ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2012.9.25 EC投与12日後、頭痛の中、母業ダブルヘッダー

2012-09-25 19:19:26 | 日記
 今日は息子の前期終業式。そして午後からは保護者会の日だ。
 午前中はドタバタしながら仕事をして、お昼過ぎに学校に向かった。投与後一人で電車を乗り継いで出かけるのは初めてだ。
 前回6月に開催された中間試験後の保護者会は、大学が毎年行う恒例の土曜日イベントにあたっており、息子が高2になってから保護者会に参加するのは今日が初めて。担任とは一度電話で話をしたが、実際に逢うのは初めてだし、教室に入ったのも今日が初めてという情けない母である。
 溜息をつきながら成績表その他もろもろを貰い、大学入試に向けてのスケジュール説明等があり1時間半弱で終了。その後、最寄駅まで戻って今度は塾の面談に向かった。

 夏休みが終わった後は、とりあえず期末試験だけはすり抜けて、その後はすっかり文化祭まで部活三昧だったため、塾の課題の進行状況は夏休み終了時のまま。ほぼ1カ月空白期間だったようだ。
 本人に聞いたところで埒が明かないので、塾長と話をしなければと思いつつ、13日のEC初回投与から体調不良で、とても面談に出向ける状況ではなかった(なんといっても塾長先生はいつもハイテンションで、体調が悪い中で面談するのはとても太刀打ちできない・・・。)が、そうこうしているうちにまた次回の投与になってしまっては・・・と思い切って昨夜連絡をして、帰りに寄らせて頂くことにした。成績表等もコピーをファックスで送るよりもその場で渡せた方が話が早い。
 小一時間、受験までの1年4か月の処方箋(つまりは必須受講科目)をガンガンと聞きながら、項垂れつつ帰途についた。

 それにしても頭痛が全然とれない。朝起きると、頭が重く、結局、今日も出勤後にロキソニンを飲んで凌いでいる。胸痛も気になるからロキソニンを飲んで鎮まってくれれば一挙両得でよいのだけれど。頭が重くズキズキ痛むといういつもの感じに加え、いよいよ頭皮が脱毛最終段階に入ったと見えて、頭全体がチクチクチリチリと痛む。
 この後、ちょっと手で梳くと、際限なく抜け出すのだったよな・・・と思い出す。前回と違って抜け始める前にうんと短くはしたけれど、コロコロ・ローラーを常備しておかないと家の中が髪の毛だらけになってしまう。シャンプーをしたらしたで、排水溝にヘアピースが出来るほどこんもりと溜まるほど毛が抜けたのも思い出す。
 ホットヨガにももう半月通えていない。肩回しや体ほぐしも、一人だけで家でやるというのもなかなか難しいもので、肩が凝り固まってしまっているせいか肩コリも酷いし、腰痛もある。足は攣りやすいし、痺れも相変わらず。

 あちらもこちらも不調ばかりで、何とも憂鬱だ。
 が、帰宅してまもなくすると嬉しい宅急便が届いた。同じ病気を持つ友人から「治療の大変さを少しでもまぎらわせていただきたく、愛用グッズを同封いたします。」とのメッセージ付き。ご自身もお忙しく治療中でいらっしゃるのにお気遣い頂き、本当に感謝である。

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2012.9.24 EC投与11日後、私なりにおぼれずに泳いでいこう

2012-09-24 19:31:55 | 日記
 以前にも紹介させて頂いたことのある、読売新聞の医療サイトの高野先生の連載。またも考えさせられたので、最新号を転載させて頂く。

※  ※  ※(転載開始)

がんと向き合う ~腫瘍内科医・高野利実の診察室~わらにすがるのでなく、自分なりに泳ぐ(2012.9.19)

