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赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その5 尼子塚

2018年11月02日 04時44分15秒 | 神戸市以外の兵庫県

2018年10月14日は「坂越の船祭り」、2018年10月28日は「坂越の嫁入り」を観る目的で
赤穂市坂越(さこし)に来ていました。

その時に散策した場所を紹介していきます。
本日はその第5回 尼子塚を紹介します。
尼子塚は別名で首塚、采女塚とも呼ばれています。

シリーズ過去の記事

第1回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その1 宝性山長楽寺

第2回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その2 赤穂鉄道砂子駅跡

第3回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その3 宝寿山 西山寺


第4回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その4 浜市荒神社

 

シリーズの記事Index

第1回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その1 宝性山長楽寺

第2回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その2 赤穂鉄道砂子駅跡

第3回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その3 宝寿山 西山寺

第4回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その4 浜市荒神社

第5回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その5 尼子塚

第6回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その6 坂越大橋

第7回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その7 高瀬舟船着場跡

第8回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その8 上高谷荒神社

第9回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その9 木戸門跡広場

第10回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その10 鳥井の地蔵堂

第11回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その11 第39回 坂越ふるさとまつり

第12回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その12 坂越まち並み館

第13回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その13 光明山妙道寺

第14回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その14 奥藤酒造と奥藤酒造郷土館

第15回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その15 大道井

第16回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その16 とうろん台

第17回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その17 旧坂越浦会所

第18回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その18 山崎善吾の銅像

第19回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その19 坂越浦城跡・御番所跡

第20回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その20 宝珠山妙見寺明覚院・小学校跡

第21回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その21 小倉御前之碑

第22回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その22 大避神社と2018年坂越の船祭

第23回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その23 宝珠山妙見寺

第24回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その24 児島高徳の墓 

第25回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その25 縮遠居

第26回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その26 忠魂碑

第27回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その27 黒崎墓所

第28回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その28 海の駅しおさい市場「くいどうらく」でのランチ

第29回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その29 赤穂化成

第30回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その30 坂越の嫁入り

第31回 赤穂市坂越 散策記 on 2018-10-14&10-28 その31(最終回) 生島と秦河勝伝説 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 






上の2枚の写真は尼子塚の近景

道路の脇に建つ3基の五輪塔などの石造物である。
道路拡張に伴い、平成15年(2003)現在地に移設されたそうです。
尼子将監義久の墓、或いは尼子氏滅亡後、この地を支配した赤松氏一族の富田采女の
首塚ともいわれる。

尼子将監義久は慶長15年(1610年)まで生存しており富田采女の首塚である可能性の方が
高いか?・・・・
尼子山にも尼子義久の墓との伝承がある墓があるようだがこれも冨田采女またはその一族
の五輪塔と見るべきか?

尼子山の頂上に尼子山城があった。城主は尼子将監義久。 いつ頃の築城かは不明。
義久は築城後、出雲の富田城に戻り、一族が在城したという話もある。
永禄六年(1563)には毛利勢の攻撃の前に落城。その後、この地は赤松方の富田采女が
入城したが、天正年間に羽柴秀吉により落城した。

