「家」 @ 鎌倉七里ガ浜 + 時々八ヶ岳

湘南七里ガ浜(七里ヶ浜とも)から発信。自分の生活をダラダラと書きとめるブログ。食べ物、飲み物、犬の話題が多い。

英国車の誘惑(3)

2008-02-28 21:17:06 | クルマ

19世紀末のロンドンで、後に現在のRoyal Automobile Clubとなる団体が設立される。19世紀末というところが重要である。ガソリンエンジンの自動車というものが発明されて、間もなくのことだ。また今から振り返ればその世紀の変わり目は、世界の中での英国の相対的地位が絶頂期に達し、その後落ちて行く転換点でもあった。代わって20世紀に入り開花するのは米国で、そこではヘンリー・フォードがT型フォードを大量生産することなり、米国に牽引されるかたちで世界はクルマ大衆化時代へと移行して行く。

このクラブ名に「Royal」がつくのには理由がある。輝かしいビクトリア女王の時代が世紀の変わり目に終わり、それを継いで即位したエドワード7世はクルマ好きで、このRoyal Automobile Clubをバックアップしたのである。

そんな時代に、Royal Automobile Clubが発展して行った。20世紀に入りPall Mall街(「ポール・モール」とは発音されない。「パルマル」または「ペルメル」に近い発音となる)に、現存する巨大なクラブハウスが建設される。ロンドンにクラブハウスは数あれど、ここまで大きなものは少ない。すぐ近くのOxford Cambridge Club(両名門大学の卒業生が会員となるクラブ)も大きなものであるが、これに比べれば小さく、中も質素なつくりだ。当然ながら会員はかなりの会費負担を強いられるが、会員でない人でも、会員が知り合いにいればクラブハウスのいろいろな施設を利用出来る。古風なビルの中にある巨大なプールも、高い天井に絵が描かれた豪華なフレンチ・レストランも利用出来るのだ。

私も昨年訪問することが出来た。雰囲気に圧倒されたし、豪華な食事も満喫した。画像のマグカップはその時に手に入れたものだ。カップの模様はRoyal Automobile Clubの紋章である。この荘厳なクラブハウスを訪れると、輝かしい英国車の系譜やその背景としての英国の歩みを感じることが出来る。これだけのクラブハウスを100年以上維持して来たことに驚かされる。

私のクルマも英国車である。古くからの英国車ファンには「あんなの英国車じゃない」と揶揄されることも多い廉価モデルなのだが、それでも「英国車」を感じさせるところが随所にある。ウッドやレザーを多用したインテリアや、助手席前のパネルが高くまっすぐ立ち上がる感じ(したがってフロントのウィンドウが小さく感じられる)、引き締まって狭く感じられる室内、かなりの立体感だが優雅に流れるようなボディ、地味な色合いでシンプルな計器類、方向指示器点滅時のカチカチいう頼りなくクラシックな音(意図的にコンピューターで作り出したそうだ)、ギアをチェンジする時のシフト・レバーの感触、そして変わらない車名。ドイツ車などと同じく、社名が車名だ。日本のクルマ市場とビール市場は似ている。どんどん新しい名前が生まれるが、同時に消える名前も多い。

すでに書いたことだが、私はメカには弱い。むしろあまり興味がない、と言った方が良いだろう。上に列記したような特徴はいずれもずいぶん感覚的なもので、私はそれを楽しんでいる。カタログでスペックを詳しく読んだところで、感じ取ることは出来ないものなのである。他の英国車ファンも、それらすべての要素が合わさって醸し出す全体の雰囲気をそれぞれのスタイルで楽しんでいるのであろう。これら英国車の雰囲気に、英国車が今まで培ってきたもの、あるいはRoyal Automobile Clubの荘厳なクラブハウスにこれまでに集ったであろう、数多くのクルマ愛好家の経験や嗜好を感じ取ることが出来るのである。

第二次大戦後、日本のJAFなどが模倣するロード・サービスも、Royal Automobile Clubがオリジナルだ。クラブのサービス部門だったのが、とっくの昔にクラブにより売却され、今では民間企業RAC plcになっている。現在のクラブとは直接の関係がない。AA(Automobile Association)とともに、保険等クルマに係る様々なサービスを提供する大きな会社である。
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英国車の誘惑(2)

2008-02-24 17:40:45 | クルマ

ロンドンでタクシーに乗ったことのある人なら感じたことがあろう。「これは馬車だ」と。黒い概観。天井高のある乗り込みやすさ。前列の補助座席と後列の座席で対面して乗る雰囲気。ミュージカル映画マイ・フェア・レディの最初、コヴェント・ガーデンのシーンで、女性が「タクシー」を停めようとするところがある。その「タクシー」が馬車であること知り、高校生だった私は驚いた。「タクシーって馬車だったんだ」と。今のロンドンのタクシーは馬車文化を引き継いでいるわけだ。