 前々回と前回は、進行がんと前向きに向き合う患者さんを紹介しました。でも、患者さんたちがみんな前向きになれるわけではありません。もともと、患者さんたちの病状や考え方はさまざまであって、病気との向き合い方も千差万別です。
 人生を大海原に、病気を荒波にたとえるなら、波に立ち向かって力強く泳いだり、波に身を任せて漂ったり、波に翻弄されたり、波を避けて穏やかな海を探したり、いろんな向き合い方があります。
 人生という大海原で何を目指すのか、荒波の中でどう泳ぐのか、というのは、一人ひとりの「生きざま」であって、医療が立ち入るべきものではありません。ただ、医療者の一人として、がんを抱える患者さんに、きちんと伝えておきたいメッセージがあります。それは、「あなたはけっしておぼれているわけではない」ということです。
 「おぼれる者はわらをもつかむ」ということわざがあり、進行がんの患者さんは、「おぼれる者」にたとえられます。患者さん自身が、「わらにもすがる気持ちで」と、治療を求めてくることもよくあります。でも、「わら」というのは、いくらしがみついても、助けにならないものです。むしろ、それにすがりついて泳ぐのをやめたら、間違いなくおぼれてしまいます。
 今の社会や医療は、治らないがんと向き合う患者さんに、おぼれているように思い込ませた上で、「わら」をばらまいているような気がします。「あなたはおぼれています。これにつかまらないと大変なことになります」と言って、「わら」を手渡し、さらにおぼれてしまう患者さんに、次の「わら」を手渡す・・・。世の中には、そんな「わら」を、高いお金で売りつけてお金儲けをしている人たちがいるという悲しい現実もあります。
 たしかに、進行がんというのは、激しく荒れた波ですが、どんな荒波の中でも、人は自分の力で泳ぐことができます。おぼれていると思い込ませようとする社会の風潮に惑わされることなく、「わら」という見せかけの希望にすがりつくのでもなく、大海原に広がる「本当の希望」を見渡して、ゆったりと泳げばいいのです。本当の医療は、患者さんが自分のペースで泳ぐのをサポートするためにあります。
 荒波に直面しても、(1)荒波の中にあってもおぼれているわけではないこと、(2)荒波は大海原の一部にすぎないこと、そして、(3)目の前の「わら」ではなく大海原にこそ本当の希望があること。この3つを思い出して、自分なりの泳ぎ方で大海原を進んでほしいと思います。

(転載終了)※  ※  ※

 そう、どんなにこころの強い人だっていつも前向きになれるわけではない。特に体も心も弱っていればどうしても後ろ向きになってしまう。そんな時に、とんでもない高額なサプリメントやら何やらを売りつける輩がいるのは、本当に許し難いというか、人として哀しいことだと思う。

 けれど、私たち進行がんの患者は決して溺れているわけではない。そう言って頂けるのはなんと心強いことか。もちろん長い闘病生活になれば、平坦な道ばかりではない。文字通り山あり谷ありである。波が強い時は、何とか浮かんでじっと耐えつつ、少しでも波が治まるのを待ってやり過ごし(立ち泳ぎ?)、静かな海まで自分なりに泳ぐ・・・イメージとしてはとても判りやすいのではないか。

 今朝もまた頭が重い。職場へかつらデビューしたが、さすがに若い女性は目ざとく、1人から「髪形変わりましたね。可愛らしく(!?)なって、色も変わって。」とコメントがあった。それでも久々に1日頭が締め付けられる感じ(もちろんゆるゆるで下を向いたらずれてしまったというのでは頂けないから)で、お昼には頭痛が悪化してまたロキソニンの助けを借りた。

 息子は、今日は校内成績判定会議でお休み。明日が前期終業式で、私は午後から成績受領の保護者会に出席しなければならない。その後、日曜日までは秋休み。どこにも連れて行ってやれないので、夫が金曜日に休暇をとって、2泊3日で旅行に行くことになっている。
 そういえば、ちょうど去年のこのお休みは、私の勤続25周年の休みにひっかけて、5年ぶりにパスポートを使って台湾に旅行したのだった。

 あっという間に来月はピンクリボン月間だ。1年なんて本当になんと早いことか。
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2012.9.23 EC投与10日後、さよならミディアム・ボブ

