夕螺の一言日記

毎日心に浮かんだことなどを書いてみたいと思います。。。(2014年3月13日開設)

「2月 8日という日」

2024年02月08日 07時57分46秒 | 「何を思ってた?」(旧ブログまとめ)
【2024年】ツイッターつぶやき
子育て支援の財源として国民一人平均500円の負担を行うという。
低所得者や後期高齢者には負担増とならないとしますが、後期高齢者の一部では健康保険の自己負担がすでに1割から2割と100%増にアップしています。
この500円の負担増は、今春闘で賃上げがるから負担増にはならないとしています。
賃上げがあっても増税や負担増を合わせて行えば、500円とは言え経済の好転のために賃上げをという趣旨から外れます。これと同じことをずっとやっている。これから食品等が10%から15%さらに値上げとなるらしい。10円でも安いものを求めて安売りのチラシを持ちながらスーパーで買い物をしている人が増えた。
この実態を自民党は目に入っていないから気楽なことを言い出す。

≪過去の記事≫

【2004年】
そろそろ関東でも梅の開花のニュースが入りそうな季節です。今日は東京も最高気温が10度を超えそうです。風も無く穏やかです。布団を干しています。
今年の冬は寒いですからね。。。。梅も遅いかもしれません。
もう少ししたらアマリリスの球根を植え替えようと思います。去年はサボってしまったら貧弱な花しか咲きませんでした。株別れもしているようですから今年こそ植えかえようと思います。

【2005年】
時々思い出す風景がある。とは言っても実際に見た風景ではない。
蒸気機関車が少年を乗せて走っている。少年は少女と別れて引っ越すのである。その汽車が踏み切りに近づいたとき、ふと少年はその踏み切りに立つ少女を見つける。互いに手を振る。そしてその少女は鮮やかな色のミカンを投げた。
これは、芥川龍之介のたしか「ミカン」という小品のひとコマである。題名も薄ら覚えで、作品の中身はほとんど忘れているが、全体的にモノクロ的な印象のある作品で、そのモノクロの中に先に書いたミカンの色だけが鮮やかなのである。
なぜか時々この小説の自分で作り上げた風景を思い出すのである。
なぜなのだろう。。。。
懐かしいような郷愁がある。
そのほかにも龍之介では「トロッコ」という作品の中の風景とか。。。。
漱石の作品でもいくつかの風景を思い出すことがある。
最近の作家では、写真だが夏生さんの「流星の人」の表紙の風景。これは作品全体の雰囲気をその写真として思い出すのだろう。
あとは、川上さんの「蛇を踏む」のなかでの主人公と母という蛇とが絡み合いながら川のように流れていき、それを店屋の主人だったか、そのおやじがのんきにそれを眺めているという風景。。。。
何年多っても忘れない心の中に描いた風景。優れた作品というのは、脳味噌の奥底に残るのだろう。

【2006年】
北の空は雪雲?
南風が入り暖かくなるという関東地方の予報ははずれたようです。でも、この間の寒さからすれば今日はコート無しでもよいほどに暖かでした。
寒い間は、さすがの子供達も公園で遊ぶ姿がなかったのですが、今日はたくさんの子供達が5時頃まで遊んでいました。男のコたちはボール投げやサッカー、女の子は集まっておしゃべり。。。楽しそうです。
こういう時間が子供達の心に残り楽しい思い出になっていくのだと思います。
僕の子供の頃は、まだ子供の数が多く、ガキ大将が一声かければすぐに三角ベースぐらいの野球の試合ができました。今、こうして高齢になってくるとこの思い出の大切さを強く感じます。
春が少し顔を出した陽、一寸薄着になって夕暮れまで遊んだ今日という日。公園にいた子供達がいつまでも忘れないで欲しいと思います。特別な日でもなんでもない日常。これが心に残るのは心の糧になるでしょう。
子供の頃はまだ難しいでしょうが、だんだんとこの日常の大切さがわかってくることと思います。金を使って旅行の楽しさも大切ですが、日常の楽しさを知ることはもっと楽しいはずです。
川上弘美さんの「東京日記」そんな思いで感想を入れたいと思っています。

