折々スケッチ

小さなスケッチブックやハガキに水彩と鉛筆ペン等で描いた絵を中心に、感じたこと等日記代わりに添えています。

5月14日は「なごや平和の日」

2024年05月15日 | 名古屋城

名城公園藤棚と天守閣 2024 /5/15



昨日名古屋市からラインに送られてきた記事に5月14日は「なごや平和の日」とありました。
令和6年4月1日に制定された「なごや平和の日」名古屋空襲により犠牲になられた方々を悼むとともに、悲惨な戦争の体験・記憶を後世に語り継ぐことにより、市民の恒久平和の実現を希求する意識の醸成を図り、もって平和な社会の発展に寄与することを目的とする。
・・・そうなんだ、ニュースで聞いた気もするけどと思った私です。その5月14日は60年前の空襲で名古屋城が焼失した日です。



北川お堀から 2024/5/15



以下はその他の記事から当時の空襲の記録の一部を抜粋しました。
アメリカ陸軍航空軍の公刊戦史によると、1945年5月14日サイパンやグアムを出撃したB29爆撃機は524機、午前8時5分から80分間に2515トンの焼夷弾を投下しました。攻撃目標は「名古屋城周辺」などとして城を右旋回する形で人口が密集する5か所に設定。目標ではなかった名古屋城は巻き添えになったらしい。
その後も終戦までに2600機の爆撃機の飛来があり、60回ほどの空襲で死者7800人以上、被害戸数13万5千戸以上と言われています。


現在の名古屋城天守閣は戦後再建されたコンクリート製で、耐震基準に合わず現在は立ち入ることが出来ません。
天守閣が燃えた日、私が生まれた家も焼夷弾の直撃で焼けました。町の警防団の数人と父が消そうとしましたが、木造家屋をバケツの水では消すことが出来ず諦めて隣家の消火へ。その隣家は1部を焼いただけで今も残っています。家が焼ければ庭石も焼けていくつもひび割れて残っていますが、庭木の1株は根元から再び芽吹いて今わが家の庭に茂っています。石よりもずっと弱そうな植物なのに強いのです。空襲のあったその日、私は母と郊外に疎開していて無事でしたし、兄や姉も学童疎開に行っていたり工場の動員などで皆無事でした。

それから60年経った2005年愛知万博の時わが家に泊った中国からの留学生を名古屋城に案内したことがありました。「名古屋城が燃えたのは戦争ですか?日本も戦争で燃えたのですか?」と聞かれたり「奥さん(私の事)の子供の頃の写真を見せて」と言われて「戦争で燃えてしまったから無いの」と言えば皆さん驚いていました。

日本にもそういう時代があったのよと、日本の子供たちにも伝えなければ時代劇の合戦と同じような歴史の中の出来事になってしまうかも。いえもうなっている気もします。6月23日、8月6日、8月9日、8月15日も、すでにあるのですけれど・・・。それでもまだ、体験者が生きているうちに「平和の日」に語り合ったり、考えたりする日があってもいいかな、などと1人考えていた14日でした。



2024/5/24   5:23

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