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「君が代」不起立処分大阪府・市人事委員会不服申立ならびに裁判提訴当該15名によるブログです。

戦争にはまだ間に合う~ある府立高校教員の思い~

2013-01-04 19:42:49 | 学校現場から

※12月9日の集会で発言された、ある府立高校教員からのメッセージです。ぜひ、お読みくください。

戦争にはまだ間に合う

 私は大阪府立高校に勤務しており、今年度は3年生担任なので卒業式を前に悩んでいるところですが、君が代斉唱の時には起立することができないと思っています。

 私は高校生の頃まではノンポリで、どちらかというと「感情的右翼」でした。実家は広島なのですが、母方の祖父が海軍出身で呉に住んでいて、戦後は「○○の家」という宗教団体の活動をしていたので、小さい頃からよく講演会に連れて行かれていました。また、中学生までボーイスカウトの活動をしていたので、キャンプに行けば日の丸を掲揚していたし、ジャンボリーという大会では皇太子の訪問を出迎えたりしていたので、天皇の存在は絶対的なものだと思い込んでいたからです。

 大学に入ってから、父が広島の被爆者だということを意識しはじめ、「大阪被爆二世の会」の活動に参加するようになりました。アメリカの原爆投下の責任や、日本が国家補償に基づく被爆者援護をしないことの問題点とともに、韓国の被爆者や被爆二世とも交流したりすることで戦争の加害性についても考えるようになりました。

 また、大学2年生の時(1982年)に、アジア学生会議に参加するため香港を訪れた時、香港大学内で日の丸が焼かれたり、エレベータに”Don't use Jap!”と落書きされているのを見て大きなショックを受けました。歴史教科書から「侵略」ということばを削除するという教科書問題への抗議から行われたものでした。

 教師になって1年目(1985年)、同和教育推進係の担当者として、韓国籍の生徒の外国人登録に付き添って市役所に行く機会がありましたが、その生徒は指紋押捺を拒否しました。公務員として「外国人登録法」という法律に背くことを支援できるのかという思いもありましたが、教員としては生徒や保護者の思いに寄り添うことを優先しました。そして、様々な運動の成果で外国人登録の指紋押捺義務は廃止されました。その経験から、「悪法も法である」と考えるのではなく、「自分の良心に従うこと」、「人権を侵害する法や制度があれば変えていかなくてはならないこと」を確信しました。

 現在、教師になって28年目ですが、「多民族共生による平和の実現を目指すこと」と「あらゆる差別や偏見・抑圧から解放されて人権を尊重すること」が、自分が迷った時や悩んだ時の判断基準になってきました。だから様々な思いや生き方を踏みにじるやり方で強制される君が代斉唱にはこれまでも反対してきたし、これからもその考え方がぶれることはないと思っています。

 昨日、池田市人権映画祭で大林宣彦監督の「この空の花」という映画を観ました。その中で「戦争にはまだ間に合う」ということばが出てきたのですが、そういう気持ちでこれからがんばっていきましょう。

2013.1.4記

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生徒たちへ 聴いてほしい

2012-11-05 22:46:58 | 学校現場から

※生徒たちへ、 伝えたい思い、 聴いてくれますか。 辻谷博子

 

聴いてほしい。

みんなには、誰かに伝えたい、誰かにわかってほしい、と思っていることはありませんか。

私にはあります。

きっと、あと数ヶ月で定年を迎える今だから、そんなことを思うのかもしれません。

できれば、聴いてください。

 

私は、今年の入学式国歌斉唱のとき、立つことができませんでした。

なぜ、ってみんなは思うかもしれませんね。

ルールを守れという人もいるかもしれません。

でも、私は、どれほどルールだと言われようが、入学式で国歌斉唱の折、立つことも歌うこともできません。

ルールは確かに大事です。それは私たちの約束事ですものね。

だけど、人にはここだけはどうしても譲ることはできないということがあります。

 

私は入学式や卒業式で国の旗をあげたり、国の歌を歌ったりすることはしてはいけないことだと思っています。

かつて、私の母の時代には、日の丸や君が代をシンボルとして「お国のために」死ぬことが教えられました。

少しずつ少しずつ。私の母はそのうち「お国のために死のうと思うようになっていったそうです。

その話を聞いて以来、ずっと私は、学校では国の旗や歌を子どもたちに半ば強制的に教えてはいけないと考えるようになったのです。

それは絶対にしてはいけないことだと。

 

それに、学校にはいろんな生徒がいます。

勉強が得意の子も、あんまり得意でない子も。障がいのある子も。民族的ルーツが日本でない子も。

入学式や卒業式って、きっとみんな一つになりたいと思うかもしれません。

一つになるって、一体感を持つって素敵なことです。

でもそのとき、「日本」というくくりの中で一つになる必要があるでしょうか。

 