【2007年】
厚生労働省って、どういう役所なんだろ?
大臣の少子化問題の発言が再び問題になっている中、今度は、労働政策審議会というよくわからないところでの分科会委員の奥谷さんの発言が。。。。
国家レベルあるいは企業意識だけで物事を見ている方は、庶民を見下すようになるのか?近代国家特に戦後の先進国は、個人は国のために国は個人のためにというのが民主主義と考えられていたのでは?
国のため、企業のための個人としてばかり見ている中に今の少子化問題を生み、個人消費の停滞と景気回復の本格化を阻害している。国のためと思っている論理が結局は国をだめにしてる。
少子化問題は、現役世代がリタイヤ世代をどう年金で支えるかという視点ばかりで問題視されているが、今の日本の発展状況で、今の老人の生活を支えられないのか?少子化が問題なのは、企業論理から問題なのです。労働力も需要と供給の中にある。供給が少なくなれば、給料の値上がり傾向が出てきます。これが怖いのです。今のようにバイトや派遣社員では労働力は集まらなくなり、正社員化をせざるを得なくなる。そろそろ外国人労働者の本格的な受け入れということも聞きますが、どう、労働力供給不足を補うかが切実な問題になりつつあるのか?
過労死までするぐらいに働け。。。。でも失業者問題は解決しない。

【2008年】
明日はまた雪らしいです。
だいぶ冷え込んできました。
この季節に欠かせないのが入浴剤の風呂。毎日入浴剤を使っていますが、この入浴剤が高い!いろいろな薬草が入っているものですごく温まります。少し心配なのが蛍光色が入っていないかどうか?まぁ、着色料は入っているでしょうが。。。。

