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天正遣欧使節

2017年08月15日 07時14分31秒 | Weblog
神戸市立博物館に於いて平成29年(2017)4月22日~7月17日の会期で「遥かなるルネサンス
天正遣欧少年使節がたどったイタリアと題する企画展があり7月12日に観覧した。

2017年2月9日、NHK BSプレミアムで放送された「英雄たちの選択
悲劇のキリシタン弾圧 大人になった天正遣欧使節を視聴した。

上記より天正遣欧使節に関しての簡潔なまとめを試みました。

まず最初に、天正遣欧少年使節団の4人の名前(Wikipediaより)を記しておく


伊東マンショ(主席正使) 大友宗麟の名代。宗麟の血縁。日向国主伊東義祐の孫。
             後年、司祭に叙階される。1612年長崎で死去。
千々石ミゲル(正使) 大村純忠の名代。純忠の甥で有馬晴信の従兄弟。後に棄教。
中浦ジュリアン(副使) 後年、司祭に叙階。1633年、長崎で穴づりによって殉教。
           2007年に福者に列せられる。
原マルティノ(副使)後年、司祭に叙階。1629年、追放先のマカオで死去。












1.天正遣欧使節を企画した宣教師 アレッサンドロ ヴァリニャーノ


上の写真は天正遣欧使節を企画・実行したアレッサンドロ ヴァリニャーノ の像
Alessandro Valignano (1539-1606)は日本の国情に適した布教活動を展開
具体的には当時人々に広まっていた茶の湯の一部を取り入れ、日本人聖職者を養成するため
神学校(セミナリオ)を開設していきます。
ヴァリニャーノは日本人キリシタンをヨーロッパに派遣し、日本におけるイエズス会の布教
の成果をローマ教皇とポルトガル国王に報告することで経済的援助を得、帰国後、ヨーロッパ
の文明・文化を実際に観てきた4人の少年たちが日本人にその偉大さを伝えることで布教活動の
充実を図ろうと遣欧使節を企画・実行した。

ここで、遣欧使節が派遣されるまでのポルトガルなど外国との関連を記した年表を添付します。

天文12年(1543) ポルトガル人、種子島に漂着 鉄砲が伝わる

天文18年(1549) イエズス会フランシスコ・ザビエルがキリスト教を布教

天文19年(1550) ポルトガル船平戸に到着

弘治3年(1557) ポルトガル人、マカオに移住権を得る

永禄6年(1563) ルイス=フロイス 信長、秀吉と親交 僧朝日山日乗との宗論に勝つ
           (日本史の著者)

元亀元年(1570) オルガンティノが安土にセミナリオ 京都に南蛮寺を建設

元亀2年(1571) スペイン、マニラ建設 ポルトガル船、長崎に到着

2.天正遣欧使節の行程


上の写真は往復の船の航路です。
天正10年(1582)、2月20日に4人の少年使節はヴァリニャーノらと長崎を出航
天正18年(1590) 7月21日、長崎へ無事に帰着
実に8年5ヶ月ほどの長旅で無事4人の遣欧少年使節は日本に帰還します。

