるいは「百閒」という人物がなく、ここには百閒は描かれていないと思ったのですが、今、川上さんの「東京日記」関連で百閒を思い出し、もう一度「漱石と十弟子」を開いたら、いましたいました。。。百鬼園先生がちんまりと右すみに若き頃の丸い顔をしていました。
また読み直してみようと思います。

【2005年】
(記事なし)

【2006年】
冬のボーナスの額が過去最高らしい。
でも、こういうものは会社が支払った総額でも見なくてはいけないものだと思う。たしかに正社員の支給額が伸びたことはいいが、その他アルバイト名でとの格差も生じるわけである。だから、このボーナスが過去最高という言葉に景気の良さを一概には見ることができない。
ここ何回か書いている税制の問題や、残業代の不払いや正社員可の遅れなど、この間行われてきた「リストラ景気回復」は継続をしているのである。個人消費の低迷はという問題は、表面化してきている。
中国は、内需拡大の方向に進むらしいが。。。
そこに日本の企業が入り込む。。。でも日本人は。。。ううう

【2007年】
「宙に浮いた年金記録」。。。
4割が特定困難。
公約違反じゃないとは言うが、受け止めたとっては国民は公約。
勝手に公約と受け止めた国民が悪いという論理かな?
昔不動産広告の笑い話に、「歩いて十分」とあるのに契約してみたら相当歩かされた。文句を言ったら「歩いて”じゅうぶん”と読むのだ」と。。。。なんかこういうものに似ている。
今の世の中、法に触れないぎりぎりのところで国民をだまそうというものが当たり前になっているのかな?
そういえば大阪知事選に出馬する弁護士が、6日前は5000%出馬はありえないとしながらも今になって出馬を決めた事への報道があるが、その弁護士の説明は、法律用語ばかりの弁明で何がなにやらちんぷんかんぷんだった。たぶん府民をだましたのではないという事か?
埋蔵金などという景気の良い話も出ているが、国民の金である事に変わりがない。埋蔵金などという言葉をあてる事自体が馬鹿にしている。どのように使ってきたのか、、、、これからどのように使うのか。
清水寺の管長が今年の漢字を書きあげた。「偽」
偽りでしか今の世の中動かないという事は、国自体が崩壊過程にあることに他ならない。もちろんその根底には経済があり、持つ者と持たざる者の格差がどうしようもない矛盾になってきている。
民主主義ってなんだろ?
ここのところ、なんだか知らないけどフケがたくさんでるなぁと思っていたのですが、原因がわかりました。シャンプーとボディーシャンプーを間違って使っていたからかもしれません。昨夜はちゃんとシャンプーで洗ったらフケがなくなりました。よかったぁ。。。。変な病気じゃなくて。髪の毛が抜け始めたらどうしようと本気で心配してしまいました。それにしてもシャンプーってやはりすごいものですね。思い出しました。昔、石鹸シャンプーというのを使った事がありましたがそのときもフケが出やすくてやめました。

【2008年】
(記事なし)

【2009年】
(記事なし)

【2010年】ツイッターつぶやき
男同士というのはめったにないが偶然に女性と視線が合ってしまうことが時々ある。
うつむいて駅のコンコースを歩いていてふと視線を上げたときや電車の座席に座り本や吊広告から視線をはずしたときなど。
大体は一瞬視線が合ってもすぐに互いに視線をはずすんのですし、僕はこう言うのに弱いからたいがい僕が視線をはずします。電車の座席に座っている見知らぬ人々はそれぞれの世界にいるわけですが、この視線が合うというのはその世界が偶然にぶつかるようなものです。目というのは心の一部のようなものですかし、目はものを言うということもありますから。
一瞬の心のふれあいでしょうか。。。。。
今日は向かいに座りコッペパンをかじる若い女性と視線が合ってしまった。
女性は少し目を見開いた視線。コッペパンをくわえたままに。。。。オヤジである僕はその目を見る。なんだか不思議な世界と世界のぶつかりです。
女性は視線をはずさない。僕もなんだか知らないが今日は視線をはずさない。
女性がコッペパンをかじり終わると同時に互いの視線は離れた。

【2011年】ツイッターつぶやき
      拝啓 川上弘美様
日記を拝読させていただきました。
お知り合いの女性のしぐさを妄想してドキッととしました。
知的な女性は素敵ですね。電車の中ではメガネ美人にドキッとしております。
今では町の本屋さんに行くとコミック本のコーナーが広いスペースを占めています。僕の年齢ではコミックと言えば「アハハハ・・・・」と笑って読むようなイメージがあるのですが、今では恋の物語もコミックになっているようで下手な活字本よりも若い方の心をとらえており、だんだんとこのコミック世代がある程度の年齢になっていく。
だから優雅にコミックのページをめくるのも自然かなと思います。
そういえば、少年マガジンやサンデー、りぼんなどというあの電話帳のように厚い「漫画」を電車で読んでいる人が少なくなったような。。。。?
漫画ではなくてコミックあるいはアニメという言葉の中にステータスも感じるのでしょうか。
女性が「部長 島耕作」を読む。。。やはりサラリーなん生活を想い読むのか、それとも仕事ができる素敵な男性に夢見るのでしょうか。
島耕作に惚れる女が登場しますが、その女性も素敵です。しかし僕としては島耕作や底に出てくる女性に読む女性の何らかの感情移入を見たらやはり一瞬「うん?」とオロオロしてしまうかもしれません。その知人女性は「いい女」では?
          敬具

「海とか?」という答えに「?」をつける声も妄想してドキッとします。やはりその女性も「いい女」でしょうか?
化けたのち、疾走。。。。あははは。
以前、化粧の話もありましたが僕としては「いい女」ではなくて素肌に近い薄化粧が。。。。

【2012年】ツイッターつぶやき
維新の会の石原代表は、「経済を立て直すため、国全体で1500兆円に上るとされる個人の金融資産を有効に活用すべき」とうったえたそうです。
国の借金が1000兆円になろうとしているが、個人の金融資産は1500兆円もあるのだからこれを活用しろという事でしょう。
この論理はどうなんでしょうか?
ダブついた資金が多くあることは間違いないのですが、この個人の金融資産の多くはすでに国債購入として使われたり企業に貸し出されたり個人が家を買う時などのローンとして貸し出されているわけですからこれはダブついた金ではない。
個人の金融資産は銀行の預金等に預け入れられますが、この多くが国債の購入に回されています。国の借金は国債などの発行によるものですが、それを銀行が引き受けます。しかしその銀行の金は貯金という個人金融資産なわけです。
個人金融資産である貯金→その資金で銀行が国債を引き受ける→国にお金が入りますがもちろんそれは借金
このような構図です。
仮に貯金のうち600兆円が国債購入に使われているならすでにその額の金は国債に活用されているわけです。ですから個人金融資産はこれを差し引けば900兆円ほどになり、個人も債務があるわけですからそれを500兆円とすれば、実質400兆円ほどしかし「活用」できないわけです。この額も貯金ですからいつ降ろして使う金かもわからない金です。
もちろん国は10年とかで国債を償還をするわけですが、例えば1%の利率で銀行に償還する。しかしゼロ金利時代ですから貯金への利息は100万円の預け入れで100円玉2個ほどでしょう。国の借金の利子は銀行の利益に消えてしまいます。
ここでおかしな現象が明らかになります。
600兆円ほどの個人金融資産は国債を支えているわけですが、この国の利子はほとんど個人金融資産の持ち主には回ってこない。しかしこの国の借金を返すのは個人金融資産の持ち主である国民です。
国に金を貸しているのにその国の借金を返すのは貸している本人。。。頭がおかしくなります。
このような状況でもあるにかかわらず、またしても追い打ちをかけるように個人金融資産の活用を言うなんで相当ひどい発言ではないでしょうか?
ではこの個人金融資産を活用しろとは何か?
そこで思い出す画の合同前の維新の会代表橋下市長の資産は使い切ってもらうことといった言葉です。(正確な言葉化も含めて記憶違いなら訂正します)金融資産の活用とは金融資産を庶民は使えという事ではないでしょうか?
今年金額の引き下げも言われ、生活保護費も問題化されていますし、社会保障の切り下げが進むのではないかと思います。そして公助から自助・共助へというのが流れです。その中で公助を減らして児・共助へという事は個人金融資産を使い切れという事でもあるのではないでしょうか?
これは中間層の老後や必要とする社会保障の貧困化ですし、それ以上に低所得王あるいは年金でも厚生年金や共済年金部分がない基礎年金部分でしか老後を支えなければならない方たちのさらなる貧困化です。その上自民党は2%程度のインフレを起こすといい、消費増税が決まっています。こう見ると個人金融資産を食いつぶすしかない(もともと食いつぶすしかないのですがその食いつぶす速度が加速されます)状態が作られ、まさに富裕層に都合の良い個人金融資産の活用となるでしょう。
もともと年金や社会保障に頼らない富裕層はこの個人金融資産の活用は生きるという意味においては関係のないものでしょう。株や金融商品に使えばいいわけです。
このような個人金融資産の活用などというよりも上に見たような「国に金を貸しているのにその国の借金を返すのは貸している本人」というような頭のおかしくなるような仕組みを改善すべきでしょう。国債をめぐる銀行などの仕組みも解決しないといけない。
このような個人金融資産の活用はあってはならないことです。そこで財政再建や社会保障のためにはどこにメスを入れるのか?
上に書いた銀行のぼろもうけの金はどこに消えているのか、企業の利益はどこに消えているのか、それと関連して最近は貿易も赤字になりましたが以前の黒字部分はどこに消えているのかを見なくてはいけないと思います。国の金融資産はすごい額だそうです。その金がどこから出ているかはよくわかりませんが、やはり銀行や企業の利益と無関係なところにあるとは思えないです。
国の金融資産を中心に企業利益にメスを入れるというのが解決策でしょう。
ここには絶対流用してはならない年金積立金などのような国民から預かっているような金もあるでしょうが、「使えない金」もあるでしょう。たとえばアメリカ国債とか。しかしこの「使えない金」も含めて国の財政を考えるべきです。

【2013年】ツイッターつぶやき
今国会は秘密保護法に集中したものとなっていましたが、国民生活の直結した法案もたくさん出されていました。それをまとめたのが今朝の朝日新聞朝刊ではないでしょうか。
「企業を後押しする財源を確保しようとした結果、個人に『負担増』がしわ寄せされた。」 (同朝刊1面より引用)
これが税制対抗の流れであり、アベノミクスが掲げる第三の矢としての成長戦略でしょう。
今後どのような経済政策が行われるのか。中身についてはよく読ませていただきます。
この企業救済と国民生活の低下についてそしてそこからどのような経済矛盾を生むかはこのブログでも書いてきましたが、ではなぜこのような経済矛盾を生み国民生活を犠牲にしてまで企業を救済せざるを得ないのかが問題でしょう。それは秘密保護法に見られる国民統治の問題としても政治矛盾を生み出します。
そしてこのような国民生活の低下と民主主義を低下させてまで得られるものは何なのでしょうか?
経済面を見てもこの間のアベノミクスと日銀による量的緩和が経済を好転させるものであったかを見れば、国家財政の赤字・貿易収支赤字化・経常収支の赤字化という三つ子の赤字を生み出してもいます。何よりも国民生活の低下や労働の不安定化はデフレからの脱却を押さえつけています。これは政府も認めて賃上げの必要性を言います。しかし賃下げ傾向がどのくらい改善されたかといえば不測は否めないでしょう。
この矛盾をさらに進めようとするのが今後の成長戦略でしょう。
経済矛盾と政治矛盾は深くかかわっています。経済矛盾が上部構造である政治矛盾を生み出します。これが相乗的に悪化をする動きが見えてきたのではないでしょうか。
これが自由主義の保守戦略なのでしょうか?何も日本だけではありませんが、先進国が同じような矛盾に陥れば一時的な自由主義経済は停滞をするでしょう。資本主義の最高段階としての社会民主主義の台頭は不可避です。