江國香織とっておき作品集
                        マガジンハウス
          「鳩よ!」特別編集(江國香織)
2001年発行と、少し古い作品集ですが、本の表紙には次のようにあります。
「フェミナ賞を受賞した処女小説「409ラドクリフ」を初収録。
珠玉の中編小説とファンタジー、
そしてビートルズの訳詩集、
さらに、異色絵本『夕闇の川のざくろ』もカラーで完全収録。
父・江國滋の『香織の記録』と妹・晴子の
『夢日記』も初公開。
単行本未集録作品がたっぷり、
欲張りで
ぜいたくな作品集。」
このように江國さんのさまざまな側面を見ることができる作品集だと思います。
(この作品集の中に収められた「ぬるい眠り」などの小説の多くは、今年発売になった新潮文庫「ぬるい眠り」として発売になっています。)
僕も江國さんの作品といえば、男女の恋愛を描きながらそれぞれの心の中を描き、人を愛する事の形というものを連想しますが、それとは違う世界があるのだろうと感じました。というよりも、さまざまな世界が江國さんの中にあることがただの恋愛作家という範疇に置いておかないのであり、恋愛小説の中にも人が生きる事や人を愛する事の普遍性のようなものが現されるのだと思います。
この「作品集」は、2001年発行ですから、7年以上前の作品が集められているわけで、江國さんご自身20代から30代半ばまでの作品が収められています。人は誰でもこの頃というのは若さもありいろいろな事柄に興味を持ち、勉強をし、考えます。同時にそれまでの「若いころ」を30代半ばに思い返す時期でもあると思います。それは、江國さんが作家としてご活躍されるようになった時期でもあり、作家として自分を見つめ返す時期に重なる事だと思います。
1989年発表の「409ラドクリフ」は、学生生活の中での勉強と恋というものやある意味将来を見つけることへの若い女性の姿が出ていますし、1990年発表の「放物線」は、そんな楽しかった学生生活から5年後という形で、自分が生きる方向が定まってくる時期の心の変化が表されていると思います。1989年の「九月の庭」というちょっと不思議な世界と2001年に訳詞したビートルズの「LUCY IN THE SKY WITH DIAMONDS」は、どこか重なる印象を受け、心の開放感があります。同時にその他の作品には、どこか心の寂しさがあったりもします。そしてもちろん江國さんらしい作品恋や結婚生活のことも。
若い頃の作家江國香織の精神。。。
江國さんの作品理解には欠かせない「作品集」ではないかと思います。
さて、このような作品集ですが、97ページにはこの「作品集」のために書き下ろされたプチ文学論的な「物語の復権」が載せられています。これは、30代半ばを過ぎた作家江國さんの作家として今までを振り返る事であると同時に、その後の作家としての考え方が現されているかと思います。「作品集」の最後に「夕闇の川のざくろ」が納められたというのも偶然ではないと思います。
江國さんのエッセイ集に「泣かない子ども」という作品がありますが、その感想に江國さんの書かれたものを引用して次のように書きました。(「 」内が引用文です)
小説のどこまでがフィクションで、どこまでがノンフィクションかという質問に、こんな質問をされるたびに「こいつ、頭悪いな」と思うという箇所がありますが、核心から外れたものにびしっと書いているところなどは手厳しいです。僕がエッセイを読もうと思ったのも、小説の中にどこまで江國さん自身が描かれているのかという疑問もありましたので、ガツンと頭をたたかれたような思いです。
どこまでがフィクションで、どこまでがノンフィクションか。「小説というのはまるごとフィクションである、と私は信じているし、それでいてどんな嘘八百をならべても、書くという行為自体、作家の内部通過の時点で内的ノンフィクションになることはまぬがれない」本を読むというのは、このような作家の内面と読んだものの内面の会話ですね。このエッセイ集には江國さんの書く姿勢や、読書日記からどのような小説を評価するかがちりばめられています。
「夕闇の川のざくろ」は、現実の生活の中に生きているが、心はいつも物語の中というような「しおん」という女の子を描きますが、そのしおんは、「物語の中にしか真実は存在しないのよ」と言い、「人なんてもともとほんとじゃない」とも言います。
人は日常他の人々と接するわけですが、どこまでその相手の人の真実を見ることができるでしょうか。真実というのは内面といってもよいと思いますが、その内面にこそ真実があるといってもよいと思います。江國香織という作家の内面という真実は、その作品に出てくる表面的な事柄にあるわけではない。一つの作品(物語)全体を通してにじみ出てくる空間に江國さんという真実の作家の内面があると言うことです。「しおん」は嘘つきかもしれない。しかしその嘘という物語の中にしおんはほんとの自分を語っているのかもしれない。
書き下ろしの「物語の復権」は、この物語について語られています。
「たとえば私のことを話したとするでしょ。何年にどこで生まれて、こういう両親のもとに育って、(中略)そういうことを私についての情報と呼ぶ人もいるかもしれないし、また物語りだと思う人もいるだろうし、(中略)物語っていうのは、時間がたっても形を変えてもその質は不変。」(98ページ)
江國さんの経歴を情報としてみれば、その量や質が求められるが、作品と結び付けられればそれは普遍的な物語と捉える事が出来る。江國香織という作家の内面としての真実として。これは、人というものを表現しようとする場合、人とは何かを書くことという中に物語性を通した真実を描くなら、リアリティーがどこまで必要か?現実に目に見えたり触ったりできる事が重要ではなく、そのものの目に見えない真実が重要となりその真実を物語としてどのようにリアリティーを持たすかになっていく。ノンフィクションの私小説はリアリティーである。しかしフィクションの中に自分というものが出たときにその物語はリアリティーを持つものであり、それが文学というものだろう。その力量を持ちたいと江國さんは書いていらっしゃるのだろうか。
だからそれは、不思議なお話でもいいのです。
先に読んだ「川上弘美読本」の中での書き下ろし「蹠の小説」とも関連してくるのでおもしろく読みました。
文学性とは。。。。。
30代半ば以降の江國さんの作品がどのように変化したのか、また、「物語の復権」で紹介された「夏のひかり」や「ホテルカクタス」を読んでみたいと思います。
「作品集」には、父江國滋さんの日記「香織の記録」と妹晴子さんの「夢日記」が集録されています。情報として出なく物語として記憶したいと思います。
同時に、この二つの文章は、父や妹さんの書いた江國さんの物語です。特に父滋さんの江國さんへの強い愛情と、対父親像の江國さんの内面とも関連として読みたいと思います。


