2017年2月に
「俳句を世界文化遺産に?」を書き、今年2月には
「俳句のユネスコ無形文化遺産登録」を書きました。
そして「俳句のユネスコ無形文化遺産登録」の最後に
「それでは俳句文学を作り上げている方がどう思っているのか?ここも大切で、一部の俳人が世界文化遺産に動くことは片手落ちです。時間があればこの点も。。。。。」
と書きました。
ユネスコの世界遺産自体についても様々な意見があるでしょう。そうならば俳句の世界遺産化についてはさらに多くの視点からの意見が出て当たり前です。世界遺産化に向けては俳句4団体そして議員や自治体も動き出しています。これらの集まりであるユネスコ無形文化遺産登録推進協議会は俳句文化の中では多数派となり一定の力もあるでしょう。これに対して疑問や反対意見は少数派となります。政治の世界をはじめ社会の隅々において多数派の力が圧倒的な力を持ちますから世界遺産への動きも多数派の中で進められるでしょう。しかし俳句というものは文学なのですから一つの形にはめてはいけないことです。少数派の意見も十分考慮しなければなりません。
とはいっても俳句というものは文学ですからユネスコ無形文化遺産登録推進協議会の動きに関係なく発展はしていくでしょう。同時に、俳句がユネスコ無形文化遺産になれば俳句が一つの定義の中に抑え込まれる危険性があり、上記した「俳句のユネスコ無形文化遺産登録」に引用もしたようなうわべだけの俳句論が広まってしまう危険性もあります。そして政治的な利用としては、今「日本はすごい」といった宣伝がたくさんなされている中で俳句が世界に認められているといった過剰な宣伝にも使われること危険性も。
一つ言えるのは、外国人が日本文化全体あるいは俳句に理解を示していることは外国人が日本文化をよく見ているという事です。そうならば日本人は排外主義を克服して外国文化の理解に努める重要性を子供たちにも伝えるべきでしょう。そうすることにより俳句を通して「日本はすごい」だけではなくて世界の文学にはすごいものがたくさんあることを理解させることができるでしょう。
さて、それでは「俳句のユネスコ無形文化遺産登録推進協議会」に対して疑問がどのように少数派から出ているかをみましょう。
まず俳句は遺産かという疑問があります。
これについては「週刊俳句」のサイトに
俳句を「遺産」として扱うことについて
ベンヤミンのテクストとその翻訳を手掛かりに
福田若之
というものがあります。
ここではこの論文の中身について検討するというよりも感想を含めて自分の考え方を書きたいと思います。もちろん感想ですからこの論文の中身に沿いますが、解釈は僕の独断ですのでこの論文には責任はありません。
俳句は文化遺産か?
「遺産」というと過去のものというイメージが強くなります。
遺産を受け継ぐ。。。現代の人々が過去のものを受け継ぐこと。
たしかに俳句には古くからの歴史もありますからその過去のものを受け継ぐという意味では俳句も遺産という事になります。発句は31文字から17文字が独立されたはずですからそこには飛躍があった。松尾芭蕉が元禄俳句を広めて庶民化させたことは飛躍があった。明治になり正岡子規が月並み俳句を排して詩の世界としての俳句を広めたことは飛躍があった。飛躍とは進歩という事で、俳句は進歩そして発展をしながら現代にいたっているわけです。この過去の時間の流れは俳句界にとってはもちろん日本文化にとっても「遺産」です。
しかし俳句の歴史において発展をした過程が遺産だからと言ってそれが「俳句は遺産だ」とはならにでしょう。
俳句自体は遺産ではなくて生きていて未来に向かって発展をするものですから。
俳句自体を遺産としてしまうと伝統的な過去の俳句の歴史がそして過去の俳句自体が俳句であると定義をされてしまう危険性があります。それは俳句を壊してしまう結果となります。
過去の伝統だけに縛らた俳句の定義は死んだ俳句も同然です。ここに俳人の少数派としての批判や疑問が出るのも当然でしょう。
しかし俳句の発展とは何かが問題になります。
過去の伝統をまるで無視をした俳句は発展とよべるのか。。。。。
発展とは過去からの発展ですから、過去の俳句嫌俳句の考え方そして伝統を残しながらでなければ発展はありません。過去の俳句に発展性が見えないという矛盾を解決するという事は、その過去の俳句からどう発展させるかです。月並み俳句という矛盾をどう発展させるかはその俳句すべてを否定することではなくて月並み俳句もそれ以前の俳句からの発展にあるわけですから、月並み俳句からの発展は、否定の否定です。一度否定をされて新たな俳句が生まれたがそこに矛盾が出たらさらに否定をされなければならない。しかしその否定はそれ以前の俳句に戻ることではない。新たな俳句が生まれるのです。
これが発展です。
次は俳句の伝統とは何かという事になりますが、これは次回とします。
最後に福田若之さんの「俳句を「遺産」として扱うことについて」の最後の言葉を引用しておきます。
「まずは現在に対する感覚を研ぎ澄ませることだ。そして、その現在に対する研ぎ澄まされた感覚によって、過去の出来事の名残りが今日的なものにまで響きわたろうとするその機会を捉えることだ。ほかならぬ過去こそが、そのつどいまここにおいて、そうした聞き分けを要求しているのである。」
「俳句はその遺産から何を引き継ぐか。伝統とは。」につづく