広い平野の中に農家集落がぽつりぽつりと見える中に目立つ屋敷がありました。もと大地主であった屋敷です。
また、このあたりから見た立山連峰の間から後立山の山々が広く見られる新しい発見をしました。
(1)目立つ屋敷。ほかの家々とは違って大きな屋根の棟があり、屋敷の大きさも別格と言っていい屋敷が突然見えました。かつての大地主の屋敷でした。
(2)西側の門らしきものを発見しました。この大地主屋敷の門です。人が出てこられたので聞いてみると、昔は田んぼはもちろん煙草の畑も広々と持っていたが「農地改革で、すっかり百姓のものになってしまって、今はなにもない」・・・、と昔を語る口調でした。
(3)この門から見渡した景色です。前は広々と開け遠くに富山の市街地と、立山連峰がこの家のためにあるかのように南から北まで(剱岳よりも北から、薬師岳までも含めて)見渡せます。そして田んぼが海とすると、そこに島があるかのような木の茂み(小さな森)がぽつりと見られます。特に冬の景観のすばらしさを想像してみました。
(4)農家集落の一般の家の感じです。これでも一軒一軒の大きさはかなりのものですが、もと大地主の屋敷には到底及びません。
(5)白馬の山々(後立山連峰)。上の記述とほぼ同じところから毛勝三山の方角を見ると、毛勝三山の左(北)に見慣れない山が現れています。立山連峰の切れ目から後の(黒部川より後ろの)後立山連峰だと想像できます。右端が立山連峰の毛勝三山でその左の白く積雪した山々は白馬の山です(尖っているのが白馬岳か)。
県東部からはほとんど見えない山々です。東部からは尖った白馬岳の頭だけがちょこっと見えるだけです。
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(4)農家集落の一般の家の感じです。これでも一軒一軒の大きさはかなりのものですが、もと大地主の屋敷には到底及びません。
(5)白馬の山々(後立山連峰)。上の記述とほぼ同じところから毛勝三山の方角を見ると、毛勝三山の左(北)に見慣れない山が現れています。立山連峰の切れ目から後の(黒部川より後ろの)後立山連峰だと想像できます。右端が立山連峰の毛勝三山でその左の白く積雪した山々は白馬の山です(尖っているのが白馬岳か)。
県東部からはほとんど見えない山々です。東部からは尖った白馬岳の頭だけがちょこっと見えるだけです。
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私の小学校の担任の先生の家も隣村の地主でした。お家に行ったことがありますが、やはり大きな門があって、大きな屋敷でした。しかし、小家族だったので使わない部分があり、その当時でも少し荒れ気味だったように憶えています。先生自身は徴兵され、シベリア抑留となり、戻ると農地改革で田畑をとられ、大変だったようです。
ありがとうございました。
それまで米の収穫後に小作人の家から我が家に運び込まれていた米が来なくなり、自家に残った田んぼを細々と耕して慣れない百姓仕事をして食いつないでいかなければならなくなったとき以降、暮らしは突然苦しくなりました。
私は小学生でしたが、家であまり愚痴は聞かれませんでした。父が若いころから社会主義やキリスト教に触れていた影響があったのかと思います。
しかし、実際の生活はいろいろ家業の仕事の工夫などしていたのですが、苦しさは続きました。そのなかで大学まで行くことができたのは幸せでした。