不埒な天国 ~Il paradiso irragionevole

道理だけでは進めない世界で、じたばたした生き様を晒すのも一興

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2012-01-18 18:08:12 | Tweet Log



Torre Argentina

2012-01-18 12:54:38 | アート・文化

Largo di Torre Argentina
(トッレ・アルジェンティーナ広場)は
ローマのカンポ・マルツィオ地区にあり、
古代ローマ時代から共和政時代までの
4つの神殿の遺跡の残る広場です。
1980年からUNESCO(ユネスコ)の
世界遺産に指定されています。
猫サンクチュアリとして
世界的によく知られた場所でもあります。

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1483年から5人のローマ教皇に仕えたセレモニーの匠
Johannes Burckardt (Burcardo:ヨハネス・ブルカルド)は
ストラスブルグ(ラテン語でArgentoratum) 出身の
高位聖職者であり、
彼自身の署名には
Argentinusを好んで使っていたといわれます。
広場の名前はここに由来しているのです。
彼がTeatro di Pompeo(ポンペイウスの劇場跡)周辺に
土地を購入し
中世時代の建物を取り払って、
Sudario通り44番地に邸宅を建設しました。
1730年以降その建物の一部は
Teatro Argentina(アルジェンティーナ劇場)の
建築のために使われ
1800年代に塔は切り離されて
別の場所に移されていますが、
その名前だけは現在も引き継がれています。
現在広場に残っている塔は
Torre del Papito(パピートの塔)と呼ばれる中世のもので
Torre Argentinaとは別のものです。

1909年になり、周辺の都市整備が行われた際に
Chiesa di San Nicola de' Cesarini
(サン・ニコラ・デ・チェザリーニ教会)の取り壊しに伴い
巨大な大理石の一部が見つかったことにより、
1926年に考古学的発掘作業が開始され、
1928年までに共和政時代に遡る聖域が見つかりました。
1929年にBenito Mussolini(ベニート・ムッソリーニ)により
Foro Argentina(フォロ・アルジェンティーナ)として整備され、
その後も70年代まで発掘が続けられました。

Lucio Claudio Cassio Dione Cocceiano
(ルーチョ・クラウディオ・カッシオ・ディオーネ・コッチェイアーノ)は
ローマ元老院議員であったCassio Aproniano
(カッシオ・アプロニアーノ)を父にもつ
ギリシャ語に堪能だった歴史家(155-229)。
彼が残した書物には、
このTorre Argentinaの聖域の西側、
神殿Bと神殿Cの裏手に当たる部分が
ポンペイウス時代の元老院会議場であったことが
記されています。
そして、この場所こそが
Giulio Cesare(ジュリオ・チェーザレ:ユリウス・シーザー)が
暗殺された場所でもあります。

Nfc__659

世界遺産であるにもかかわらず、かなり放置され、
あちこちゴミだらけなのが非常に残念な歴史の証人。