CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

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明治維新開港当時関門跡(居留地西関門跡) on 2015-10-2

2016年02月06日 05時41分14秒 | 神戸情報
本日は神戸駅側から元町通り(旧西国街道)のアーケードに入ってすぐ右手に
ある明治維新開港当時関門跡の石碑と関連の写真を紹介をします。
撮影:2015-10-2

住所は下記のとおりです。
神戸市中央区元町6丁目-2-17(旧神戸三越北側壁)
 ホテル「シェレナ」時代を経て現在はグランドールプラザ神戸レジデンス
 という名前のマンションになっています。
 低層部分は第一グランドホテル西元町

念のためにGoo地図を挿入しておきます。
 



上の写真は明治維新開港当時関門跡の石碑です。
原文は「明治維新開港當時関門趾」と昔字で書かれています。


上の写真は「居留地西関門跡」という題の説明書き。

説明文には次のように書かれています。
この碑は、明治維新時の兵庫開港に先立って、慶応3年(1867)に外国人居留地を
設けた時、密貿易を防ぐ目的で置いた14の番所の一つで、西国街道(現在元町通)
にあった関門跡に建てられたものです。ここの関門は西関門と呼ばれ、
明治4年(1871)に撤去されるまで、東関門とともに居留地をまもる上で
最も重視されていました。


明治時代の西関門の姿を掲載したかったのであるが手元に写真がない為元町商店街
のHPに掲載されている写真にリンクさせていただきます。
 http://www.kobe-motomachi.or.jp/cont06/cont06-931.htm

東関門は生田筋と西国街道の交差する地点(現朝日ホール付近)に置かれて
いましたがこれも明治4年に廃止されました。



当日、遠景写真を撮り忘れてしまったので2008年2月29日に撮影した遠景写真
を添付しました。(上の写真)

当初、幕府は居留地の範囲を東西は生田川・鯉川の間、南北は西国街道・海岸と
考えていましたが居留地の建設工事が間に合わず居留地住民は住宅難に陥って
いました。この事態を打開するため慶応4年(1868)3月、英国、仏国、オランダ
三国代表が天皇に謁見し神戸居留地の窮状を訴えた。これに応じて明治政府の
外国事務局判事の伊藤俊輔(博文)は外国人の居留範囲を東西を生田川・宇治川
南北を海岸と山麓に定めた。「雑居地」の誕生である。

これにより走水、二つ茶屋、神戸の3村に加えて宇治野、花隈、中宮、生田宮
北野の各村にも外国人が住むことが可能になった。


上の写真は神戸三越付近を描いた市電の絵です。
さんちか古書大即売会のポスターより







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