【2009年】
(記事なし)

【2010年】
(記事なし)

【2011年】ツイッターつぶやき
分断される時間
僕の時間の流れは
分断をされ流れる
パッチワークの風景
時間は僕を幾何学模様に分断する
一つひとつの風景に
僕は身を置く
時間の分断は幾何学模様
僕はその一つに一瞬を過ごす
その風景は好きで
僕は目を開いて見つめる
しかし心は違う風景に流され
僕は分断をされる
そしてまた目を開いて見つめる
また僕は分断をされていく
ここにとどまらなくてはいけない
こことはどこなんだ
それは一つのいつも感じている
基本の風景
斑模様のパッチワークの時間が流れる
心をそこに置こう
パッチワークの統一された世界
僕は日常を過ごす
さまざまな一つひとつの
一コマに身を置く
心はたしかなところに置く

【2012年】ツイッターつぶやき
五木寛之さんの「下山の思想」(幻冬舎新書)がテレビでも紹介されていた。
「どんなに深い絶望からも、人は起ち上がらざるを得ない。だが敗戦から登頂を果たした今こそ、実り多き明日への「下山」を思い描くべきではないか。人間と国の新たな姿を示す画期的思想!! 」(上記ホームページより引用)
昨日も書きましたが、今の資本主義の段階は特に先進資本主義の段階は、中国の高度成長に乗る形での成長ができたがそれは日本自体の経済を高度成長に結び付けるどころか一定の景気回復はすぐにへたってしまう状況だった。アメリカの景気回復に頼るものもすでにアメリカの落日とも言われいる中にもちろん高度成長は望めない。
しかし資本主義は高度成長がなければ存在できないものである。
高度成長を続けていく中で一定の段階に達すればその上に更なる高度成長を行おうとすれば気が遠くなるような生産力が必要で、同時にその商品が売れなければならない。しかし売れるにしても生産性の向上はすでに精密機械とコンピューターが結び付いたロボットの段階に製造業は到達している。労働力を必要としないで大量の商品を生産すれば、その商品の価値低下を導き市場での価格は下がり続ける。一方においては労働力を必要としない中に労働力の相対的な過剰が起きて失業者が増える。この失業者の増加は就業者の賃金を下げる作用をする。国内消費は落ちていく。
大量の商品を生産するがその価値量は減るわけですからおなじ利潤を得るには爆発的な量の消費を売らねばならない。商品は値下がりをするが国内消費を支える労働者層の貧困化がある程度進むとその安くなった商品すら売れなくなる。これが今のデフレとして現れる経済の現状でしょう。
このように見ていくと、「下山の思想」とは人が意識的に経済の高度成長を望まないとかいう人の心の問題としての下山ではないことは明らかだろう。
下山はソフトランディングでなければならないが、現実は下山をせざるを得ない中で今までと同じような格差社会を望み企業中心主義から抜け出せない中の勤労国民への犠牲として行われている。ここでは爆発的な破滅が待っている。
下山の思想は、単なる心の問題としての下山「ばかり」ではなくて、その思想が経済や政治のシステムを動かしてソフトランディングさせるものでなければならないだろう。
原発の問題や格差の問題、増税の問題など課題は山積みである。これは別々なものとしてあるのではなくてソフトらんぃんぐを進めるうえで共通する課題なのである。この解決はこれまでのような高度成長を望むことからは生まれない。やはり下山の思想が必要である。もちろんこれは経済が落ち込んでいくといったマイナス思考の思想であってはならないだろう。これまでの資本主義のシステムではない新たな社会システムが必要とされるということであり、その新たな社会システムの中に形の違う生活の営みがされてそれが人々の幸福につながるという下山から新たな山に登る準備過程でなければならないだろう。
これには政治経済の議論だけにとどまらない様々な思想や芸術などの発展から生まれるだろう。
幅広い思想の広がりが必要である。
この本は読んでみたいです。