2012-09-23 21:05:17 | かつら
 朝から土砂降り。あのしぶとく続いた残暑はいったいどこへ行ってしまったのだろうと思うほど、昨日以上に気温が下がった。最高気温が20℃だという。 “暑さ寒さも彼岸まで”ということなのだろう。

 今日は午後から合唱練習の日だった。来週半ばには脱毛が始まることから、朝一番でかつらサロンでカットしてもらい、手持ちのかつらを被ってその足で出かける予定だった。けれど土砂降りの中、小一時間バスに揺られてサロンに着いた頃には、その後に片道1時間半かけて練習場所に行き、そこで4時間歌ってからまた帰ってくるなど、とても体力が持たない、と気持ちがすっかり萎えてしまっていた。
 幹事の先輩と同期の友人に、今の状況説明と今日は欠席させて頂くことのお詫びのメールを入れた。すぐに「治療大変ですね。何もサポートできないのがもどかしいです。無理はしてほしくないけど、本番のステージで待っているので、それを励みにして頑張ってくださいね。」と返事が来た。有難いことだ。けれど、体力不十分なのか気持ちはあっても体がついていかない。すぐに疲れてしまうのが情けない。

 2年前に通っていた時担当してくれていた男性スタイリストさんは、別のスタジオに異動になっており、今日から「はじめまして」の女性スタイリストさんが担当に。同じ市内とはいえ、片道1時間は優にかかるので、治療中体調が悪い中そうそう頻繁に調整には通えないため、思い切って、夫や息子よりも短いベリーショートにバッサリ切ってもらった。そして、先日の息子からの提案に従って、髪の毛を一束カットして残しておくことにした。横も後ろも殆ど切り終わった後、武士の情けか「前髪だけは残しておきましょうね。家でいる時はそのままでいられるように。」とのこと。まあ、残った自毛もあと数日の命ではあるが、有難くアドバイスに従うことにした。確かに前髪があるとなしとでは印象が全く違う。
 「シャンプーはどうしますか。」と聞かれ、昨夜シャンプーしたばかりだし、どうせかつらを被ってしまうわけだし、もったいないな、と思い一旦「結構です。」と言ったが、こんなふうに自分の髪の毛をシャンプー台で誰かにシャンプーしてもらう気持ち良さを、次に経験出来るのはこの先いつになるかわかない、と思い直してシャンプーしてもらった。その後、かつらの大きさを丁寧に調整してもらい、この後完全に脱毛しても、ゆるくなり過ぎない程度のちょうどいいきつさに仕上げてもらった。違和感はあまりないけれど、やはり長時間被っていると頭が痛くなるかもしれない。今後、どのくらいの期間被ることになるかわからないけれど、終日被っていると蒸れるので、とりあえず夏の盛りでなくて良かったと思う。

 かくして明日は職場でのかつらデビューだ。前回脱毛する前は、カラーで若干栗色にしていたが、脱毛して以降は、頭皮にも新しく生えてくる髪の毛にも良くないということで、真っ黒の自分の髪のままだった。2年ぶりに被ったかつらは、以前染めていた色を意識して若干栗毛色。ここ2年黒に慣れていたので随分明るく感じる。染めたのね、と言われるかもしれない。いや、こちらが気にしているほど周囲はそんなこと気にしていないのだろうけれど。

 サロンを出ると、外は相変わらずの土砂降りだった。この雨には私が地毛とさよならする涙が含まれているのかしら、とウジウジしてしまう。ケア用品も一式買い足してサロンを後にしてから、留守番の息子にリクエストされていたお土産を調達し、一緒に出掛けてきてくれた夫が雨の中探し回ってくれたイタリアンレストラン(昨日のお昼は夫の好みの中華料理店だったので、今日は私のリクエスト)でちょっと贅沢にランチをして帰ってきた。お店には70代と思しきご夫婦が仲良く食事を楽しんでいる姿があった。それを見て「あんなふうになれればいいね。」と言ってみた。夫が「もし遠くに出かけられなくなっても、近くでこういうお店を探しながら食べ歩きするのも楽しいね。」とのこと。そう、まだまだ細く長くしぶとく頑張らなくては。

