市道を上っていくと、「←舛方城跡」の左折の表示で山中へ入る細い道に入って舛方城跡を目ざしました。山中を紆余曲折しながら表示に従って進みます。
舛方城は、中世戦国時代に県東部一帯を支配した越中守護代椎名氏の松倉城(越中三山城の一つ)のいくつかあった支城のひとつです。松倉城の支城舛方城(ますかたじょう)は、標高240mの城山山頂に築かれたもので、山頂部には2ヶ所の出入り口を設けた本丸と、それを取り囲む帯郭状の二の丸があり、空堀や井戸跡、土塁などを見ることができます。
(1)山へ向かうと間もなく、梅が咲いています。ここは山間の圃場整備事業の竣工記念碑がありました。

(2)やがて山中には、有害獣の捕獲用ワナがありました。クマやイノシシの捕獲は無理と思われる大きさです。

(3)表示があります。「水尾城跡」は舛方城跡のような支城のひとつです。「石の門」は松倉城の石でできた砦だそうです。

(4)「舛方城跡」の看板です。公園になっていてこのあたりから城跡に含まれるようです。

(5)公園の展望台です。富山平野や富山湾まで眺め渡せます。

(6)舛方城の本丸跡はこの段々の上にあります。今回は見ませんでしたが、本丸のあった山頂部はかなりの広さがあります。

(7)舛方城跡からの眺望、西に見える富山平野~西部の射水・氷見方面ゃ富山湾方面が一望できます。すぐ下に早月川が流れています。

(8)山側の眺望です。下に耕作地や山を越えていく道が見えます。雪山も見えています。

(このシリーズは終わりです)
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舛方城は、中世戦国時代に県東部一帯を支配した越中守護代椎名氏の松倉城(越中三山城の一つ)のいくつかあった支城のひとつです。松倉城の支城舛方城(ますかたじょう)は、標高240mの城山山頂に築かれたもので、山頂部には2ヶ所の出入り口を設けた本丸と、それを取り囲む帯郭状の二の丸があり、空堀や井戸跡、土塁などを見ることができます。
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(2)やがて山中には、有害獣の捕獲用ワナがありました。クマやイノシシの捕獲は無理と思われる大きさです。

(3)表示があります。「水尾城跡」は舛方城跡のような支城のひとつです。「石の門」は松倉城の石でできた砦だそうです。

(4)「舛方城跡」の看板です。公園になっていてこのあたりから城跡に含まれるようです。

(5)公園の展望台です。富山平野や富山湾まで眺め渡せます。

(6)舛方城の本丸跡はこの段々の上にあります。今回は見ませんでしたが、本丸のあった山頂部はかなりの広さがあります。

(7)舛方城跡からの眺望、西に見える富山平野~西部の射水・氷見方面ゃ富山湾方面が一望できます。すぐ下に早月川が流れています。

(8)山側の眺望です。下に耕作地や山を越えていく道が見えます。雪山も見えています。

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日本海軍の優秀な「戦闘機零戦」の活躍で米軍を悩ませますが、アリューシャン列島に不時着した零戦を本国に持ち帰り、その性能や弱点を徹底的に考察したといいます。その結果、零戦はスピードを上げるため、ジュラルミンの厚さを切り詰め、防弾用の鋼板もなくその弱点が明らかにされたのです。米軍は高性能な強烈なグラマン戦闘機を開発をして零戦を駆逐していくのです。
話は変わりますが、太平洋戦争の末期に行われたインパール作戦についてです。いわゆる日本軍のインド侵攻作戦です。ビルマから2000メートル級の峻険なアラカン山系超えてインパールに進むのに、大砲や銃器などは分解して人力で道なき道を進まざるを得ない状態だった。また、英印軍の激しい反撃にも遭い、しかも補給のないまま、日本軍は壊滅状態に陥ったのです。退却の際には、さらに多くの兵士が飢えと伝染病に倒れ、戦死・戦傷病者は7万人に達したといいます。
すなわち、零戦については、科学的根拠を明らかにして戦った米軍。それに対してインパール作戦は科学的根拠のないまま、いわゆる精神論で自滅していった日本軍。その愚かさが際立っていると思う。
また、戦争をしてはいけない哲学的根拠とは何でしょう。これもしっかりと知りたいです。