【2014年】ツイッターつぶやき
物価が騰がることが好況で、物価が下がることが不況だろうか?
「給与上がるも価格も上がり、実質賃金16か月マイナス続く | 経済指標・統計 - エコノミックニュース 」
原油価格が下がっている。このような外因の経済に及ぼす影響も大きい。同時に消費増税による価格転嫁も大きいでしょう。しかし根底に流れる物価高の要因は日本が輸入大国でもあるわけですから円安が大きいという事でしょう。
物価が騰がっても労働者の実質賃金が下がれば消費不況の原因となる。この実質賃金の低下は賃下げである。円高のころにも労働者の賃金は下がり続けた。どうにか物価安の中での賃下げですから実質賃金はある程度維持されたでしょう。
このように問題なのは円高のころも円安の今も労働者の賃金が下がり続けているという事である。
ここで明らかなのはこの労働者の賃金が過去も現在も下がり続けていることが日本が不況から抜け出せない原因ではないかという事である。
ですから物価高になっても好況にならず、物価が下がっても好況にならない。失われた10年とか、20年とか、30年に向かうとか、結局は不況が続いているのです。
ですから物価がどうのという問題ではなくて不況そのものを改善しなければならないという事である。しかしこの不況を克服するという点で、繰り返しになるがそれは物価を上げることではない。
安倍政権は名目賃金を上げようとしている。しかし物価などが上がれば実質賃金は下がる。この現象は明らかに企業利益の確保であり、それがアベノミクスの姿ではないか?
アベノミクスに対する経済政策は、今の経済矛盾から銘名目賃金はある程度上げることは許容されているわけですから物価を下げるアベノミクスに対する政策となる。このことにより名目賃金も上がり添えが実質賃金の上昇に結び付けられるでしょう。
物価を下げるには政府・日銀の円安誘導を止めることである。
労働力人口が減っている中で、その労働力の需給関係からそうは失業は増やせないでしょう。あとは不安定雇用の増加によるろう度形態の変化による賃下げを止めるだけである。同時にそれは不安定雇用者の大幅な賃上げでなければならない。円高はある程度小零細企業にも有利でしょう。社会保障費の削減は止めるべきです。
この中で貨幣の回転は早まるでしょう。
企業利益は確かに一時的に減少するかもしれないし、それは株安につながらでしょう。しかし資金が株【金融】に流れることを変えるだけなのです。だぶついた資金は貨幣の回転の中で生かされるでしょう。
結局はアベノミクスの流れを変更せざるを得ないのです。それが消費増税の2年延期という現象にもすでに現れているという事です。

【2015年】ツイッターつぶやき
(記事なし)

【2016年】ツイッターつぶやき
スパムのハッシュドポテト
じゃがいもは皮をむいてレンジでチン。
玉ねぎのみじん切りをバターで痛めて塩コショウ。
スバムは5ミリ角ぐらいに切っておきます。
じゃがいもをつぶしてその中に痛めた玉ねぎとスパムを入れてよく混ぜます。
あとは小麦粉をつけて強火でカリッと焼くだけです。
食べる時の味付けは、クレージーソルト、ケチャップ、ソースの3種類で食べました。
案外クレージーソルトがあっさりしてうまかったです。

【2017年】ツイッターつぶやき
以下、柳美里さんの「雨と夢のあとに」の感想の一部です。
この四十九日間は、現実の中で過ごした二人の時間と永遠の別れである死との中間に位置する時間である。この四十九日という時間を雨と朝晴はどのような思いでどのように過ごしたか。そして永遠の別れをどのように受け止めたらよいのか、その孤独を描く。
雨は、少しづつ朝晴の死を気づいていくが、雨も朝晴もそのことには触れずに49日を過ごす。雨にとっては、このような姿になった朝晴でもいいから永遠にそばにいてほしいと思っただろう。しかしいつか訪れる孤独を予感する。
愛する者の死をどのように受け止めればよいのか、いや、受け止めようのない死からの孤独と悲しみをどのように受け止めればよいのか。そのむごい思いを小学6年生の少女が味あうのである。
四十九日過ぎまでの幸せと悲しみと孤独。。。。

gooお題「あなたの今年の漢字は?」
僕個人にとっての漢字1字ではありませんが、僕個人の1字である色も社会の中で包まれてしまう。
今年の1字は「のり弁」と言われたものに象徴される『黒』ですね。。。。。
でも黒のもっと深いものは「闇」ですね。
ですから今年の漢字1字は『闇』。
国会の運営も黒く塗られてのり弁状態でした。そののり弁の黒は深く広く広がりを持ってきてそれは闇となりました。
報道の自由度が70何位に落ちたともいわれ、知る権利も狭められているのかもしれません。
それは闇です。
ぼうっとしている間にいつ戦争に巻き込まれるかわからなくなった日本。
すでに核兵器廃絶にも力を持てなくなりました。

【2018年】ツイッターつぶやき
毎年恒例の「今年の漢字」が発表されました。災難の「災(さい)」「災(わざわい)」だそうです。
安倍総理も今年の漢字を発表しましたが「転」だそうです。
安倍総理は「期待」によって選挙に勝ってきましたが、政治面だけを見れば
期待「転」じて災いとなる。。。。。
この6年間そして今後は勤労国民にとってはますます「痛み」のある改革(転)が進められるでしょう。
去年僕が選んだ漢字は「闇」でした。
やはり今年も引き続き闇の世界が広がりました。
しかし闇というのは光の世界を遮って生まれるものです。
闇の外側には光があります。
今年は安倍内閣のほころびが目立ちました。ある意味期待だけではない現実が国民に見えてきたということだと思います。それは闇のほころびから光が見えていたということです。もちろんこの闇のほころびをふさぎながら改憲まで突っ走るのでしょうが、その改憲のやり方はやはり数の力によるものでしょう。数の力の国会運営はどうだったでしょう?これもほころびが見えたということではないでしょうか。
水が漏れだした穴の開いたバケツではないですが、穴の開いた闇からは光が差し込みます。
その光をしっかりと見つめる必要がありますね。
ということで、僕の今年の漢字は「光」です。
本格的な冬になり東京は日差しがほとんどありません。東北や北海道は大雪だそうですね。
光る日差しの暖かさを。。。。。

【2019年】ツイッターつぶやき
保育園で18名の保母さんや栄養士さんがパワハラなどに耐えきれなくなってみんなでやめてしまったらしい。この保育園にお子さんを預けている親の方もいろいろと感じていたようですね。
パワハラなどを保育園側は認めるようでもあいまいにしています。
18名同時にやめるというのは保育行政上良くないでしょう。もちろん保母さんたちに責任があるわけではなくて、パワハラなどずっと続けてきた保育園側に落ち度があるのかもしれません。こうやって18名の保母さんたちが辞めざるを得ないようなことを防ぐには、労働組合が必要でしょう。
労働組合があればストライキぐらいですむかもしれませんし、労使交渉で改善の道があるでしょう。保母さんたちも労働環境を変えるには労使交渉しか良い道はありません。
しかし今の日本社会は労働組合に対する意識性が低くなっていたり、企業側の労働組合への敵対心はひどい場合があります。また、労働者という立場から離れた市民として労働組合のストライキへの理解は低く昔からストライキ迷惑論がはびこっていました。もちろん政治も先日亡くなった中曽根さんが総理大臣のころ、国労をはじめとした三公社五現業の組合つぶしがありました。これを支援したのもマスコミであり「市民」でした。
日本は労働組合の必要性も捨ててしまいました。
しかし、今労働人口の減少から従業員を集めることの困難さが広がっています。しかし企業は労働組合がないですからやりたい放題で労働力を粗末にする。
こういう中で今回の18人の保母さんたちが一斉にやめzるを得ないということが起きてしまいます。
コンビニでも過酷な条件に対して不平不満が広がり、24時間営業も元旦営業も難しくなっていく。
労働力を粗末にすれば社会全体が疲弊していくことは明らかで、社会の混乱が進むでしょう。
日本は労働者の権利や労働組合について考えを改めるべきです。外国のストライキにニュースを見てしかめっ面したりしているのは日本ぐらいでしょう。あるいは外国のストライキをその国の矛盾としてみてその国を批判しますが、日本は批判すべきものがないのですか?ストライキもできない日本でどうするんでしょ。

【2020年】ツイッターつぶやき
中國新聞によると、広島県の新規感染者が二日続けて100人を超え、広島市が78人だったそうです。やはり県別にみても人が集中するところでは新規感染者数が急増しているようです。それも広島県の新規感染者数は東京に比べればだいぶ少ないように見えます。
しかし広島市の78人をとってみると、人口10万人当たりの新規感染者は東京の1.5倍にあたるそうです。
もちろんクラスタにより一時的に感染者が爆発することもありますので、このまま東京よりも深刻になるかどうかはわかりませんが、しかしクラスターが発生する過程で市中感染が広まっていたとも考えられます。
この10万人当たりの新規感染者数は都道府県別にまとめて公表されていませんが、この間の地方での新規感染者数の伸びを見るとかなり深刻になっているところがあるのかもしれません。
新穀というのは感染者数の増加はもちろんですが、医療崩壊も心配されます。病院数(病床数)はある程度人口に比例するでしょう。
Go Toは人の移動を促す効果があります。県を越えた移動の促進を国が言うわけですから県内や周辺県の人も大都市に集まります。観光客も観光地だけではなく大都市に集まります。
そうみると地方での感染拡大はGo toの影響も考えられます。
感染が収まるまで中止すべきです。経済もわかりますが、国がGo Toを中止しなくても人の移動は制限されていくでしょう。ですから国は思い切って中止すべきなんです。

【2021年】ツイッターつぶやき
川上弘美さんの「東京日記」が更新されました。
先日このブログにも書いたようにバンクシーって誰?展を見に行きましたが、久しぶりに電車を乗り継いで出かけましたが帰ってきてぐったりとしてしまいました。
「田舎のネズミと町のネズミ」。。。。たしかに・・・・・
コロナ禍のせいではありませんが、どこかへ友人とという気力がなくなりました。のんびり一人か家族のでライブならいいけど。
「カラスたちは、ル音のまじった、甘えた声で鳴きかわしている。」
烏たちは甘いような鳴き声でねぐらに帰る。川上さんは「お酒など」という予定どおりに酒を飲みに。
でもよく考えればお酒などという予定も仕事の打合せ。

【2022年】ツイッターつぶやき
川上弘美さんの東京日記 フェースブックでつながる。が更新されました。
マッチョになれるワクチンも、コロナのワクチンも三カ月もすれば効果はなくなる。
川上さんもコロナ感染されていましたが、少し寒くなっても冷やし中華とスイカを元気に食べているようで一安心です。
僕も、もう真冬のような寒さの中、しろくまアイスをやめられずに炬燵の中で食べています。
コロナもまた復活してきていますから気をつけねばなりませんなぁ。。。。。
のびきった麵で作っておいしいのは昭和のナポリタンと伊勢うどんぐらいでしょう。。。。。。
のびていないパスタで作る焦がしケチャップナポリタンを教えてあげたい(笑)
こうして川上さんの東京日記をネットで読ませていただき思ったことをネットにあげられる。
同制度梅につながりではないが、ナポリタンでもつながれる。。。。。