 帰路は大荷物になってしまったので、バス停まで息子に荷物持ちに来てもらった。その息子、さすがに先週の文化祭準備で疲れたと見えて、せっかくのお土産も食べずに夕食まで4時間近く爆睡していた。かくいう私も帰宅後は何もせずにうとうとしてしまい、またも夕食当番を夫にお任せしてしまった。お天気が悪く洗濯もせず、掃除もせず、炊事もせず、主婦返上の自堕落な日曜日になってしまった。
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2012.9.22 EC投与9日後、文化祭見学へ

2012-09-22 20:49:55 | 日記
 今日は息子の学校の文化祭2日目。昨日は学内者のみ、今日は一般開放の日だ。
 例年23日、秋分の日の開催なので、今年もすっかり明日だと思い込んでいた。が、今年は116年ぶりに今日22日が秋分の日だという。23日が秋分の日でなかったのは33年前、1979年の24日以来だそうだが、私が高3の時のことで、全く記憶にない。

 さて、昨夜、贔屓のプロ野球チームの優勝が決まって、すっかりハイテンションで夜更かしをしていた息子。今日は文化祭当日なのだから、せめて起こされずに自分で起きてくれるのかと思っていたが、やはり普段出来ないことが出来る筈はない。私も今日は仕事ではないということで、なんとなく気が抜けていたのか、朝4時頃に一度目覚め、あと少し、ともう一度眠ってしまったから、さあ大変。あと10分起きるのが遅れたらこれまでの皆勤賞への努力が水の泡・・・の遅刻となるところだった。

 私は昨夜から頭痛が続いており、ロキソニンを飲み、痛みが治まるのを待って、洗濯を干してから夫と2人で学校へ向かった。が、最寄駅に着くと人身事故で電車が止まっているではないか。やむなく時間潰しに駅ビルでお茶をし、部活のメンバーに差し入れを買いながら、電車が動き出すのを小一時間待った。

 先週木曜日のEC治療以来、電車に乗って出かけるのは初めてだ。2年前、中学最後の文化祭は、前日の通院日に急きょポート再設置手術になり、1泊入院したため、見に行くことが出来なかった。来年は受験生だから実質的には最後の文化祭となる今回、もしそんなことにでもなれば申し訳ないなと思っていたが、何とか無事に見学することが出来た。

 部活での展示(偉そうに下級生を仕切っていた。)、修学旅行の展示(とにかくろくに写真も撮ってきていないし、「楽しかった!」とはいうものの殆ど何をしてきたやらわからなかった。)、クラスの模擬店の試食(売り切れメニューが多くて残念だった。)、制服リサイクル(息子が着られそうなサイズは完売だった。)・・・と、久々に大変な人混みの中で1時間半を過ごして、ヨレヨレで学校を後にした。

 学校の最寄駅から学校までは徒歩20分近くある。アップダウンが多いので、いつもながら息切れしてしまう。5月末以来3か月、ナベルビンを中止し、悪化していなかった足の痺れがなぜかまた酷くなってきている。階段がとても苦痛だ。

 夫と乗換駅のレストランで昼食をとり、予約していたマッサージサロンで凝り固まった体をほぐしてもらった。帰りにサロンの隣の美容院に寄り、来週には治療の副作用による脱毛が始まることを話し、来月の予約をキャンセルしてきた。疲れが出たのか夕方にまた頭痛がぶり返し、ロキソニンを飲む。胸の周りの痛みもあるが、なかなか収まらないのが困りものだ。

 そして明日はいよいよかつらサロンに出かけ、髪の毛をカットしてくることになっている。
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2012.9.21 EC投与8日後、何が過剰治療か

2012-09-21 19:53:35 | 日記
 以前にもこのブログでご紹介させて頂いたことのある毎日新聞の連載コラム「診察室のワルツ」だが、最新号(2012年9月19日)に興味深いものがあったので、以下転載させて頂く。

※  ※  ※(転載開始)

