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昭和天皇実録

2017年08月20日 06時22分10秒 | Weblog
2014年9月9日、宮内庁は昭和天皇の活動記録を24年余りかけて編纂した「昭和天皇実録」
の内容を公表しました。

実録は計61冊(目次・凡例1冊含む)、1万2137ページ。1901年4月29日の誕生から89年1月8日
87歳での逝去、2月の大喪の礼、91年3月30日の昭和天皇武蔵野陵の陵籍登録まで、
確実な史料に基づき原則口語体で年代順に宮内庁が纏めたものである。

「侍従日誌」、「百武三郎日記」など40点の新資料を含む3152点の資料をもとにして
編纂され2014年8月に今上天皇陛下に「奉呈本」として提出されたものです。

2015年から本文18冊+索引1冊にまとめられた公刊本『昭和天皇実録』全19冊が刊行され
2020年までに全巻が刊行される予定です。

既刊
『昭和天皇実録第一』(明治34年~大正2年)
『昭和天皇実録第二』(大正3年~9年)
『昭和天皇実録第三』(大正10年~12年)
『昭和天皇実録第四』(大正13年~昭和2年)
『昭和天皇実録第五』(昭和3年~6年)
『昭和天皇実録第六』(昭和7年~10年)
『昭和天皇実録第七』(昭和11年~14年)
『昭和天皇実録第八』(昭和15年~17年)
『昭和天皇実録第九』(昭和18年~20年)
『昭和天皇実録第十』(昭和21年~24年)
『昭和天皇実録第十一』(昭和25年~29年)
『昭和天皇実録第十二』(昭和30年~34年)

今後の発刊予定
<平成29年9月刊>
『昭和天皇実録第十三』(昭和35年~39年)
『昭和天皇実録第十四』(昭和40年~44年)
『昭和天皇実録第十五』(昭和45年~48年)

<平成30年3月刊>
『昭和天皇実録第十六』(昭和49年~53年)
『昭和天皇実録第十七』(昭和54年~58年)
『昭和天皇実録第十八』(昭和59年~64年)

<平成31年3月刊>『索引』

本稿では2014年9月9日の各新聞で報道された内容を中心に記載します。
15年戦争関係に焦点を絞った。
写真はアサヒグラフ 緊急増刊 1989年1月25日号 「天皇陛下崩御」より引用


上の写真は上記のアサヒグラフの表紙

1.長崎原爆投下とソ連参戦
 昭和20年(1945)8月9日~8月10日
  

・9時37分 御文庫で参謀総長、梅津美治郎よりソ連参戦の戦況報告を受ける
・9時55分 木戸幸一内大臣を呼び速やかに戦局収拾をするために首相と懇談するように指示
・11時2分 長崎に原爆投下
・17時35分 満州でソ連軍が攻撃開始したことを受け梅津美治郎参謀総長が戦局説明

8月10日 0時3分 最高戦争指導会議(御前会議)(終戦の検討)で1回目のご聖断

産経新聞の1面見出しで 「ご聖断」ソ連参戦で決意 侵攻報告の18分後 終戦指示



上の写真は昭和19年(1944)12月27日の御前会議
昭和20年(1945)元旦の新聞に戦意高揚の意味から掲載された

2.ポツダム宣言受諾御前会議から終戦
 昭和20年8月14日-8月15日

半藤一利さんの労作「日本のいちばん長い日」を映画化した作品を過去に観ているが
その内容に近い

読売新聞(2014-9-9)の26面に8月14日以前出来事も含めた主な出来事を
まとめられていますのでそのまま引用添付します。


読売新聞26面 原爆「戦争継続は不可能」和平構想 空回りの果て


上の写真は昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲で被害を受けた下町を視察された
同年3月18日 富岡八幡宮境内風琴で撮影


上の写真は昭和20年(1945)6月9日 第87臨時議会の開院式に出席。
勅語として「朕カ忠勇ナル陸海將兵ハ、心ヲ協セ力ヲ一ニシテ勁敵ヲ撃摧シ、朕カ忠良ナル
一億臣民ハ、戰塵ヲ冒シ劫火ニ耐ヘ善ク銃後ノ責務ニ勵精セリ。而シテ友邦トノ締盟益々固キヲ加フ。朕深ク之ヲ欣フ。
曩ニ世界ノ大局急變シ、敵ノ侵冦亦倍々猖獗ヲ極ム。正ニ敵國ノ非望ヲ粉砕シテ
征戰ノ目的ヲ達成シ、以テ國體ノ精華ヲ發揮スヘキノ秋ナリ。朕ハ爾有衆ノ忠誠武勇ニ信倚シ
共ニ艱苦ヲ分チ、以テ祖宗ノ遺業ヲ恢弘セムコトヲ庶幾フ。朕ハ國務大臣ニ命シテ、
特ニ時局ニ關シテ緊急ナル議案ヲ帝國議會ニ提出セシム。
卿等克ク朕カ意ヲ體シ、和衷審議、以テ協賛ノ任ヲ竭セヨ。」


朝日新聞 3面 映し出す昭和史の断面 降伏直前まで、ソ連に仲介期待
一方で敵国撃破を祈願
 

神戸新聞1面 戦前戦後の苦悩詳述 軍部批判発言も盛る 昭和史解明は途上

ポツダム宣言/英文Potsdam Declaration





上の2枚の写真は陸軍軍装姿の昭和天皇 

3.靖国神社不参拝の理由

2006年7月20日付け日経新聞朝刊で「富田宮内庁長官が残したメモから昭和天皇がA級戦犯を
合祀した靖国神社に強い不快感を示し。だからあれ以来参拝していない」

毎日新聞 1面 昭和天皇実録 「富田メモ」を追認 靖国不参拝経緯


上の写真は昭和17年(1942)10月16日 靖国神社秋の臨時大祭に出かけられ戦没者を慰霊


まとまりのない記述となりましたがメモとしてアップします。


最後に大正13年(1924)1月26日に御成婚後間もなない頃の昭和天皇と皇后陛下の
写真を添付して終了します。(天皇陛下22歳 皇后陛下20歳)
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