【2023年】ツイッターつぶやき
日銀が1月にはマイナス金利から抜け出すと?
理由が人手不足で賃金が上がるだろうということらしい。
賃金が上がれば経済も好循環に。
金利が上昇するのはインフレのような経済の好転が必要ですが、人手不足で賃金が上がるからというのはお先真っ暗です。賃金総額に変化はないかむしろ減少するかもしれない。
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2024年12月12日(木)「無限の大きさにも違いが?」

2024年12月12日 21時42分49秒 | 「思うこと」
無とか無限を考えるときが遠くなる。
哲学や数学はこれを証明しようとする。
数学的には、無限にも大きさの違いがあるそうです。
整数は、1,2,3,4,5・・・・・・・・と、無限に大きい数字に向かう。
偶数だけを考えると、2,4,6,8,・・・と、無限に大きい整数に向かう。
√2のような無理数も無限に大きい数字に向かう。πもそうですがそれ自体が無限に広がる。
整数と偶数が無限に広がる中で偶数は整数の半分の広がりですからその無限には大きさが違うのでしょうか?
どちらかというと、無限の大きさというよりも、無限の中の密度の違いではないか?
無限には終わりはないが、はじめはあるのかもしれない。
車と車が衝突する。その過程では、あと10メートル、5めとる、1m……・1センチ、1ミリ・・・・・と、無限に小さな数字となるから車は衝突しないはずです。しかし現実には車は衝突する。小さな数字への無限は存在しないなら、無に等しいところから無限は広がる。とはいえ、無に近づくということは無限に小さな数字というものがある。無になるには小さくなっていく数次の密度が高くなっていくということなのかも。
無も無限もどこかで質的な大きな変化がないとだめなのでしょう。量的変化は質的変化に。。。。
頭がおかしくなります。
しかし、未来の人たちは、この無や無限を科学的に理解をして無限世界を自由に飛び回るのでしょう。
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「12月12日という日」

2024年12月12日 07時51分43秒 | 「何を思ってた?」(旧ブログまとめ)
【2024年】ツイッターつぶやき
無とか無限を考えるときが遠くなる。
哲学や数学はこれを証明しようとする。
数学的には、無限にも大きさの違いがあるそうです。
整数は、1,2,3,4,5・・・・・・・・と、無限に大きい数字に向かう。
偶数だけを考えると、2,4,6,8,・・・と、無限に大きい整数に向かう。
√2のような無理数も無限に大きい数字に向かう。πもそうですがそれ自体が無限に広がる。
整数と偶数が無限に広がる中で偶数は整数の半分の広がりですからその無限には大きさが違うのでしょうか?
どちらかというと、無限の大きさというよりも、無限の中の密度の違いではないか?
無限には終わりはないが、はじめはあるのかもしれない。
車と車が衝突する。その過程では、あと10メートル、5めとる、1m……・1センチ、1ミリ・・・・・と、無限に小さな数字となるから車は衝突しないはずです。しかし現実には車は衝突する。小さな数字への無限は存在しないなら、無に等しいところから無限は広がる。とはいえ、無に近づくということは無限に小さな数字というものがある。無になるには小さくなっていく数次の密度が高くなっていくということなのかも。
無も無限もどこかで質的な大きな変化がないとだめなのでしょう。量的変化は質的変化に。。。。
頭がおかしくなります。
しかし、未来の人たちは、この無や無限を科学的に理解をして無限世界を自由に飛び回るのでしょう。

≪過去の記事≫

【2003年】
どうも車の調子が悪い。
時々エンジンが停止してしまいます。どこが悪いのか?まったく機械オンチの僕はわかりません。以前も同じ症状が出たのでメーカーの工場に持っていったのですが、メーカーに持っていくと、車は澄ました顔で?いつもと同じように調子よくエンジンを回している(笑)
今日も早めに帰ってメーカーに持って行こうと独り言を言ったら、買い物後には調子がよかったです。。。。ううう
ガッハッハッハ。。。。

【2004年】
寒い一日でした。久しぶりに妻と二人でお茶。何ヶ月ぶりだろ?
先日登呂遺跡見学に行ってきました。ずっと昔の記憶なのですが遺跡が発見されたときは大ニュースでした。今でも登呂遺跡といえば誰でもが知っていることでしょう。
公園のように整備され弥生時代の建物が復元されていました。隅のほうには博物館があり、これを楽しみにしていました。しかし、たしかに子供たちにとってはある程度の学習資料となるのですが、発掘されたものの展示もほとんどなく、なんとなく寂しい思いでした。
登呂遺跡!!=豊富な発掘品の展示
これが僕の想像だったのに。。。。
そういえばドライブに行ったときはよくその地方の博物館に行きますが、期待を裏切られるほうが多いです。建物自体はものすごく豪華なのに中身は寂しい。。。。
たぶん数億円の金を使って作ったのでしょうが、中に入るとどんよりしてしまいます。
もちろん素晴らしいところもありましたが。

【2005年】
「東京日記 卵一個ぶんのお祝い。」
            平凡社
            川上 弘美  著
「『東京日記』という題は、(中略)敬愛する内田百閒の同題の作品にも。とはいえ、百閒先生と並んでしまってはおこがましい気がして、表紙には『東京日記』という字は、小さく印刷しました。」
                      (「あとがき」より)
川上さんを通じて百閒を知ってからは、どうも川上さんの作品を読み終わると、百閒の作品を読みたくなる。逆に百閒を読んでからは川上さんの作品を読みたくなる。
というわけで、ちょっと寄り道をした後に百閒の「百鬼園日記」を読みはじめた。百閒の「東京日記」は持っていなかったので、同じ日記を読みはじめた。(百閒の「東京日記」は、さっそく岩波文庫で取り寄せることにした)
百閒といえば、漱石の弟子だが、今、津田清楓の「漱石と十弟子」という本を開いたら扉の挿絵に百閒がちんまりと右隅に鎮座している。挿絵の横には一人ひとりの名前が書いてあるが、そこには「百閒」ではなく「百鬼園(ひゃくきえん=ひゃっけん)」とあった。どうも百閒=百鬼園とは知らなかったので、漱石山房の人々の中での百閒を読み返したくなった。
百件は、漱石の「夢十夜」に影響されているようで、不思議な心の世界を書いている。そして川上さんも初期の作品においては心の世界という不思議さを書いている。また、百閒には、暗い世界の中にもユーモアを感じるが、これは「贋作吾輩は猫である」にも出ているのか?この人間の中にある思わず笑ってしまうような皮肉のあるユーモアは、川上さんの中にもあると思う。
その意味では日記は世の中の身の回りに起きる事々を書いているわけで、日常に何を見ているのかがわかるものである。その中に不思議さを見たりユーモアを見たりすることは、その作品にも表れるだろう。川上さんの「卵一個ぶんのお祝い。」はその点でも楽しく読める作品である。
百閒の「百鬼園日記」のはじめは、電車(今の都電)に乗ったら、向かいの席に貧相なばあ様が眼帯をして座っており、次の駅に着いたら、やはり同じように貧相なばあ様がやはり眼帯をして向かいの席に前の婆様と並んで座る。あまりな偶然に百閒は笑いたくなるのだがそれをこらえる。読んでいてこっちもニタニタしてしまうような風景である。偶然にも川上さんの日記も百閒が乗った飯田橋を通る都電と同じ界隈を走るたぶん中央線から総武線に乗り入れる黄色い電車の中だろうと思われる電車の中の風景である。「『大福おじさん』を見た。」ではじまる。
姿勢良く立ち大福を6個食い十六茶を飲み干したら次の駅で降りていったというのである。これもまた読んでいるこっちもニタニタしてしまうような風景である。
百閒が30歳を迎えようとした大正6年という時代も、川上さんが見た平成の世も、人の棲息する世界にはそうは違いがないのである。漱石は「人は喜劇を演じる」という。この言葉には重みがあるが、あくせくとした中に人は様々な喜劇を演じ、この2人の日記に現れるようなニタニタしてしまうような風景をも演じるのである。
2人の共通項に俳句というものもあるが、その俳諧趣味というのか、日常に起こるちょっとした風景に動かされる自分の心をさらっと書き表す楽しさを読むことができるだろう。
この日記の題名である「卵一個ぶんのお祝い」とは、引越し先のアパート(仕事場)が決まったので、納豆に卵を一つ落として食ったというだけのことである。
ここに俳諧趣味を見ないだろうか?
川上さんは、やはり「あとがき」の中で次のように書いている。
「以前『椰子・椰子』という、嘘日記の本をだしたことがありました。本書は、本当日記です。少なくとも、五分の四くらいは、ほんとうです。普通に生活していても、けっこう妙なことがおこるものだなあと、読み返しながら、なつかしく思いだしております。」
たしかに五分の一ぐらいは、「椰子・椰子」の不思議な世界がある。
五分の四は、日常の生活の中にあったほんとの話を書き連ねるが、この五分の一は、そこに心の動きを新たに書き表すためのものだろうと思う。
この川上さんの心の動きは、「妙なこと」への微笑であったり、いらいらであったり寂しさだったりほんの少しの幸せだったりする。読み終わるといつの間にか後方へ流れ去っていく今という時間の中にある物事がよくよく見れば妙なものだと思えてくる。ようは、日常の中に現れる自分自身の心の動きが大切なのである。
百閒の「百鬼園日記」もこの点では優れている。
優れた日記というのは、作家の書く日記というのは、日常のほんとの出来事が四分で、そこにそのほんとうのことに一分の魂を吹き込めるかにあるのだろう。それは解説を書くことではない。長く書けばよいというものでもない。一分の嘘を書くことに難しさがあるのである。
俳句の作り方に、嘘は許されるかというものを読んだことがある。これは、江國香織さんがインタビューのときに「小説に書かれていることはほんとの体験ですか?」というようなことを聞かれ、そんなことを聞くような記者はバカみたいだと一笑している。銀色夏生さんの日記「つれづれノート」を「嘘を書いている」といった夫に対しての夏生さんの態度。川上さんも同じようなことを書いていたと記憶しているが、公開されている日記は、その作家にとってはひとつの作品である。作品であるならば一分の嘘日記という心の動きを表現されていなくてはならない。だからこそ読者の心に結びつくのだろう。

あまり日差しが良くなかったのですが一応布団を干しました。
5時少し前、西の空の夕焼けがきれいでした。
また痛ましい事件があった。
塾の講師が小学生の女の子を殺したという。この講師にはいろいろと問題があったと報道されているが、どうも幼児性のあるキレルのが早やいような人だったらしい。ご両親は残念でしょう。
しかし、今の世の中少子化で塾も子供を集めるのに大変らしい。この中で、もし塾が子供をお客さんとしてちやほやしているならこれも問題である。以前ファーストフード店で、二十歳前後の女性が小学生の子供に「いらっしゃいませ!ご注文はお決まりですか」と敬語を使っていが、こういうやり方が塾にももしあるとすれば、塾の講師のストレスはそうとうなもんだろう。
子供は大切にしなければならないというのは真理だが、小学生からして将来は立派な悪になるだろうという子供がうろうろしている。悪といっても犯罪予備軍というだけではなくて大人の弱みに付け入るような悪でもある。影でいじめをしている良い子とか。
こう書くと、すぐに勘違いをして愛の鉄拳は必要とか、変な精神論を説くことがありえるが、そうではなくて、金中心のあまりにもひどい世の中になって大人が子供に対して自身をもてなくなっていることが問題である。