私は日本のために仕事をしていると思ったことは一度もありません。

国家のために教育という仕事をしているわけではないのです。

みんなの、一人ひとりが、この社会で生きていく力を身に付けてほしい、そう思ってやってきました。

だから、卒業式や入学式つまり学校での出会いと別れのところで「君が代」ってわけにはいかないのです。

 

卒業生の一人が言っていました。

「学校でナショナリズムが教えられるとき、次に来るのは戦争だ。歴史を見ればそれがわかる」って。

戦争なんて起こりっこない、そう思う人もいるかもしれませんね。

でも私は不安なのです。ヒトラーを知っていますか。第二次世界大戦ナチスの党首だった人です。

そのヒトラーの部下であったヘルマン・ゲーリングはこう言ったそうです、

 「もちろん、普通の人間は戦争を望まない。しかし、国民を戦争に参加させるのは、つねに簡単なことだ。

  とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、

  国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国も有効だ」

 

国歌斉唱時に立たないというだけで処分される、3回立たなければクビにするという、

私には、どう考えても理不尽なことに思えます。

どうしてそこまでして国歌を歌わせる必要があるのか納得できません。考えれば不安が募ります。

 

国旗も国歌も戦いのときにこそ必要なのかもしれません。

オリンピックやワールドカップでは歌えばいい。

だけど、入学式は卒業式にはいりません。あってはいけないと思っています。

聴いてくれてありがとう。

 

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とりとめもなく、

2012-10-09 12:59:55 | 学校現場から
学校には、いろんな教師がおり、また生徒もいろんな生徒がいます。保護者だってそうですよね。あたりまえと言えばあたりまえのことですが、学校というところではこれがなかなかあたりまえのこととして通用しないんですよ ね。

特に、児童・生徒に対しては、「ひとつの基準」で計りがちです。教員にもっと余裕のあった頃は、それでも、まだ一人ひとりとの関わりはできていたのかもしれませんが、しかし、こう忙しく、「成果」を求められるようになると、人と人とがかかわる最低限の交流さえどこかに吹っ飛び、若い教員が一生懸命「仕事」をすればするほど、熱意はわかるのだけれど、この教員にとっては、生徒は自分の教育の対象物であり成果物であるのだろうなぁと時折恐ろしくさえ感じるときもあります。

学校で、児童生徒、保護者、教員それぞれ立場が違うゆえ、また、その上それぞれが違う個性や考えの持ち主なのですから、ひとくちに「教育」と言っても、出発点からして困難性を抱えていると言えます。

しかし、だからこそ教育は常に万人にとってある種の課題にもなるのだとも思われます。誤解を恐れずに言えば、
人と人が、立場の違う人と人が、考えの違う人と人が、ある種真剣に向かい合うわけですから、ある意味最も人間らしい営みであり、おもしろいともいえます。

何がおもしろいのと、お叱りを受けるかもしれませんね。そういう私も、日々そんな余裕はないのですけれど。

ただ、最初からいろんな人間がいることが当 たり前なのですから、おおいに主張しあい、おおいにぶつかり合い、
そこから折り合いをつけていく作業こそが広い意味での「教育」なのかもしれません。そして、そんななかから
通じ合う場面が生まれればこんなうれしいことはありません。

恐れるのは、最近の学校にその余裕がなくなってきたこことです。何事も合理的に効率的に「片づける」ことが
教員に求められるようになって来ています。教員評価、競争と自己責任による教育改革の負の影響がすでに
表れているような気がします。

世間でもそうですが、学校というところも「多数者 」本位で価値判断が行われ、場合によっては「少数者」は排除され差別さえまかり通るところがあります。

なんだか、つれづれにキーボードを叩いていると、暗い話ばかり、しかも発展性のない話ばかりになりそうで恐縮ですが、しかし、そういう現状は現状として認識したうえで、親ならば親の立場から、教員の立場を深慮しつつ主張していく、そういった「対話」がやはり道を開いていくのだと思っています。

私も、学校というところで「少数者」、いや、学校ばかりでなく、たとえば運動の場においても「少数者」かもしれません。しかし、「多数者」の軍門にくだるのでもなく、「少数者」として諦めるわけでもなく、主張、相手の立場を尊重しつつ主張し続けようと思っています。

言葉でいうほど「対話」とは簡単なものではないと承知しつつ、しかし、「対話」をしなければ道は拓かれていかないと自戒しつつ全く違う立場や考えの人と対話を模索していきたいと思っています。

(上記は、あるMLに投稿したものです)
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