【2013年】ツイッターつぶやき
「2%の物価上昇には4%程度の賃金伸び生む経済必要」と日銀審議員の発言があったようですが、インフレ率が2%の場合賃上げも2%ならばそのインフレ下でのデフレ傾向に何ら変わりはないわけで、4%という数字がどうなのかは別にしても2%以上の賃上げは必要でしょう。
テレビの番組でも景気回復には賃上げが欠かせないという視点が多くなってきましたし、ネット上でも同じ議論が出ています。政府は1000億円の企業減税で賃上げを促進しようとしていますが政府も一定の賃上げの視点を持たざるを得ないという事でしょう。もちろん消極的ですし財界の顔色見る形ではないかと思います。もちろん財界は今春闘においても定昇以外の賃上げについては消極的です。減税ならば少し賃上げをといった動きは出てきていますが、やはり1000億円の枠内でしょう。
賃上げが不可欠というものが出ていますが、これ自体はアベノミクスがすすめば賃上げをしなければ労働者の生活が持たなくなるでしょうから賃上げの要求自体は支持すべきだと思います。
しかしこの賃上げは政策的インフレという人為的な経済システムから離れた賃上げですからインフレ目標を達成するためというだけで基本的に労働者の生活改善からの景気回復にはつながらないでしょう。基本的な考え方は、インフレ誘導からの経済の立て直しではなくて、労働者の生活の安定のための政策が基本でなければならないという事です。ですから賃上げだけではなくて雇用問題や派遣法改正からの正社員化、不安定雇用の是正、高齢者や女性労働力を必要とすることになりますがそこでの賃金や雇用条件の平等化も必要です。このようなものが改善されなければ名目的な賃上げだけでは経済の立て直しもできないでしょう。
2%のインフレ目標については、政府は日銀の責任においてといっていますが、日銀は双方の責任でといっているようです。日銀の主張が正しいでしょう。上に書いたような労働者の賃上げだけではない社会のシステムは国にしかできない。国のその責任とハイパーインフレにつながらない金融政策が必要なわけです。
賃上げの議論だけで終わるとその効果は薄れる。賃上げの中身の議論が必要です。
賃上げとは個々人の労働者の賃金を上げることと同時に、雇用や正社員化などなどの改善から生まれる賃上げもあります。この広い意味での賃上げを見ないとだめです。

【2014年】ツイッターつぶやき
こちらの「『非正規雇用は増えたけど、正規雇用は減っていない』という事実」を読ませていただきました。
正規社員の減少の実数と非正規社員の増加の実数もやはり実数の推移を見れば正規雇用は減って非正規雇用が増えているといえると思います。ただし棒グラフに描くと正規雇用の推移は同じように見えますが。
これがやはり非正規率の急激な変化として現れているのだと思います。片方が減り片方が増加すれば率は高くなる。
同時に正規雇用者数がたとえ横ばいのように見えたとしても正規雇用は減っていないとは一概には言えないと思います。本来ならばもっと正規雇用者数が増えてもおかしくないはずなのに非正規化の中でその正規化されるべき人が非正規として雇用されたならそれもまた相対的な意味で正規雇用の減少ととらえるべきなのです。正規雇用者が増えるので非正規化を国が行ったとすればそれは正規雇用の減少です。ですからこれも含めて非正規率は上がるでしょう。
たとえば高齢化社会ですし団塊の世代が定年を迎えてきた。年金制度の改悪の中で支給開始年齢が伸びていますから雇用促進が行われています。しかしそれは定年の延長として引き続き正規雇用とはならない。(ここでは高齢者が定年後も若い人と同じ仕事ができないなかで非正規雇用を選ぶこともありますが)
すると本来ならば正規雇用を行わなければならないにもかかわらず非正規雇用になるのですから、本来は正規雇用が増えるはずのものが非正規となり、それは正規雇用の減少ということになります。
今業種によっては人手不足が出ていますが、これを正規雇用で雇うところを非正規雇用にするという動きがあります。この動き自体が非正規雇用の減少と見ることができます。

【2015年】ツイッターつぶやき
(記事なし)

【2016年】ツイッターつぶやき
(記事なし)

