不埒な天国 ~Il paradiso irragionevole

道理だけでは進めない世界で、じたばたした生き様を晒すのも一興

Maria e Marta di Betania

2013-07-24 12:24:24 | アート・文化
エルサレムの近くにあったとされるBetania(ベタニア)に
弟Lazzaro(ラザロ)と暮らしていた姉妹で
イエス・キリストと親交があったといわれています。

エルサレムに向かう途中、
キリストが彼女たちの家に立ち寄ると
二人の姉妹はそれぞれ異なる形でキリストを迎え入れます。
姉のMarta(マルタ)はキリストのために甲斐甲斐しく働き
もてなしの準備を整えます。
一方Maria(マリア)はキリストの足元に座り
キリストの話に耳を傾けています。
それを見たマルタがキリストに向かって
「妹はそこに座っているだけで、
私が一人で支度をしているのに、
なぜなにも仰らないのですか。
私と共に支度をするように言ってください。」
と声をかけます。
するとイエスは逆にマルタをたしなめます。

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Gesu a casa di Marta e Maria
Alessandro Allori,
Cappella di Maria Maddalena -Palazzo Salviati e Portinari

このエピソードは有名なのでご存知の方も多いと思います。
マルタの行動が「活動的生活」
マリアの行動が「観想的生活」といわれ
どちらかというと、
信仰の世界では後者が美化されがちではあります。
もちろん両者に優越などありません。

二人の異なる行為、
「主の言葉を聞くこと&観想すること」と
「誰かのために具体的に行動すること」は
相反するものではなく、
むしろキリスト教の教えでは
どちらも基本的な大切な行為であり、
決して切り離されるべきではないものです。
二つの異なる行為が調和を保ってなされることが大切なのだと
キリストはこのエピソードで諭しているわけです。

なぜキリストがマルタを諌めたのかというと、
彼女が忙しく立ち回ることに意識をとられ過ぎて、
切り離してはならない二つの行為の
一つだけに固執したからです。
これが例えば、マリアがキリストに向かって
「姉はあなたの声に耳を傾けず働いてばかりいます。
共に話しを聞くように言ってください。」
と言っていたとすれば
キリストは間違いなくマリアを諌めたのでしょう。

もちろん、今のキリスト教にもその教えは伝えられています。
祈りと奉仕は常に表裏一体であり、
奉仕のともなわない祈りは本来の意味を持たないということ、
また奉仕にばかり意識が偏ると、
自分への奉仕に陥り結局は自己満足で終わり
助けを必要とする者の中に宿る神に仕える
という本来の意味をなくしてしまいます。

物事は一面から捉えていたのではならぬという意味では
キリスト教を離れた場であっても
非常に基本的な教えなのかもしれません。