【2006年】
(記事なし)

【2007年】
(記事なし)

【2008年】
(記事なし)

【2009年】
(記事なし)

【2010年】ツイッターつぶやき
(3)では、労働の生産性は同じ労働力量に対してより多くの商品を生産し時には過剰生産というものも生み出し、もしくは労働の生産性が高まる中でその商品量を同じにしたとするならばそこに必要な労働力量は過剰になり時には失業を生み出すと書きました。
もちろん市場における好景気時はその商品の消費量は個人消費という形でより多く消費をされ同時に設備投資という中での消費も盛んになります。しかしこの好景気にも個人消費には限度があり、設備投資をされた不変資本は最終的には大衆消費財として個人消費のための商品に価値移転されるわけですからこの設備投資という消費も限界になる。やはりこの帰結の中に過剰生産と失業はすでに内包しているわけです。
常に過剰生産傾向と失業傾向は生産性の向上の中において必然性を含んでいます。
このように一つの矛盾を引き起こす生産性の向上がなぜ急速にすすむのでしょうか?
よく言われるのは生産性の向上はあたらいい商品をよりやすく生産をして国民生活を豊かにすることが目的であり、だからこそ人々は生産性の向上に取り組んでいくのだと。しかしこれは動機と結果が逆転した結果論にほかなりません。労働自体は生活を豊かにすることは間違いはないので、人々が労働することからこそ国民は豊かになるわけです。ここでは新しい機能性に優れた商品を生み出すといったようなことは、何も生産性の向上に関係なく生まれていきます。ただ安い商品を作り出すことが動機なわけです。これが動機ですから安い商品を市場に流通させることが生産性向上の原動力なわけです。目的なわけです。この目的と結果は一致するとは限りません。国民生活を豊かにするというものは直接の目的ではないからある場合にはこれが結果として出てくることは限らないのです。ここに過剰生産と失業という結果が同時に出てくるし、労働の生産性の向上が一つの矛盾として現れます。
生産性の向上というその動機と目的は商品価値を下げるということです。そしてそれは競争に支配されいます。この競争はより多くの利潤獲得と生き残りの競争です。これが生産性を急速に推し進める原動力です。
より多くの利潤の獲得といった場合、市場の中で見えやすいという点では、ある商品の中である企業が作る商品の性能や機能性そしてデザインなどといったもので売り上げに変化がおきます。しかしこれらの付加価値はその商品の使用価値の高まりによるもので価値自体が高くなったわけではない。同じ労働力を消費した商品は使用価値を高めることはあっても価値は高めない。今年爆発的な売り上げをした自動車は、他の企業が同じものを売り出すと価格が下がった。価格が下がったというのは、価値が下がったというのではなくて使用価値が特別なものであったがそれが特別なものでなくなったからの価格下落で、その自動車の価格が価値に近づいたということです。自動車産業全体の同じグレードの車はその価値によって価格が決まるというのが基本で、長い市場の流れの中に価値は基本的なものであることは経験としても見ることができるでしょう。
商品はどのぐらいの労働力量を消費したかでその価値は決まる。そして労働力を消費している過程である労働が商品という形を形成したり他にはない上のような付加価値もつける中に使用価値を形付けるという労働価値説から商品をよりやすく生産をし、利潤を高めるという中の競走を見なくてはいけない。

一昨日の「自然水中(2)」では賃金高や雇用者数との関係から利潤率への影響が語られているといった中身について書きましたが、利潤率は労働力を買う場合にもその価値によって買うわけですから他の原材料を買うのと同じで利潤を得るには価値通りの値段で買ってそれを消費して商品をつくる中で得られるものです。今は労働力も買いたたかれて安く雇用売ることが企業の利益だといった謝ったものがはびこるようになってしまいました。しかし利潤率の一定化と商品価値(市場での価格)は下がるのが法則だといった視点で考えるべきかと思います。
以下、以前書いたものの再録ですが、長いのであくまでも自分自身のおさらいとしてこちらに乗せます。(まとまらずにわかりにくいです。自分でイライラする(笑))

「労働の生産性の向上は商品の価格を下げる。社会的合理性は賃金を下げる。
これはデフレと勘違いをされますが、社会的な経済政策の変更によっては社会の発展となるわけです。
そこにはもう少しなぜ商品価格は下がる傾向になるのか、賃金はなぜ下がる傾向になるのかを見なくてはならない。 」
と書きました。
ある商品を生産するには生産手段と労働力が結びつかねばなりません。企業は生産手段と労働力を買うわけですが、それは生産手段を買うための不変資本と労働力を買うための可変資本を投資します。ここでは生産手段も労働力もその価値どうりに支払われます。
労働の生産性が高まるというのは、より少ない労働力でより多くの商品を生産することにあります。そのために機械化は進み生産システムは合理化されます。例えば、ある企業が今までは1000人の労働力を使って年間10万個の商品を作っていたとします。この中で生産性が高まり、極端な数字ですが、年間20万個の商品を生産できるようになったとします。すると可変し本領資本量は変化しませんが不変資本は新たな工場や機械を導入したり原材料も2倍になるわけですから可変資本に対して不変資本は大きくなります。または市場を見て20万個の商品は過剰という見通しを立て今までのように10万個の商品を生産するとなると必要な労働力は500人と半減をします。
ここで何がおきるかといえばこのような労働の生産性の向上は不変資本に対する可変資本量の変化として現れます。この変化は生産のための不変資本と可変資本の有機的組成を変化させます。
この企業は市場に倍の20万個の商品を出すか、同じ10万個の商品を出して500人首を切るかを選択するわけです。
このような中で何がおきるかといえば、上の企業と同じ商品を生産する産業があるわけですが、その産業全体で同じことが行われるわけですから、市場にはあふれるような商品が投げ出されるか、その産業内においての労働力の削減が行われるわけです。商品の過剰生産か失業が不可避的になります。そしてこの生産性の向上は、国内、現在では全世界において行われ、資本主義生産は過剰生産と失業という矛盾を引き起こさざるを得ません。
次はこの矛盾を引き起こす原動力となるものが何かをみなければなりません。
労働の生産性は同じ労働力量に対してより多くの商品を生産し時には過剰生産というものも生み出し、もしくは労働の生産性が高まる中でその商品量を同じにしたとするならばそこに必要な労働力量は過剰になり時には失業を生み出すと書きました。
もちろん市場における好景気時はその商品の消費量は個人消費という形でより多く消費をされ同時に設備投資という中での消費も盛んになります。しかしこの好景気にも個人消費には限度があり、設備投資をされた不変資本は最終的には大衆消費財として個人消費のための商品に価値移転されるわけですからこの設備投資という消費も限界になる。やはりこの帰結の中に過剰生産と失業はすでに内包しているわけです。
常に過剰生産傾向と失業傾向は生産性の向上の中において必然性を含んでいます。
このように一つの矛盾を引き起こす生産性の向上がなぜ急速にすすむのでしょうか?
よく言われるのは生産性の向上はあたらいい商品をよりやすく生産をして国民生活を豊かにすることが目的であり、だからこそ人々は生産性の向上に取り組んでいくのだと。しかしこれは動機と結果が逆転した結果論にほかなりません。労働自体は生活を豊かにすることは間違いはないので、人々が労働することからこそ国民は豊かになるわけです。ここでは新しい機能性に優れた商品を生み出すといったようなことは、何も生産性の向上に関係なく生まれていきます。ただ安い商品を作り出すことが動機なわけです。これが動機ですから安い商品を市場に流通させることが生産性向上の原動力なわけです。目的なわけです。この目的と結果は一致するとは限りません。国民生活を豊かにするというものは直接の目的ではないからある場合にはこれが結果として出てくることは限らないのです。ここに過剰生産と失業という結果が同時に出てくるし、労働の生産性の向上が一つの矛盾として現れます。
生産性の向上というその動機と目的は商品価値を下げるということです。そしてそれは競争に支配されいます。この競争はより多くの利潤獲得と生き残りの競争です。これが生産性を急速に推し進める原動力です。
より多くの利潤の獲得といった場合、市場の中で見えやすいという点では、ある商品の中である企業が作る商品の性能や機能性そしてデザインなどといったもので売り上げに変化がおきます。しかしこれらの付加価値はその商品の使用価値の高まりによるもので価値自体が高くなったわけではない。同じ労働力を消費した商品は使用価値を高めることはあっても価値は高めない。今年爆発的な売り上げをした自動車は、他の企業が同じものを売り出すと価格が下がった。価格が下がったというのは、価値が下がったというのではなくて使用価値が特別なものであったがそれが特別なものでなくなったからの価格下落で、その自動車の価格が価値に近づいたということです。自動車産業全体の同じグレードの車はその価値によって価格が決まるというのが基本で、長い市場の流れの中に価値は基本的なものであることは経験としても見ることができるでしょう。
商品はどのぐらいの労働力量を消費したかでその価値は決まる。そして労働力を消費している過程である労働が商品という形を形成したり他にはない上のような付加価値もつける中に使用価値を形付けるという労働価値説から商品をよりやすく生産をし、利潤を高めるという中の競走を見なくてはいけない。