ここで、尼子義久(1540-1610)についてもう少し詳しく書いておきます。
(Wikipediaより引用)
天文9年(1540)、出雲国の戦国大名・尼子晴久の次男として生まれる。弟に倫久・秀久が
いる。幼名は三郎四郎、のち室町幕府13代将軍・足利義輝より偏諱(足利将軍家の通字で
ある「義」の字)の授与を受けて義久と名乗る。なお一説によれば、播磨国赤穂の尼子山城
にて一時城代を任されていたというが、詳細は不明。
永禄3年(1560年)12月、父・晴久の急死により家督を継ぐ。未だ毛利氏との石見大森銀山
を巡る争いが終結していなかった中での晴久の急死であったため、尼子家臣団の動揺も
あって月山富田城内に密葬することとなる。また新宮党粛清による有力な親族衆が殆ど
いない状態で当主を継承するといった状態であり、更には尼子氏から追放・粛清処分を
受けるなど抑圧されてきた国人衆の不満が一挙に噴出し始めていた。
その後、毛利氏は晴久が急死したことを察知し、再び石見国への侵攻を開始する。
これに対して義久は父の採っていた毛利氏との石見銀山を巡る対決路線を変更し、
室町幕府の仲介により和平をすすめようとしたが、毛利元就はこれを利用して逆に尼子氏の
攻略を画策し、和平の条件として石見国への不干渉を申し入れた(雲芸和議)。
この条件を義久が了承したため、元就の狙いどおり尼子氏を頼みに毛利氏への反乱を
起こしていた福屋氏が孤立し、また福屋氏へ軍事援助を行おうとしていた本城常光、
牛尾久清、多胡辰敬らの石見に駐屯していた尼子家臣や温泉英永など尼子方の国人も
不利な立場に立たされることとなった。この行動が尼子勢力の崩壊に繋がっていく。
一方で、当時の九州大大名であった大友宗麟と同盟関係を結び、毛利氏の軍事力を
二方面(大友氏に周防国への侵攻を促すなど)に分散させている。
永禄5年(1562年)6月に本城常光が毛利氏へ寝返ると、温泉英永、牛尾久清は出雲へと
退却し、雲石国境の刺賀岩山城は毛利氏の攻撃により落城して、城主・多胡辰敬は自刃した。
また赤穴氏や三沢氏などの西出雲の有力国人衆は雪崩を打って毛利方へと転じた。
この情勢を契機として、毛利元就は出雲へ侵攻を開始し、永禄6年(1563年)8月には
松田氏が守備する白鹿城が毛利軍によって落城し、熊野城も抵抗虚しく陥落した。
この出雲侵攻において、尼子十旗を守備する赤穴氏・三沢氏・三刀屋氏などの国人衆が
殆ど戦わずして開城したのに対し、一部の国衆は毛利元就に対して頑強に抵抗している。
これは父・晴久の影響力や中央集権化が未だ完了していなかったことの証左であり、
尼子内部に生じていた内紛や不満によって国人衆をまとめることが出来なかったことも
示している。
永禄7年(1564年)には伯耆江美城の落城により、尼子氏の糧道がほぼ押さえられ、
尼子方の美作江見氏・美作三浦氏家臣の牧氏・後藤氏とも容易に連絡が取れる状況では
なくなり、事実上月山富田城は孤立してしまう。
永禄8年(1565年)からは遂に月山富田城を包囲された(第二次月山富田城の戦い)。
毛利軍は富田城へ総攻撃を開始したが、城の守りは堅く城兵の士気も旺盛で、損害ばかりが
増えたため、攻撃を中止し兵糧攻めに切り替えた。富田城内では次第に兵糧が欠乏し、
士気が衰えるなか、尼子氏累代の重臣の亀井氏・河本氏・佐世氏・湯氏・牛尾氏が
毛利軍に降伏する。さらに永禄9年(1566年)に宇山久兼(宇山飛騨守と思われる)を
義久が謀反の疑いにより誅殺するなど、城内は混乱の極みとなる。
11月28日、義久は月山富田城を開城を決意。毛利元就に降伏する旨を伝えると、元就は
三男・小早川隆景、次男・吉川元春の順に義久の身柄を安堵すると記した血判を送り、
これにより月山富田城は開城した。富田城が陥落したことにより、出雲国内で抵抗
していた尼子十旗の城将達も、次々に毛利氏に下った。
元就は義久とその弟たちの一命を助け、安芸円明寺に幽閉している。これによって、
大名としての尼子氏は滅亡した。
その後、義久は天正17年(1589年)、毛利輝元より毛利氏の客分として遇され、
安芸国志道に居館を与えられた。慶長元年(1596年)、長門国阿武郡嘉年の
五穀禅寺(現・極楽寺)において剃髪、出家して友林と号した。
慶長15年(1610年)8月28日、長門国阿武郡奈古で死去した。享年71歳。毛利家の意向
により、甥(弟・倫久の長男)の尼子元知が養嗣子という形で尼子氏を継いだ。
義久の直系の子孫は、福永氏(昭和初期に福長と改姓)として残り、現在は広島県に在住。
改姓を行わなかった(改姓時の長男以外)福永氏は山口県、広島県、愛媛県、北海道に
在住しているが、出雲尼子一族会の会長を務める見明昭は自らを義久の正統な直系の子孫
であると称している。


以下もWikipediaより引用
尼子義久
戒名
大覺寺殿大圓心覺大居士
冨春院殿泉福友林大禅定門
墓所
大覚寺(山口県阿武郡阿武町)
隆興寺(島根県浜田市金城町久佐)




上の写真は地図上に尼子塚の位置を示したものです。
出典:JR坂越駅前 レンタサイクルの近くに掲示の地図(部分)


上の写真は尼子塚の遠景 車道の脇にありあまり目立たない小さな石造物です。




上の2枚の写真は赤穂市教育委員会作成の現地説明板。

コメント
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