【2017年】ツイッターつぶやき
世界的にも禁煙推進の方法として煙草税などをべらぼうな高さにして煙草を買えないようにあるいは買うのが馬鹿らしいという意識にさせる中で喫煙率を下げるという手法が使われてきた。
この方法は非喫煙者の多くの人に歓迎をされ、マスコミでさえ正当化をしてきた。
ところがヨーロッパにおいてメタボ防止(医療費削減)のためにと「ポテチ税」の提案があったら数河反対の声あがって廃案となった。煙草税の増税による禁煙増進は健康のため(ガン防止)と言われているがポテチ税と同じ発想である。しかしたばこ税については多くの人は疑問視はしない。
煙草税やポテチ税はなぜ効果があるのか?
今や世界中で経済格差の弊害が言われている。貧富の格差が大きくなると同時にそれは貧困や低所得層を増やしているということである。日本では20年以上も前から失われた10年とか言われて格差の拡大が続いてきた。この低所得あるいは貧困化と言う中でたばこ税が増税されれば、禁煙というよりも煙草を変えない人々が増えるということだる。買えない人が増えても統計上の数字では禁煙者が増加!などと報道される。
禁煙運動は煙草を変えないようにすることによる強制禁煙となる。その強制は低所得や貧困者に及ぶ。
このような経済格差や貧困問題の弊害を利用した増税による禁煙というのは、社会的な弊害以外の者ではない。
この「買えないなら禁煙しろ」という論理が当たり前になると、先にも書いたようにポテチ税というものも出てくる。
最近では元アナウンサーの方が「人工透析患者は実費負担にさせよ。無理だと泣くなら殺せ」 (リンクページより引用)と述べたそうですが、「買えないなら禁煙しろ」という論理の弊害がこのような形にも出てくくる。お子さんが保育園を落ちてその不満を「日本死ね」と書いただけで問題視されているのですから「無理だと泣くなら殺せ」は相当ひどい言葉であります。最近ヘイト法ができましたが、このヘイト法にも引っかかるのではないかと思うほどに同等にひどい言葉です。では、殺されるのはだれか?実費負担に耐えられない方たちです。貧乏人は死ねというのに等しい。
もっと飛躍して考えるならば、安倍政権は公助から自助社会に向かっています。
「買えないなら禁煙しろ」「人工透析、実費負担できないなら死ね」
これが社会の様々な所に出てくるでしょう。
「生活保護は子供には大学は行かせるな」はやはり同じ論理ですね。

昨日、鶏のウイングスティック肉を使ってカレーにしようと思ったのですが、メニュー変更で使いませんでした。
ということでこの肉をどうした物かと悩みました。唐揚げは月曜日に作ったし。。。。
ということでもやしと炒めることにしました。と言ってもスープが多いものですが。
ウイングスティックを酒を入れた水でよく茹でて、冷めたら骨を取り除きます。
あとはささっと簡単。
フライパンでもやしを炒め塩コショウ。
水を入れてスープの素「味覇」を入れ、香りづけにほんの少し醤油を垂らします。
煮立ったら火を弱めて溶き卵を流し込みます。
それを片栗粉でとろみをつけて肉と分葱のみじん切りを入れて混ぜ、ごま油を垂らせば出来上がりです。
中華風でうまかったです。