ある商品をつくる産業内にABCという3社があったとする。この3社は生産性の違いがある。
A社は100人あたりの商品の生産性は年間5万個とする。
B社は100人あたり10万個。
C社は100人あたり15万個。
少し極端な数字ですがその生産性の違いをわかりやすくしておきます。
上の生産性は労働力を「100人あたり」としての比率であり、3社にはとうぜん生産規模は異なります。また、商品のデザインなどという使用価値はここでは考えずにその商品の価値はどのくらいの労働力を必要としたかの労働価値説としてその生産性を考えます。そしてその労働力は価値どおりに買われ賃金として支払われ3社共に同じ額とします。
この3社で生産された商品が市場に出ます。
一つひとつの商品の価値は市場価格として現れます。当然にA社の商品は市場において高くなり、C社の商品は安くなります。B社の商品が平均的な価格となります。各社の生産規模の違いなどもあり市場の中での商品量の中で市場価格がB社が生産した商品の価格に一致したと過程をします。それを仮に10万個の商品の価格を100億円とします。
するとどういうことがおきるかといえば、100人あたりの労働力としては、A社は同じ労働力を使ったにもかかわらず5万個の商品50億円の売り上げしかありません。それに比べてC社は15万個150億円の売り上げが出るわけです。同じ労働力量を使ってもその売り上げに大きな差が出ます。平均的なB社は10万個の商品で100億円の売り上げがありますが、この平均的なB社を基準に見ると、A社は生産性が極端に低く、C社はそうとう高い生産性となります。
各社の商品の価値は市場の中で平均的な価値に落ち着きそのある商品の価値を決定する。するとA社の利潤は低く、C社の利潤は高くなり、B社が平均的となります。しかしここで注意をしなくてはいけないのは、生産性が低いとはいえA社はけっして「赤字」ではない。ただ会社としての利潤が低いだけであり、労働者には何の責任もないし賃下げ理由にはならないことは後の議論には必要となります。
同じ労働力を消費しながらも市場においての利潤が異なる。一つひとつの商品価値は、C社は低いにもかかわらず平均的なB社と市場では同じ価格として売れる。この平均的な価値と本来の価値との差額を特別な剰余価値としてC社は手に入れるわけです。
この中においてA社はもちろんB社もC社と同じ生産性に高めようとします。C社は今以上に生産性を高めようとします。利潤追求のために。。。。
これが資本主義的競争なわけであり、商品をより安く大量に生産していくという原動力なわけです。
A社は100人あたりの商品の生産性は年間5万個とする。
B社は100人あたり10万個。
C社は100人あたり15万個。
というひとつの産業内のこの3社を別の角度から見ることにする。
A社は、不変資本(設備や原材料など)と可変資本(労働力を買うための賃金)に投資をして生産を行うわけですが、100人あたりという労働力が5万個という商品量に価値移転させる不変資本量は少ない。一方C社は同じ100人あたりの労働力が15万個の商品を生産するために不変資本量は多くなる。すると100人あたりの労働力への賃金である可変資本量は同じでも不変資本量は大きな違いを見せる。同じ可変資本量に対して不変資本量が大きくなる割合として資本の有機的な組成が高くなるわけですが、これは企業活動から見ると一つの生産拡大となります。
また、C社は圧倒的にその商品価値を安く生産できるわけですから(5)で診たように平均的な市場での価値(価格)で商品を売らなくても値下げをして市場での独占化を行うことができます。独占化はより多く生産された商品を売りさばくことにも有効なわけですから、商品を値引きしたとしてもそれは利潤の拡大となります。この独占化傾向は、C社がもう一つ同じような工場をつくる動機ともなります。ここに生産拡大というものが強くなります。
(5)でも書いたようにAB両社もこれに追いつけ追い越せと生産性を上げながら生産拡大を行います。
商品がより多く生産される拡大再生産されるというものは資本主義経済法則の一つの現れです。
ちなみにこの生産拡大によるより多く市場に出された商品価値(価格)はどうなるかというと、100人あたりの生産性の拡大の中では、その生産拡大は不変資本量の増加という形で現れることを上に書きましたし、C社がもう一つ工場を作り新たな100人という労働力を増やしたとしても100人あたりというものには変わりはなく資本の有機的な組成は変化しません。労働の過程の中により多くの不変資本が新たな商品に価値移転(機械の減価償却や原材料の消費など)されるわけですが、この不変資本は価値移転されるだけであり新たな価値を生み出すものではありません。新たな価値を生み出すのは、不変資本を商品という形に価値移転させる過程においての労働力量にほかなりません。ですから商品の価値は、不変資本量がどのくらい価値移転されたかというものにプラスされて労働過程でどのくらいの労働力量が消費されたかにあり、新たな価値創造として残るのは労働力の消費という形での価値の増加という商品価値となります。
C社が以前はB社と同じ生産性にあり、生産性の工場により現在の生産性に高まったと過程をしてみると、以前は100人の労働力量で10万個の商品を生産していたのですが、今は15万個になった。しかし商品に新たな価値としてプラスされたのは同じ100人の労働力なわけですから、以前の10万個の商品価値と現在の15万個の商品価値は同じとなります。これを一つあたりの商品価値としてみると、一つあたりの商品価値は以前より価値を減らしたということになり、市場における商品価値はsがっていく傾向を示します。価値どおりに売られれば商品は相当安くなります。
この商品の価値の低下による低価格化葉もまた資本主義的生産の法則性となります。これで資本主義の市場においての商品の低価格化と商品量の爆発的な生産拡大が資本主義的経済法則の必然であり法則性だということがいえると思います。
ではこの資本主義的生産がどのような帰結をもたらすのかということになります。
A社は100人あたりの商品の生産性は年間5万個とする。
B社は100人あたり10万個。
C社は100人あたり15万個。
(6)でも触れましたが、この労働の生産性の違いから生じる商品の市場価格がその価値からはなれて平均の価格形成としての特別な剰余価値を与える中での各社の利潤率はC社が一番高くA社が一番低くなる事を見ました。そしてここに資本主義的競争の原動力がある事を見ました。
この中でA社はもちろんB者もその生産性を向上させようとします。そしてC社と並ぶ生産性を得たと仮定します(C社の生産性は現在のある限界内にあり停滞するとします)。するとこのある商品を生産する産業内には平均な利潤が確定します。各社はそれぞれ100人当たり15万個の商品を生産することができるのですから、この産業をX産業とすれば
X産業は100人あたりの生産性は45万個
となります。
仮に10年前のX産業の生産性は低くてA社並みだったとすれば、X産業はこの10年で同じ労働力量(100人あたり)での商品の生産数が15万個から45万個の増加したこととなります。10年前と現在でも不変資本量と可変し本領の投資される資本は同じとすれば、それを分母として商品の総(100人あたりの労働力に対してですが)売上を分子にした場合、ある利潤率が決まります(追記:分子分母反対だったかな?)。しかしこの生産性の違いにより何が異なるかといえば、生産された商品量にあります。ある一定の利潤を得るには、10年前は15万個生産をしていたが今では45万個を生産している。そうすると商品1個あたりを見るとその価格は3分の1になります。X産業では同じ利潤を得るのにより多くの商品を市場に出さねばならなくなったということです。
同時に特別な剰余価値を得られなくなっているわけですから市場価格は価値に一致してきます。
資本主義生産とその資本主義的競争がもたらす一つの帰結は、市場における商品量の増加と一つあたりの商品の価格は価値に一致をして低下するということです。
これは資本主義生産の無政府性として現れざるを得ません。
X産業では、より多くの利潤を求めようとすれば工場の新設や市場の独占化のために各社の潰しあいに頼らざるを得なくなります。これがまた資本主義競争として行われるようになります。そしてまたこの工場の新設の競争がさらに市場に送る商品量の増加とも結びつくことが起こります。しかしここでは先にも書いたように特別な剰余価値を得られなくなっていますから、企業の利潤率は上がりません。生産性の向上のない中に工場の新設だけでは利潤額は上がるが利潤率は高まらない。ここに企業あるいはX産業そのものにまず停滞感が現れます。
一方商品量は市場の中により多く出されるわけですしその商品量は無政府性の中にあり一度過剰感が出てくると各社の中では値下げ競争もはじまります。値下げといっても赤字になるわけではないが、利潤低下であると同時に剰余価値率の低下として現れ始めて企業の停滞感はさらに深まります。
その産業では株価が下落をして資金が他の産業に流れていくでしょう。今資本をより吸収する産業の育成とか言われていますが、それはこのことからはじまる一つの帰結菜わけです。
しかし以上のような現象が他の産業にも波及をしていくならば、一つの社会そのものが不況という形をとり始めます。

【2011年】ツイッターつぶやき
(記事なし)

【2012年】ツイッターつぶやき
拝啓 川上弘美様
東京日記を拝読いたしました。
「洗練された外国的行為」のご様子頼もしく思いました。
僕は外国といったところは新婚旅行のハワイ一度しかありません。
あのチップというものはプレッシャーになるものですね。
ガイドブックを見て相場はいくらかと勉強していったのですが、
やはりその相場を計算すると端数が出る。
その端数まで枕の下に置けばいいのかと置いてしまいました。
日本円で言えば1円玉まで置くようなものですなぁ。。。。。
あのストレスは一生忘れないことでしょう。。。。。
あれ以来外国は恐ろしくなっていかないことにしました。
「洗練された外国的行為」に尊敬をいたします。
そしてその「洗練された外国的行為」の最後は。。。。
あれを置いてくればいいのですね。。。。。
            敬具

しばらくこちらを書けないでいました。
変なオヤジからのお手紙風はご迷惑かと思ったりもしましたが、そこは開き直ってまた書かせていただきます。

【2013年】ツイッターつぶやき
秘密保護法の強行可決に特徴的に見られる政府と国民意識の乖離は、政府と国民の断絶にまで進む危険性がある。
「ねじれの解消=数の力」という保守二大政党制の矛盾が今の与党に色濃く出ている。政治哲学の欠如である。
秘密保護法でも今後国民の理解を得ていくとし、経済面でのアベノミクスも賃上げや雇用の改善をすると期待を持たせるだけである。しかし一連の石破発言や国会内討論を見ても秘密保護法の拡大解釈がどこまでもできてしまうという器具を国民に与えているし、アベノミクスも一部輸出企業(大企業)のボーナスの増加はあるものの賃下げはとまらずに不安定雇用の増大に向かっている。そして税制や予算面での国民生活の低下を引き起こしている。
すべて今の政府が行っている政策は、数の力による国民統制に向かっている。国は国民の声を聞く耳を持たず、国民は政府と討論ができない国家は、まさに政府と国民の断絶である。
この断絶の中に国と国民を結びつける接着剤として出てきたのが「国を愛する」ことという第一次安倍内閣の二番煎じである。そこには「政府は国民を愛する」ことという意識はない。国民は自由や民主主義の低下そして日常の生活低下の中にも「国を愛せよ」とするだけである。まさに国民生活の安定や自由や平等という民主主義を発展させる中で国民は国を愛するということとは逆立ちをした論理である。
この逆立ちは経済理論にもあり、経済の建て直しは今までの低賃金化や雇用の不安定性の中での企業利益の拡大という経済政策の誤りを捨てることにあるのだが、国民生活の低下に加えて円安誘導による物価高をデフレの解消とする。
逆立ちをした論理が数の力として行われ続ければ社会もまた逆立ちをした社会となり経済法則は国が定めるものという統制経済と向かうでしょう。
それは自由主義・資本主義の経済からの離反でしょう。

【2014年】ツイッターつぶやき
窮乏化というのは単なる貧困化を言うばかりではなくて、資本主義の生産様式の発展の中で労働者の状態が悪化していくことです。単なる貧困化といった場合は、たとえば資本主義が発展していく中で科学技術の発展から国民生活は昔の国民よりも豊かになっていますから、この意味では単なる貧困化はない。窮乏化は窮乏化作用であり、その時代時代において国民生活を低下させようとする作用が働くという事です。
昨日次のように書きました。

資本主義の発展は、それは経済発展でもあるが、生産性の向上と科学技術の発展との螺旋的発展である。この間このブログでも繰り返し書いてきたがこの生産性の向上と科学技術の発達は互いに作用しながら商品価値を下げていくというところにその特徴がある。価格ではなくて価値を低下するという事である。商品価値の低下はその商品をより多くの国民に配分する条件である。それは国民生活を豊かにするだろう。
しかしこの生産性の向上はもう一つの作用がある。労働力の節約である。労働力の節約があるからこそ商品価値は下がるのであるから。この労働力の節約はこれかで失業者を作り出すものであった。しかし本来は労働力の節約は労働時間の短縮としてあらわさねばならなかったのである。労働時間の短縮は国民生活を豊かにするだろう。
そして貨幣量の問題がある。成長には貨幣量の増大だけが必要だろうか?それは間違いで、貨幣量の増大を必要とする前に癌時点の貨幣量をどう回転速度を速めるかを考えねばならないのである。国民・企業・国家へと貨幣がどう早く循環をするかである。血液のようなものである臓器に血液が不足していても輸血をして増やせばいいというものではなく、増やしてもその臓器に血液がなぜ回らないかを解決しなければ何の解決にもならない。血液量は足りているのだからどう循環を速めてその臓器に回すかなのである。血液量が国民生活という臓器に足りなければそこに血液を回すことが必要である。一定の必要な貨幣量は国民生活を豊かにするだろう。同時に循環を速めれば血液量は少なくて済むだろう。
賃金は労働力の再生産費=生活費である。
諸商品の価値が低下するならば生活費は少なくて済む。そこでそうは大きな賃上げをせずに済むようになるだろう。
国家に金が回りその金が所得の再配分としての社会保障に廻れば国民はそうは貯金をせずに済む。
医療費や教育等などに国の金が回れば国民の生活費はさらに減るだろう。