<診察室のワルツ>/33 過剰治療を避けるには=岡本左和子

 医療事故と過剰治療、するべき治療をしない治療不足が、医療において患者を傷つける3大要因といわれています。医学的根拠にのっとり、治療手順として認められ、治療が可能な範囲での話ですが、これらの危険性を知り、どのように治療に取り組むかは患者にも大きな課題です。中でも、過剰治療は、米国でも医療評価機関が検討課題とし、今月後半に米国医師会との合同の会議が開かれるほど注目されています。
 9年前、私の友人Kさんが、卵巣がんとの闘いの末、2歳と5歳の子どもを置いて亡くなりました。医学で可能とされた治療を、ほとんどすべて受け、がんと闘う姿勢を貫きました。亡くなった時、彼女の体は前か後ろかもわからないほどやせ細っていました。私は「ここまで闘わないといけないのか」というやり切れなさと、「こんなに頑張ったのに」という無念の交じった複雑な思いで、彼女の死を受け止めました。
 治療がやりすぎだったかを、誰が決めるのでしょうか。QOL(生活の質)を考えれば、Kさんの場合、「あそこまで強い抗がん剤治療を受けなくてもよかったのではないか」と言う医師や友人もいました。しかし、幼子の母だったKさんが懸命に「治る」可能性を選び通したのも当然だったと思います。QOLにかなうかどうかも誰が判断するのでしょうか。
 過剰治療か、QOLにかなうかの判断は、医師をはじめとする医療者と患者のパートナーシップが負います。それを支えるのが、医療者と患者の情報共有です。診断と治療内容、QOLを考えた判断を、患者に正確に伝えようと努力をする医療者は多くいます。しかし、医療での情報共有では、医療者の患者側の思いや意見を引き出す取り組みや、患者から医療者に伝えることのほうが大切です。Kさんの場合も、治療で定められた手順だからと、次々に強い抗がん剤治療を受けたのであれば、過剰治療だったかもしれません。しかし、担当医の説明を理解して治療継続を決めたKさんの場合は、過剰治療とはいえないのではないでしょうか。患者と医療者が情報を共有する環境の構築を、両者がともに考えることが大切です。(おかもと・さわこ=医療コミュニケーション研究者)

(転載終了)※ ※ ※

 2歳と5歳のお子さんを遺し、逝かなければならなかったご友人のことを思うと胸が潰れそうになる。それでも岡本さんが書かれている通り、主治医の説明を理解して強い抗がん剤治療に臨んだこの方について、私は決して過剰医療とは言えないと思う。
 治療を続けていていく上で、特に抗がん剤等のキツい治療を行う上では、十分に納得して行うことが一番大切なのではないか。他でもない自分の体だから「先生にお任せします。良きに計らってください。」はあり得ない。その後の自分の生を繋ぐためにたとえキツい治療でも希望を持って受けるのか、そうはせずに緩和治療のみを行い、その後にやってくるであろう状況(死)を従容として受け入れるのか、である。もちろん二者択一でいったん決めたらもう変更しない、ではなく、その時その時の状況・環境により方向転換や微調整することも十分ありだと思う。

 私が絶対に譲れないのは“自分が納得して治療を受ける”こと。そうであるならば、過剰治療や治療不足で徒に傷つくことはないのではないか、と思う。

 さて、体調。昨夕は久しぶりに夕食を美味しく食べることが出来た。火曜日、水曜日は帰宅するとすぐにパジャマ姿になりたいほどよれよれの状態だったが、昨日は普段着に着替えて夕食後もベッド直行でなく、夫が買ってきてくれた甘いおやつもたいらげ、リラックスする時間が持てた。
 やはり、時間を味方にしつつ1週間を過ごせば、薄紙が剥がれるように元気は戻ってくるのだと信じたい。今朝は便秘も解消し、お昼は久しぶりに大学レストランでランチを楽しむことが出来た。何となく風邪っぽく咳や鼻水が出るのは粘膜系がダメージを受けているからかもしれない。引き続き体調に留意しながら週末を送りたいと思う。

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