【2018年】ツイッターつぶやき
gooお題「間違いやすい日本語といえば?」
僕のブログではたくさんの誤字があります。
タイピングや文章の書き方が下手なのでしょう。でも、変換でとんでもない漢字が出てくることもあり戸惑ってしまいます。読み返しも足りなくてご迷惑をおかけしております。。。。。
AIが言われていますが、変換もより進化するかもしれませんね。
間違いやすい日本語と言えば、テレビだったか・・・・・「全然」の使い方について間違いではないかというものがありました。
僕の世代ですと「全然」は「全然だめだ」と言ったように否定の前に使うものだと思っていました。今は「全然大丈夫」と言ったように肯定の前にも使うようになっています。
それで、僕たちの世代は日本語の使い方として「全然大丈夫」はおかしいだろうという批判も出てくるのですが、しかし元々の「全然」の意味合いは肯定でも良いようでした。すると僕たちの世代が間違った日本語として「全然」を使っていたことになる。
日本語は難しいですなぁ。。。。。。
しかし言葉というのは生きているもので時間の流れや社会の状態の流れにおいて変化するものと割り切れば間違い代や正しいという論争は無意味になるのかと思います。「全然」が否定の前なのか肯定の前なのか、これを言い争っているうちに社会の中での多くの人の使い方がどちらが正しいかを決定してしまうのでは。
江戸時代の言葉が正しいとしても今の時代に江戸時代の言葉をそのままに使っている人は少ないでしょう。
もう一つ、間違いやすい日本語では変な日本語もありますね。
政治家が国会で謝罪するときに「遺憾であります」という事がありますが、これは謝罪の言葉でしょうか?謝罪することになってしまったのを言っているのでしょうか?仕方ないから謝罪しますといった意味合いにもとれる。
「〇〇されたい」というのも変な言葉で、命令をしているのかお願いをされているのかがわからない。大体この言葉を使うときは訓示などで偉い人が使うのでしょうから、命令をソフトにするためのものかなと思ったりもします。
まぁ、こういった言葉も時代と伴になくなっていくのでしょう。。。。。。
そしてまた新たな言葉で同じ意味合いを持つ言葉が生まれるのかも。社会に不平等や権威や差別が残ればそれなりの古い言葉が生き残ったり新しい言葉が生まれてくる。平等な民主的な社会ではそれなりの言葉が生まれて、不平等な社会の言葉はなくなるでしょう。
言葉も発展をしたり退化もする。。。。。
俳句の季語等、文学にも言えることですね。

【2019年】ツイッターつぶやき
株式は400円以上値下がりをした。
日経平均はアメリカに追随する動きを示しているが、今日の株安はアメリカの株価に連動していなかったようです。円安傾向にあるが株価は大幅に下落したとも見える。
この状態をブルームバーグは
「「世界の景況感は米国がダントツでしっかり。日本は米国に比べて景況感がはるかに悪く、欧州よりも劣る」と話す。日本は賃金が上昇しない中で物価が上がり可処分所得は低下し、内需が弱く消費増税を控え不透明感は強いとみていた。」
と分析をしている。
最近の株価の値下がりは米中の貿易戦争の影響とする分析が多かった。たしかにファーウェイショックはスマートフォン部品関連で日本の大きな打撃になるという分析もある。しかしこのような外的な要因だけではなくて、内政としての内需の落ち込みが相当あるのかもしれない。中国の春節での訪日客増を喜んでいるが、これも確かに数字的には内需として現れてくるでしょうが、基本は輸出のようなものです。
基本統計の不正により実質賃金はマイナスともいわれています。ささやかな生活を維持するための年金も健康を維持するための健康保険料も生活をより厳しいものに変えています。
まさに日本経済は「日本は賃金が上昇しない中で物価が上がり可処分所得は低下し、内需が弱く消費増税を控え不透明感は強い」というブルームバーグの分析は当たっているでしょうし、またそれはアベノミクスの経済政策の誤りを言い当てているでしょう。
株価は為替によって動きますから円安ならば株価は上昇する傾向があります。その円安を誘導したのが政府と日銀の二人三脚です。もちろんこれは為替操作の疑いがありますが、為替(金融緩和)だけでは経済の立ち直りは無理であり、いつか株価の下落にもつながります。日銀の金融緩和の限界と出口への不安が広がっています。このまま日銀が株を買い占めて株価を操作し、副作用が言われている緩和を続けるならば矛盾の先送りとなり出口に向かわざるを得なくなった時の傷は深くなるでしょう。これを日銀にやらせているのがアベノミクスでしょう。見え始めた矛盾がアベノミクスの実態でしょう。