資本主義の発展は本来国民生活を豊かにする作用を内包しているのですが、しかし資本主義はその内包する法則を無視をして利潤追求に走る。
物価の下落はデフレ不況を招き、社会には失業者や不安定雇用者が増えそれをもとに労働者の賃金が下落をしていく。
このような現実の資本主義経済が国民に与える現象すべてが窮乏化作用といわれる。
今の日本で起きている様々な国民生活の低下という矛盾を言い表すといってよいでしょう。
なぜ単なる窮乏化という言葉ではなくて窮乏化作用という言葉なのか?
窮乏化については上気しましたが、常にその窮乏化は国民生活に襲い掛かるといった意味で窮乏化作用なのですが、しかし国民も窮乏化を受け入れるだけではないでしょう。日本でも55年体制というものがありましたが、急病化に対する国民側からの改良の要求が起こります。この改良によって窮乏化は一定食い止められますし緩和をします。ですから窮乏化は絶対的ではないのです。改良によって豊かさにかえることができます。しかしもう55年体制の復活だけを言うのではなくて、資本主義の最高段階としての社会民主主義を作らねばならないでしょう。

【2015年】ツイッターつぶやき
軽減税率では自民公明間で食品のどこまでを当てはめるかでもめていた。しかしここにきて自民党が公明党案を上回る案を出してきて合意をしたという。
そこで問題として取り上げられたのが軽減税率実施に伴うその財源である。
なぜこのような財源が問題となるのか?
財源とは国家予算を上回って生じた税の必要性が出た場合に問題となるべきものでしょう。しかし軽減税率は、簡単に見れば、2%の増税を1%にしましょうというものでしかないのです。それでも増税で1%は税収は増えるのです。その1%多くなった税収を社会保障に使えばいいのです。
増税が半分になったから社会保障の削減は詭弁でしょう。
消費増税は社会保障に使うことが原則です。国民は増税分が前年度の実績にプラスされると思っていたのですが、そうではなくて社会保障費は消費増税で賄うということなのです。

【2016年】ツイッターつぶやき
(記事なし)

【2017年】ツイッターつぶやき
海は荒れ
空は黒い雲が渦を巻く
大きな白波が
打ち寄せる大岩に
老人が二人座っていた
一人は目を落とし
一人は見上げている
次の大きな波で消えていった

【2018年】ツイッターつぶやき
熊蟄穴(くまあなにこもる)
12月12日は七十二候では「熊蟄穴(くまあなにこもる)」に当たるそうです。
先週は暑いくらいの気候でしたが、今週になりだいぶ寒くなりました。
朝、ごみを出しに行ったら息が少し白くなっていました。
今年は暖冬かなと思いましたが、もしかして厳冬かな?
熊も穴にこもって冬眠だそうですが、毎年冬になると僕も冬眠をしたくなります。
家事もやらねばならないことはありますので少しは動きますし、買い物ぐらいも行かなければならない。暇な時間になると炬燵に潜り込んでいます。昼飯後はこたつで冬眠、いや昼寝。
気持ちいいですなぁ。。。。。。
寒いのは仕方ないのですが、晴れ間がないというのは嫌ですね。あと日が短いと伊野はいうのはすごく気がめいります。
冬至まであと10日。
日が長くなるという気持ちだけで楽になります。
あとはクリスマスで、紅白観て正月ですからなぁ。

【2019年】ツイッターつぶやき
今夜は満月です。
十五夜の月とかその季節ごとの満月はありますが、12月の満月が好きです。
冬がはじまり寒い中で昼の長さが短くなっていくしょつ初冬は苦手ですが、冬至も近づくころの月は早くから登り始めて登り始める月は大きい。
毎年月が見えるとしばらく寒さを忘れて眺めてしまいます。
だいぶ高く登ると冬の星座も見えてさらに美しい。

露出が悪いけど金冠の月。。。。。。

【2020年】ツイッターつぶやき
僕がPCR検査を受けに行ったと仮定する。
検査結果は陰性で一安心。しかし一歩外に出た瞬間電車の中や飲食店で感染するかもしれない。
すると陰性だといわれても現実は感染していつ陽性になるかわからないので先の検査は何だったのかとなる。
こうなるとPCR検査なんて無意味だと感じてしまうかもしれません。
でも、ここにはなぜ検査を受けるのか?が抜けています。
風邪ひいたかな?でもコロナも心配。うわっ、陽性。
このどこに検査不用の理屈があるんでしょ?
無症状者も同じですが、検査を受けて陰性なら他の人にうつすことはまずない。検査多くやればやるほど感染拡大防止になりますね。
一人の人単位で考えると変な論理になります。数万数十万単位の人の集団で見れば、多くの検査により多くの陽性者を隔離して多くの陰性者は社会活動する。すると一人単位の人も次の瞬間感染する可能性が減ります。この繰り返しが検査の有効性です。
検査で陰性になっても次の瞬間感染する可能性があるとして検査不用を言うなら社会全体で陽性者が増えていく可能性が増加するだけです。すると次の瞬間感染する可能性自体も増加していくだけ。検査不用という人もその感染確率が増加する。

【2021年】ツイッターつぶやき
アメリカのインフレが加速しそうだそうです。
アメリカの中央銀行が引き締めに走ればドル高円安が進みます。為替も115円に?
居間今でも円安のために輸入品の値上げが激しいですが、さらに円安が進めばあらゆる商品製造に影響が出て値上げにならざるを得ないという。
インフレというのは労働者の賃金も上がり消費も過熱するから需要増のためにインフレになるのですが、アメリカもこのような経済の過熱によるインフレが起きているのでしょうか?
物価が上がれば消費が減少するでしょう。今現在でも個人消費は減少傾向にあるのですから一気に景気は冷え込みます。金融資本主義は株価や企業の利益のためにあり国民生活から乖離した経済対策でした。その経済が冷え込む。冷たいバブルの崩壊です。

【2022年】ツイッターつぶやき
中国はこれまで数人の感染者が出ただけで都市を封鎖するほどの強い感染拡大防止策を取ってきたが、若い人たちを中心に社会的規制を緩める訴えが出たり、西側諸国からも中国の経済への不信が出され中国政府も社会的規制を緩めた。
しかしこのため感染拡大傾向が現れ検査を希望する人々が病院に列をなしているらしい。
このまま感染拡大が広がれば企業活動も止まるのではといわれている。
現地日本企業が中国の社会規制が強すぎるとしていたが、結局は感染が拡大すれば企業活動も止まる。

【2023年】ツイッターつぶやき
今年の漢字は「税」だそうですね。
悪性の物価高の中で消費税により税収は増えているそうです。
子育て支援で5万円程度の減税をし、無税世帯にはそれに見合うバラマキをするそうですが、一方では防衛費増による増税が待っています。
岸田さんの今年の漢字は「克」だそうです。
来年も賃上げをして以下の経済状態を克服するからだそうです。
去年もある程度の賃上げがありましたが、消費税で多くの納税をさせられましたし、社会保障費負担も。
賃上げがあっても国に吸い取られます。収奪は拡大する。
来年も賃上げをと言いますが、防衛費増による増税が待っているでしょうし、たばこ増税もあります。
また賃上げ分は国に吸い取られるでしょう。今年の漢字を「克」として来年のことを語れば鬼が笑う。国民は苦笑いしかない。
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2024年12月11日(水)「マトンステーキ」

2024年12月11日 22時13分49秒 | 「思うこと」
魚も肉も値上げで大変です。
飼料の値上がりなどにより国産肉はもちろんですが、輸入肉も円安のためにそうは安いというわけでもない。
たまにはステーキも食いたいと思うのですが、スーパーで売っているお手頃の牛肉は、そのお手頃の値段が値上がりしていますし、固い肉しか買えません。
スーパーに行ったらマトン肉が置いてありました。たぶんニュージーランド産かと思いますが、牛肉よりもだいぶ安いので買ってきました。
ちょうどステーキにするのにちょうどよい大きさで案外分厚い肉でした。
仲が少しピンク色ぐらいに焼きましたが、牛肉に比べると柔らかいし、独特な匂いもなく柔らかくておいしかったです。マトンはヘルシーだとも言われていますからしばらくはマトン肉を食うようになるかも。
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「12月11日という日」

2024年12月11日 07時57分53秒 | 「何を思ってた?」(旧ブログまとめ)
【2024年】ツイッターつぶやき
魚も肉も値上げで大変です。
飼料の値上がりなどにより国産肉はもちろんですが、輸入肉も円安のためにそうは安いというわけでもない。
たまにはステーキも食いたいと思うのですが、スーパーで売っているお手頃の牛肉は、そのお手頃の値段が値上がりしていますし、固い肉しか買えません。
スーパーに行ったらマトン肉が置いてありました。たぶんニュージーランド産かと思いますが、牛肉よりもだいぶ安いので買ってきました。
ちょうどステーキにするのにちょうどよい大きさで案外分厚い肉でした。
仲が少しピンク色ぐらいに焼きましたが、牛肉に比べると柔らかいし、独特な匂いもなく柔らかくておいしかったです。マトンはヘルシーだとも言われていますからしばらくはマトン肉を食うようになるかも

≪過去の記事≫

【2003年】
ううう。。。寒い
冷たい雨です。
買い物に行こうとしたら傘が1本もない・・・ううう。。。。
スーパーで傘を買おうと思い売り場に行ったら、ビニール傘ではない傘が1本400円!!
これは安いと思い4本買ってきました。
そういえば、だいぶ前ですが、やはりビニールの傘ではない傘が1本500円でしたので買ったら、大雨の日、どうも傘を持つ手がぬれると思ったら、なんと傘の先のほうから雨漏りがしていて柄を伝ってポトリポトリと。今度の傘は大丈夫かな?
それにしても懐も寒い。。。ハハハ

【2004年】
この前新聞を読んだら、主な国々で行われた学力テストのようなもので日本はだいぶランクを下げたらしい。今日の新聞では、公立学校の先生方の中に精神疾患が増えて病気休職をしている先生が3000人以上もいるという。その他わいせつ行為や体罰なども増えているらしい。これらも精神疾患だろう。
これらを見て注意をしなければならないことは、今の子供たちや先生方の質が昔に比べて落ちているわけではないということは見なければならないだろう。
また、公立学校の矛盾が出ているわけだけど、その中で私立の学校が注目をなおさら集め、公立学校無用論などが出ることが怖い。
子供の数が減って公立学校にも先生方の中にも競争が相当入っている。人口の多い都市でも統廃合が多くなる。そこには都道府県などの財政難が絡んでくるだろう。
ゆとり教育などと表面上はゆとりを持ったようでも、中身は先に書いたような面での競争が激しくなっているのではないか。競争も発展的競争ならば一時的にはよい面も現れるが、生き残り競争というつぶし合では弊害ばかりが残るだろう。なんとなく企業間競争の原理が公立学校にも適用されているのではないかな?
だいぶ牡蠣が出回りはじめました。牡蠣フライにしようと思います。また鱈もおいしくなってきており、白子も出ていましたのでこちらは天麩羅にでもしようかと思います。さっと上げたての白子の天麩羅をおわんに入れてだし汁をかけます。