詳細な行程は下記に添付

天正10年(1582)、2月20日に4人の少年使節はヴァリニャーノらと長崎を出航

           3月9日 マカオに到着

           6月21日 本能寺の変

天正11年(1583)、11月下旬 インドのゴアに到着

            12月20日頃 ヴァリニャーノと別れコチンを出発


天正12年(1584)、8月10日にポルトガルの首都・リスボンに到着します。

           10月20日 スペイン マドリードに到着

           11月14日 スペイン国王 フェリペ2世に謁見

天正13年(1585)、3月1日 イタリア リヴォルノに到着

3月7日 フィレンツェに到着

            3月22日 ローマに到着

            3月23日 ヴァチカン宮殿で教皇グレゴリオ13世に謁見

            4月10日 教皇グレゴリオ13世没

            4月24日 教皇シクストゥス5世選出

            6月3日  ローマを出発

            6月26日 ヴェネツィアに到着

6月28日  ヴェネツィア共和国大統領 ロ・ダ・ポンチに謁見

            7月25日  ミラノに到着

            8月8日   ジェノヴァに到着
                  豊臣秀吉関白になる

            8月9日   ジェノヴァを出発 スペイン、ポルトガルを歴訪


            
天正14年(1586) 4月12日頃 リスボンを出発

天正15年(1587) 5月29日  ゴアに到着

            豊臣秀吉が バテレン追放令

天正18年(1590) 7月21日、長崎へ無事に帰着



3.ヴァチカン宮殿で教皇グレゴリオ13世に謁見




上の2枚の写真は教皇グレゴリオ13世に謁見の場面
謁見したのは中浦ジュリアンを除く3名
当時、東方三博士の伝説(下の写真)があり東方から来た使節も3人となった。



上の写真は教皇グレゴリオ13世(1502-1585)
教皇は涙を流し喜ばれた。教皇は18日後に死去


4人の遣欧使節は日本からの親書を教皇に見せ、無事その役目を果たした
教皇は日本で布教をしているイエズス会への援助も約束されました。
上の写真はヨーロッパ各地を訪問した天正遣欧使節について賞賛する現地の資料
(資料は70以上あるとのことでした。)

当時のカトリックはイギリス等のヨーロッパ北部でプロテスタントの進出(下の写真)が著しく
衰退傾向であったのがはるか遠くの東方で布教に成功している話を聞き、教皇は
大変、喜んだそうです。


4.キリスト教は戦国時代の日本で何故、広がったのか

この教えを信じればあの世で救われる" 日本人にとって死が身近な時代に
「次の世界では素晴らしいことが待っていて、神様は慈愛深い」と説く宣教師の姿は救いを
求める人々にとってカリスマ的な存在となっていった。




上の2枚の写真は来世に助かる道が説かれた「ドチリナ・キリシタン」の文書

5.遣欧使節が帰国後の過酷な運命

まず、出発前にはキリシタンに理解のある織田信長が生きていましたが、帰ってきたら豊臣秀吉が
天下を治めていました。しかも秀吉によって、キリシタン禁教令が出ている始末。
さらにこの使節団をバックアップした大友宗麟・大村純忠がすでに亡くなっていました。
出発する時は、ある意味、日本の未来を背負っての旅でしたが、帰ってくると邪魔者扱いになってしまったんですね。
しかも禁教令が出ている以上、今のままのキリシタンでは生きていけません。
ここで四人の運命も分かれました。

下に添付したのが4人が辿った運命を年表にまとめたものである

文禄2年(1593) ペドロ=ヴァウチスタら26人の聖人 長崎で殉教



慶長6年(1601) 千々石ミゲルがイエズス会を脱退




上の2枚の写真は千々石ミゲルがイエズス会を脱退した理由などが書かれた大村家文書

慶長8年(1603) 江戸幕府が始まる

慶長13年(1608)伊東マンショ、原マルチノ、中浦ジュリアンが司祭となる


慶長17年(1612)伊東マンショ(出身:日向)マカオへと渡りて司祭となり日本へ帰還したが 長崎にて 死亡

慶長18年(1613)支倉常長らの慶長遣欧使節(伊達政宗の親書)ルイス・ソテロが同行   1920年帰国

慶長19年(1614) 徳川家康が日本にいる宣教師に国外退去させる伴天連追放令を出す

元和8年(1622) 長崎でキリシタン55人が処刑される元和の大殉教


寛永6年(1629)原マルチノ(出身:波佐見)マカオに追放

上の写真は原マルチノらが建設に関与したマカオの世界遺産「聖ポール天主堂」

寛永10年(1633)中浦ジュリアン(出身:中浦) 長崎にて 穴吊り殉教

寛永14年(1634)島原の乱勃発 1638年終結

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