【2020年】ツイッターつぶやき
2月2日に隔離という記事を書きましたがその続きのようなものです。
武漢からの帰国者の隔離の実態を先日書きましたが、さらに大きな隔離がクルーズ船内において行われています。
2日には
「ウイルスの広がりを防ぐにはこのようなことも仕方ないでしょうが、ある意味健康な方も隔離されている状態に見えます。」
と書きましたが、現在のクルーズ船内も同じ状況なのでしょう。
1人の罹病者から現在は61人に広がっている。2次感染そして3次感染が船内で広がっている。乗客は各部屋に閉じ込められているとはいえ部屋の中もウイルスに汚染されている可能性は十分ある。すると発症を待つばかりになりかねない。もちろん発症しない人がいるでしょうが。これが時間差をかけて広がっているとすれば、2週間経過した時点で下船できるのでしょうか?下手をすれば多くの人は発症して初めて下船できるようになる?
隔離というのはこういうような過酷なものですね。
薬の不足や食事や動けないことによる体の変調やストレス。
これが免疫力にも悪い影響を持つでしょう。
たしかに3000人以上の方を病院へ移動することは困難なのかもしれませんが、このままだらだらと船内に留め置くことは間違いだと思う。

【2021年】ツイッターつぶやき
厚労省コロナ接触確認アプリ(COCOA)が4カ月にわたって不具合状態だったという。
アプリも機械ものですから不具合もあることもあるでしょう。しかしその不具合を4カ月も確認もせずに放置していたことは考え有られない事態です。
感染したかどうかはCOCOA利用者にとっては命や健康の問題です。接触通知が無ければ安心して街中を歩ける。しかしもし無症状で感染してれば家庭内や職場内で感染が拡大する。
4カ月間放置されていたということは、アプリの動作を確認する専門家がいなかったということです。アプリを金を出して作ってしまえばそれで終わりという行政の姿が見えます。
こうしたアプリについては菅内閣の目玉政策であるデジタル省とかに専門家はいないのでしょうか?厚労省内で専門家は難しかったら他の省との連携が必要でしょう。これも菅内閣の目玉政策である行革大臣河野さんは縦割り行政から横割り行政へ向け国民から意見を求めてそれを終夜すると約束していました。その約束がどうなのかどう政策として役立てたか?みえませんね。接触アプリのような専門知識を持つ官僚が厚労省と横割りで取り組むべきものだったでしょう。
アベノマスクやGO Toなどと同じく中抜きを含めて企業にばらまくことが目的の政策だったのではないでしょうか。これを見てもコロナ対策とは政府は言いますが、実は企業に税金をばらまく企業優先の経済対策であったのでしょう。
これからワクチンの接種がはじまりますがここでも同じことが行われるのでしょうか。

【2022年】ツイッターつぶやき
第五波の時はコロナ以外の病気などでの救急搬送が病院側の医療逼迫で受け入れが困難な状況が出ていました。コロナ感染者が多く入院したからではなくて多くの感染者が自宅療養をして多くの方が自宅でなくなりました。
今回の第六波も救急搬送を受け入れることができない状態が出はじめました。
オミクロン株は重症化しないとされますが、感染者が爆発的に多くなれば重傷者数の人数自体は多くなります。この状態は第五波も第六波も同じでしょう。医療従事者の感染が増加しているから受け入れられないという面も否定はできないでしょうが、オミクロン株を甘く見た結果ではないでしょうか。
医療の逼迫と言ってもベッド数は余裕があり緊急事態宣言が出されないのですが、緊急搬送もできない状態が出ているという面での医療の逼迫が出はじめていることを見ればベッド数がどうのという問題ではないでしょう。ベッド数など机上の計算ですから常に満杯になることはない。満杯になる前に医療崩壊が出てしまうのですから。

【2023年】ツイッターつぶやき
明日は七十二候の「黄鶯睍睆(うぐいすなく)」
ここ数日東京は暖かい日が続いています。
そろそろ梅も咲くかな。
木蓮のつぼ無つぼみが少し大きくなっています。ツバキも咲きはじめました。
この時期から3月にかけて公園に野鳥が来ます。
チ、チ、チイと鳴くメジロがやってきます。
そして数年前には鶯の鳴き声が。
東京のような都会に鶯はやってくるのでしょうか?
見た目が目白か鶯か区別ができないのですが、、、、、
鶯の鳴き声を真似するモズでしょうか?
今年は鶯の鳴き声を聴けるかなぁ。。。。。
モズの鳴きまねでもいいけど。

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