【2005年】
サッカー中継を見ていたら、国立競技場に小雪が舞っていました。うちの方も降ったのかな?寒い一日でした。
内田百閒の「百鬼園日記帳」を読んでいる。
子供の頃の思い出など、随筆に書かれている不思議な霧の中を漂うような世界もある。電車の中でも読んでいたのだが、その世界に入り込んで集中をしていた。ふとそろそろ降りる駅かと目を上げた。
そうしたら向かいの座席に布袋様かと思うような男が座っていた。顔は真ん丸くて腹もだいぶ出ているのではないか。特に目を引くのが耳たぶだが、それは見事な福耳だった。
しかし。。。
右に目を移したらこういっては失礼だが貧相な男が座っていた。耳たぶというものがまったくないやせた男だった。
頭の中は百閒の世界のままにこんな2人の男が目の前に現れたのであわててしまった。
福の神と貧乏神が隣り合うようにして人間の姿をして僕の目の前に現れたのかと思った。
年末に複雑な思いで電車を降りた。

【2006年】
今夜も鍋の話。。。。
寒くなりはじめた頃、秋田料理を出す料理屋さんでしょっつる鍋を食べた。
普通の鍋と違うところは、ハタハタという魚がそのまま丸ごと入っていること。そしてスープに独特な風味がある。ハタハタは、東京のスーパーでも時々見ることができるので、我が家でも出来ないものかと調べてみた。でも、この独特な風味のあるスープは、しょっつるという独特な醤油のようなものを使うらしい。ハタハタに塩を入れて発酵させたようなものらしい。このしょっつるは東京では見たことがないので、無理なようである。
でも、よくよく調べてみたらありました。。。しょっつる鍋セット(トップページの「トピックス」をクリックしてください)
そう、ハタハタも雄雌があり、雌の卵の入ったハタハタは絶品です。
しょっつるは鍋のほかにもいろいろと使えそうなので買いたいです。
そういえば、魚を入れて発酵させた醤油のようなものに、タイのナンプラーがありますね。こういう調味料は世界中に多いのだろうか?興味が出ました。またゆっくりと調べてみよう。。。
自動車関連税の一般財源化が言われているけど、一般財源化をして庶民生活の向上に直結したものとして使われればいいが、2日や6日の日記に書いたように、世の中は国民生活を圧迫しての企業重視の税制になるかもしれない中で、この一般財源化もどのようにそう金を使われるか分かったものではない。また、仮に福祉関係のようなものに使われたとしても、その福祉財源が不足したら自動車県令税を上げようという単純な発想にもつながりかねない。高速道路などの整備もどうなるんだろ?
一見良いものと思われるものに落とし穴はつきものである。タバコ税の値上げなんかは悲惨である。

【2007年】
(記事なし)

【2008年】
(記事なし)

【2009年】
(記事なし)

【2010年】ツイッターつぶやき
僕はただ 君より遠くを見ていただけなんだ

【2011年】ツイッターつぶやき
(記事なし)

【2012年】ツイッターつぶやき
10月17日は「貧困撲滅のための国際デー」だったそうです。
『今年の「貧困撲滅のための国際デー」は、世界人権宣言採択60周年を記念し、「貧困の中で暮らす人々の人権と尊厳」をテーマに掲げています。宣言は「すべての人は、自己及び家族の健康及び福祉に十分な生活水準を保持する権利を有する」としているからです。』(国際連合)
「すべての人は、自己及び家族の健康及び福祉に十分な生活水準を保持する権利を有する」これをどのようにとらえればいいのでしょうか?よく日本人はアフリカで餓死している子供たちがいるのに日本は幸せだといった考え方をします。たしかに日本は先進国で貧困があるとはいえその貧困には違いがあるでしょう。しかし貧困というものをこうした視点からだけ見てもよいのでしょうか?
貧困には絶対的貧困と相対的貧困というべきものがあると思います。
絶対的貧困とは餓死などのようなその生命維持にも及ぶ貧困ともいうべきものです。これに対して相対的貧困はその国のGDPの中においての格差からくる貧困です。その国にはある程度の生活の基盤があるにもかかわらず政策の中での格差の拡大において十分な生活を行えない状態です。ですから「自己及び家族の健康及び福祉に十分な生活水準を保持する」ことができない状態とはそれぞれの国においての格差からくる貧困としても当てはまるものでしょう。
世界の中の絶対的貧困を撲滅することと同時にそれぞれの国においての格差から生まれる総体的な貧困をも撲滅しなければなりません。
先進国では何かしらの形で賃金を受け取ってそれで生計を立てている人そしてその家族が圧倒的に多いと思いますが、その賃金が「自己及び家族の健康及び福祉に十分な生活水準を保持する」に足るものか、あるいは憲法で保障されている健康で文化的な最低限の生活が保障されている水準かを見る必要があります。
しかし、この最低限の生活以上を国民に保障するのもまた国の責任でしょう。そこに「自己及び家族の健康及び福祉に十分な生活水準を保持する」生活の中身があるわけです。
ですから国際連合の世界人権宣言は、ある意味格差の是正を言っていることにもなります。その国で生活していくうえで国民すべてがどのくらいの生活を維持できるか、ここから貧困問題も考えて行かねばならないでしょう。
貧困化の増大や国のための国民生活の犠牲を呼びかける政策は明確に否定されなければなりません。
この貧困化の増大や国民生活の犠牲そして切り下げは、経済矛盾として結局は日本の将来を不安なものにしていきます。その一つが少子化問題となっています。今日のテレビ番組にありましたが、フランスでは企業の支出(企業の社会的責任)により、イギリスでは貧困撲滅運動により出生率が上がったそうです。国なり企業がその努力をしないで自己背金的なもので片付ければ日本の出生率は上がらないでしょう。考え方を変えれば先進国の貧困化の問題なわけです。それは金だけではなくて子育てに関係する様々な制度からも。
日本は子育て支援としてその財源を消費増税に求めます。これでは何の改善にもつながらないでしょう。消費増税自体が生活を切り詰めさせる作用があるのですから。大衆課税強化による共助は、貧乏人は貧乏人同士で助け合え、少なくとも中間層も我慢して助けろというもので、広い観点からの国家財政や税収の改善を行わないで公助部分の拡大をしない。
ましてや二大政党はあるいは自己責任論の新自由主義の政党は企業の社会的責任を問うことはしない。
企業が一番少子化問題に困っているわけです。次の世代の労働力を確保できないし、労働力市場原理からして労働力不足は賃上げに結び付くと。そうならば少子化問題にも企業の社会的な責任としての分担が必要でしょう。企業の中でも子育て支援を独自に行っているところもあります。こうしたものを広げる必要があるでしょう。何も子育て支援だけではなくて、貧困化問題もデフレの進化を考えればそこに企業の社会的責任を考慮する時期になっているでしょう。

【2013年】ツイッターつぶやき
人参キュウリをなるべく細く千切りにしておきます。
そこにブロッコリースプライトとしらす干しを入れて軽くかき混ぜます。
お蔵オクラをさっと塩湯塩茹でして冷ましてなるべく薄く輪切りにします。
これを先の野菜に入れて、ごま油と塩昆布を入れて和えます。
できあがり。。。。。

何でまた記事を書いている間にログオフになってるの。。。。。ログオンをしたらまた書いたものが消えてしまった。僕の書いたもの。。。。どこに消えたの?

【2014年】ツイッターつぶやき
鳥もも肉は皮を取って薄くそぎ切りにします。
ボールに鶏肉を入れてサケ酒・塩・コショウとで下味をつけて片栗粉でまぶしておきます。
レタスは大きく手でちぎります。
土鍋に水を入れて沸騰したら鳥もも肉を広げながら入れます。
再度沸騰したらレタスを入れて湯に浸しすぐに火を止めて余熱で煮ます。レタスのしゃきしゃき感が残っている間にポン酢と七味唐辛子でいただきます。
肉が柔らかでレタスがしゃきっとして食が進みます。

豊かな国民生活には経済成長が必要か?
経済成長が国民生活を豊かにいしてるか?
そもそも先進国において急速な経済成長が可能か。。。。。?
先進国においての経済成長とは何か?
豊かな国民生活とは何か?
経済においての成長戦略といえば今の日本においてはアベノミクスです。
またアメリカの成長戦略も同じ路線でしょう。
しかしその成長戦略は成功しているといえるか?
企業利益と投資家の利益は拡大をするが国民生活は、格差の拡大と相対的貧困の拡大である。日本もアメリカも経済は立ち直っているとされるが格差の拡大とそこからの相対的貧困の拡大はその成功しているとされる系座の足を引っ張っている。
経済の成長には国民の生活の低下が条件となっている。
ここから導かれる答えは、経済成長は国民生活を豊かにしない。そしてそれは国民生活の豊かさには経済成長はいらないという事となる。
しかし問題はそうは簡単ではない。
国民生活の豊かさのために経済成長が必要でないのかとなると疑問が出るだろう。その疑問に対する矛盾はどこにあるのかといえば、仮に経済成長が必要としても、そのための成長戦略に誤りがあると考えられるのである。今アベノミクスへの懐疑が広がりつつある。それこそアベノミクスの成長戦略が誤っているのではないかという懐疑である。
国民生活を豊かにする経済成長に対する誤った成長戦略が行われるなれてもその恩恵は国民生活に範囲されないという結果となるのである。
要するに国民生活の豊かさに経済成長は必要であるが、その戦略に誤りがあってはならないし、そのような誤りがあるならば経済も成長はしないという事である。
国民の生活の豊かさのためには正しい成長戦略が必要であるという事である。
この成長戦略がどのようなものであるかは、国民の豊かさとは何かを見つけねばならないし、そこに向けた経済政策がまさに成長戦略となるだろう。
資本主義の発展は、それは経済発展でもあるが、生産性の向上と科学技術の発展との螺旋的発展である。この間このブログでも繰り返し書いてきたがこの生産性の向上と科学技術の発達は互いに作用しながら商品価値を下げていくというところにその特徴がある。価格ではなくて価値を低下するという事である。商品価値の低下はその商品をより多くの国民に配分する条件である。それは国民生活を豊かにするだろう。
しかしこの生産性の向上はもう一つの作用がある。労働力の節約である。労働力の節約があるからこそ商品価値は下がるのであるから。この労働力の節約はこれかで失業者を作り出すものであった。しかし本来は労働力の節約は労働時間の短縮としてあらわさねばならなかったのである。労働時間の短縮は国民生活を豊かにするだろう。
そして貨幣量の問題がある。成長には貨幣量の増大だけが必要だろうか?それは間違いで、貨幣量の増大を必要とする前に癌時点の貨幣量をどう回転速度を速めるかを考えねばならないのである。国民・企業・国家へと貨幣がどう早く循環をするかである。血液のようなものである臓器に血液が不足していても輸血をして増やせばいいというものではなく、増やしてもその臓器に血液がなぜ回らないかを解決しなければ何の解決にもならない。血液量は足りているのだからどう循環を速めてその臓器に回すかなのである。血液量が国民生活という臓器に足りなければそこに血液を回すことが必要である。一定の必要な貨幣量は国民生活を豊かにするだろう。同時に循環を速めれば血液量は少なくて済むだろう。
賃金は労働力の再生産費=生活費である。
諸商品の価値が低下するならば生活費は少なくて済む。そこでそうは大きな賃上げをせずに済むようになるだろう。
国家に金が回りその金が所得の再配分としての社会保障に廻れば国民はそうは貯金をせずに済む。
医療費や教育等などに国の金が回れば国民の生活費はさらに減るだろう。
こういった社会を作り上げるための経済学こそが国民生活を豊かにする成長戦略となるだろう。しかしこの場合の成長戦略は今の常識をすっかり変えねば見えてこないだろう。

【2015年】
(記事なし)

【2016年】ツイッターつぶやき
(記事なし)

【2017年】ツイッターつぶやき
命の尊さ
それは。。。
悲しくせつないもの
倫理観「だけ」からでは考えられない
倫理観「だけ」ならそれは
人ごとという偽善かもしれない
だって命は人の意識にかかわりなく
自然が与えてくれたものだから
倫理観は人の意識です
自然は摂理。。。。。
あえて言うなら。。。。
自分の命のはかなさ
自分の命の尊さ
自分の命を悲しみの中のせつなさに見よう

川上弘美さんの「東京日記 復活。」が更新されました。
命の復活を僕は信じないけど、六道輪廻を時々考える。命の連鎖はあると。。。。
命そのものの連鎖が途切れても、心に残す人がいればそこには残るね。命が。
僕もそうは長い命ではないと思受け思うけど、その時間だけ僕の心に残るんだね。
復活。。。。
そういえば、路地を入ったところに「○○青果店」という看板がある。
しかしその看板の下はファーストフード店になっている。
その前を通るたびに不思議に思っていたのだが、もしかしたらあの生きのいいお姉ちゃんが復活を祈っているのではないか。。。。。
復活してもらいたい。
そしたら、僕も朝、ミソギをして出かけよう(笑)

【2018年】ツイッターつぶやき
買い物に行って今日は何にしようかと思っていたら、急に大根とニンジンのナマスが食いたくなった。この前サバの水煮缶と玉ねぎのサラダを作った時の残りの柚子もあるし作ることにしました。3時ごろに作って一夜漬けです。
味見をしたら酢の酸味と柚子の風味がきいていておいしかったです。
なんだか今日はすっぱいものを食いたくなる体調のようです。
さっき、先日箱買いをしたミカンの中におまけとして入っていた黄色くなったカボスが残っていたので、絞ってはちみつを入れて熱いお湯を注いでホットジュースにしました。
体が温まりますね。。。。。
ブランデーかウィスキーでも入れるとさらに体が温まると思います。白ワインを温めて割ってもおいしいかも。
しかし、なんでこうもすっぱいものを欲しがるのでしょ?
妊娠しているわけでもないし。。。。。
体の体調が欲しがっているんですよね。。。。。きっと。
柚子はまだ残っているのでまた柚子風呂にします。
東京も寒くなりました。今朝は3度でした。
3日ほど腰痛気味でしたが、カボスや酢を多く食べたら気持ち腰が楽になりました。
酢は体を柔らかくすると聞いたことがありますが、腰痛も腰の筋肉が硬くなっているのでしょうから良いのかもしれません。
それとも柚子湯にゆっくり浸かったことがよかったのか?
まぁ、どちらにしても柑橘類や酢は冬にも食べるべきなのかも?
(ブログ記事の「コメント」の横にペンの絵が出ますが、どのような機能があるのか?わからないので自分のブログに利用してみました。さてどんなことになるんだろ?「コメント」との違いは?どなたかの記事のペンのマークで記事を書くと僕のブログに感想を書いたようになるのかな?)

以下、ツイッターからです。
「バカをバカと言って何が悪い」というのはもちろん正義でもなんでもないですし、ただの感情でしかありません。同時にそれは自分の相手をバカ呼ばわりすることでの醜い優越感であったり、時には挑発なのです。この言動を繰り返していても普通の人は陰で笑っているのですが、時には逆ギレに合うでしょう
「バカをバカと言って何が悪い」という考え方からの言動と逆ギレは、逆ギレした方が暴力にでも出れば法的には逆ギレをした方が悪いとなりますが、実はどっちもどっちなんです。言葉の暴力と拳の暴力の違いだけです。ちょっとした相手の不注意などにも逆ギレをするのがバカ、アホ、ボケなんです。
実はこの「バカをバカと言って何が悪い」という思考回路が社会の中で危険なのです。バカ、アホ、ボケからシネまで言葉の暴力を抑えることは難しくて、それが子供の自殺にもなりかねない。大人社会でも同じ。今はSNS時代ですからね。言葉の拡散だけではなくてカメラを向けることも暴力となります。
マスコミも同じで、いい年をした犯罪者の親のところまで押しかけて老人にカメラを向ける。どこか正義あるいは社会を見ている報道に見えるが実は暴力になっていることもある。親の顔を見たい・・・・というのは昔からですが。この点でもSNSも小さなマスコミになっている。
「バカをバカと言って何が悪い」という思考回路は問題にならずに、犯罪につながった逆ギレというものだけが問題になりそれで済まされる社会。
政治や経済でも「自己責任」等などという言葉の暴力はあるでしょう。
社会的な格差を広げておいて弱い部分(政治的にも経済的にも)に自己責任を言うわけですから酷な言葉です。国だけではなくて言葉の暴力にもなります。昨日のテレビを観ていたら、燃料税でもめているフランスを取り上げていた。貧困で「パンを食えないならお菓子を食べればいい」という頓珍漢な王族貴族
たしかマリーアントワネットだったか。。。。。
「自己責任」も同じ類でしょう。
こういった頓珍漢な政治経済の社会では、社会の片隅に「バカをバカと言って何が悪い」というキレた思考回路も出てきます。そしてやはり社会の方海で逆ギレも多くなる。

【2019年】ツイッターつぶやき
今夜はキムチ鍋にしました。
白菜や小松菜そしてマイタケなどの野菜そしてやはりキムチ鍋には豚肉ですなぁ。あとちくわとか牡蠣を入れました。もちろんキムチ。
炬燵でキムチ鍋。。。。。
最高です。
残ったスープにもち麦たっぷりのご飯を入れて、その上にトマトのスライスともとろけるチーズをのせてリゾット風に。リゾットというとおしゃれすぎますからおじやですなぁ。
夜になって気温が上がってきました。昨日は室温13度でしたが今日は16度です。炬燵で鍋を食ったので湿度計が「HI」になってます。風呂上りは少し暑いぐらい。

【2020年】ツイッターつぶやき


好きなネメシアが出ていたので買ってきました。
黄色と薄紫に小さな花がたくさん房になっています。
その色合いからでしょうか、「チョコレートバナナ」と名付けられています。
数年前も赤と赤紫の2色のネメシアネシアを育てたことがあります。
ネメシアは宿根の多年草と一年草があります。
今日買って来たのは一年そうです。数年前のネメシアネシアは宿根で3年ほど咲きました。

         
     ≪花言葉:包容力、正直、過去の思い出≫

【2021年】ツイッターつぶやき
コロナでの需要減少もあり生乳がまりこのままだと5000トンを廃棄するかもしれないそうです。
たしかに何年前だったかバターの不足が言われていたような記憶がありますが、これは国内の酪農家の減少の影響だったのか、TPPにも関係したのかよくわかりませんが、日本の酪農の真の現状はどうなんでしょうか。
また、2011年の原発事故の影響は消費の減少として残っていないのでしょうか?
僕はここ数年バターはニュージーランドのものを使っています。マーガリンの脂の危険性も言われていますし日本のバターの品質はどうなんでしょうか?
輸入で言えば乳製品の原料である脱脂粉乳などは輸入が多いと聞いたことがありますが、TPPがらみで日本は価格面からも輸入に頼らざるを得ない現状はないのでしょうか。
日本の牛乳は生乳としてそのまま飲料とすることが多いのかもしれません。
生産量が多いのでしたら様々な乳製品の原料生産も考えないといけないのかもしれません。一時中国が日本の粉ミルクを買い付けていましたが、中国への輸出はどうなんでしょ?しかし政治的対立がありますからね。

【2022年】ツイッターつぶやき
NHKの「鎌倉殿と13人」も承久の乱に。
平家と源氏が軍事力を持ち平家が政治を動かす。しかし平家も貴族化していく。そこで源氏が平家を滅ぼし鎌倉幕府が誕生する。源氏は貴族化しないで武家国家を目指す。実朝は貴族化しそうでしたがこれは排除される。
鎌倉幕府の力が大きくなるに従い天皇をはじめ貴族階級とぶつかる。
経済的には天皇がすべての土地を持つ経済から地方の開墾の自主性を認めた中で荘園制の経済が生まれる。
この荘園制の中にある貴族の力を削ぐように鎌倉幕府の地頭制度が。
この貴族階級と武士階級の階級闘争の頂点が承久の乱。天皇家や貴族の力が弱くなり、各国は武士の支配へ。承久の乱は革命だったのでしょう。
しかし鎌倉殿と13人の義時はこの革命に躊躇する。前進させたのは尼将軍と泰時。
とはいえ義時は天皇家に対する謀反人となることは避けられない。義時は謀反を理由に大勢の実力者を殺してきた。すると義時自身が謀反者となれば。。。。。
最後は主人公らしい死に方をするでしょうね。死亡原因はいろいろあるようですが、自害が一番かっこうがいい。
でもそれで鎌倉を守れる。同時に天皇家も生き残れる。
武力による社会の支配が武家の社会ではない。武力はいつの世にもあったのですから。武家社会にも経済の発展があり文化を育てた。その中に貨幣経済や承認の力が蓄えられる。武家と商人の階級闘争が高まる。堺の商人はすごい自治力と経済力を持ったそうですね。この階級闘争の頂点が明治維新に。

【2023年】ツイッターつぶやき
今年の冬も暖かい冬とはいえ、昼間と夜の気温差は大きいです。
これから1月2月になると寝床の寒さがきついです。
テレビで、この寝床の寒さを防ぐには、羽毛布団の下に毛布を掛けるのではなく、羽毛布団の上に毛布を掛けたほうがいいと。これは去年僕も考えてやってみたのですが、毛布のふんわりというものがなくなり布団カバーのひんやりとしたものがどうもダメでした。今年は布団カバーもふんわりしたものにしましたので大丈夫かな。。。。。
今夜試したいと思います。
それにしても、一度布団が温まると布団の中は30度ぐらいになるんですね。
そういえば、夜中に布団をはいでいるときがある。
寝床の寒さも寝てしまえばいいだけ。寝つきはいいです。
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2024年12月10日(火)「倒産件数」

2024年12月10日 21時39分22秒 | 「政治・経済」
アメリカの倒産件数がこの1年で30%ほど増加しているようです。
日本でも倒産件数が増加をしています。日本では廃業も多いと聞いていますからこの廃業件数も増加しているでしょう。
アメリカは激しいインフレとなっていましたが、経済の過熱からではなく、生産を抑える中での値上げによるインフレだったのでしょう。日本もアベノミクスで経済の過熱があったように見せかけましたが、株価と輸出企業の利益だけでした。
企業間でも競争がはじまりますからインフレの中にデフレ圧力が働く。
企業の富はどんどん集中するなら倒産も多くなるでしょう。
経済はしぼんでいくのか。。。。。
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