信号など使わずに、交差点のクルマの流れを見事に処理するラウンド・アバウトも馬車時代の名残だそうである。日本が見習うべき英国のものを何かひとつだけ挙げよ、と言われたら、私はあのラウンド・アバウトを挙げる。合理的だと思う。

さらに言えば、彼の国の運転マナーは総じて良い。譲り合おうとするドライバーが多い。第一、道路の優先関係がはっきりしているし、交通標識がわかりやすい。それと比べれば、日本のそれはその他のことと同様なんだかぐちゃぐちゃだ。

とまあ、クルマやクルマ社会はその国の歴史を引きずっている。クルマに限らず何でもそうだが、英国ではわけもなく変更する、ということが少ない。ある程度以上のグレードのクルマのインテリアで、ウッドとレザーを多用するクセも昔から変わらない。本物のウッドを多用するとやたら曲げるというわけにも行かず、助手席前のパネルもまっすぐ高くせり上がる感じになる。それが独特な雰囲気ともなるのである。

ところがビジネス的には英国車は成功したとは言い難い。ロールス・ロイス、ベントレー、ジャガー、MG、ローバー、アストン・マーチン・・・。皆良いクルマだが、経済的には破綻し、今も生き残るものは欧州大陸資本か米国資本傘下。あるいはヘッジファンドが株主だったりする。ジャガーとランド・ローバーは、スウェーデンのボルボとともにフォード傘下でPAGというグループを作っていたが、苦境にあえぐフォードはこの英国2ブランドの売却を決定した。おそらくまもなくインドのタタ・グループが買うことが正式決定されよう。まだ契約の細部の詰めをしているようだ。

しかしながらスゴイと思うのは、そんな状態でありながら、英国車はブランドとして残っていることである。資本がどこの国のものであれ、クルマ自体はブランドとして独立して今も尊重されているのだ。資本はフォードやBMWだったりするのだが、まったくそのことを表に出さず、売る時は元々の英国のブランド名だけで売っている。これもまた英国車達が強い個性を持っていることの証であろう。
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英国車の誘惑(1)

2008-02-23 13:29:55 | クルマ

私はクルマの運転が好きである。クルマを見るのも好きである。しかしメカにはあまり関心がない(恥)。学生時代に自動車免許を取得してそのまましばらくペーパー・ドライバーであった。就職して何年かして英国に赴任。そこで初めて自分のクルマを所有した。しかし英国にいながら、英国車を買うことはなかった。当時の英国は「鉄の女」サッチャー首相の時代。その後の復活大逆転直前の苦しい時代だった。性能という面では英国車のイメージもあまり良くなかった。私は英国でドイツ車(VW)を所有し、その後また別のドイツ車(BMW)に買い替えただけで、ローバーに乗ってみるなどということはしなかった。

我が家がクルマに求める現在の条件は3つ。
①4輪駆動であること
②大型犬を載せるスペースがあること
③犬を載せるスペースとそれ以外の部分を仕切る金属製ネットがオプションとして備わっていること

八ヶ岳山麓の山荘に通うのに雪道を走ることも多いので、安定走行には①の条件が必要であし、②や③の条件も、大型犬を飼っている以上必要なのである。また20年近く4輪駆動のクルマばかりを運転しているので、大雨の時の高速道路など、4輪駆動でないと怖く感じるようになってしまったのだ。

①や②の条件を満たすクルマはたくさんある。問題はやはり③の条件である。国産車にはそれを揃えるものは少ない。私は以前富士重工業のアウトバックに乗っていた。アウトバックは上記3条件をすべて揃えていた。③の条件についてもOKで、英国製のドッグ・ガードがオプションとして準備されていた。しかし国産車ではこんな例は珍しいのである。

その点狩猟が普及している国のクルマには上記3条件を揃えるものが数多くある。日本でも人気のあるレンジ・ローバーやボルボも、車種によってはこの3条件を満たしている。米国製のクルマにもこれを満たすものが多い。

上記3条件以外のことにも私は関心があった。クルマも文化のひとつである。自動車産業のグローバル化が進むが、一方で各国の過去の文化や国民的嗜好の違いを反映し、それぞれの国のクルマは経緯の異なる発展を遂げて今に至っているのである。③の条件が備わっているクルマが多い国と少ない国があることも、歴史的文化的背景の違いによるのであろう。そうした観点から、私は英国車に興味を持った。
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7軒の家(23)鎌倉市

2008-02-17 13:08:19 | 家の遍歴

7軒の家の話もこれで終わりである。我ながらよく続いたものと思う。

さて、建物だけでなく、外構も考えねばならない。私はレンガが大好きなのである。せめて外構にはレンガを多用しようと考えた。門の前にある2段の階段と、門柱、そして玄関ポーチへと続くアプローチはレンガで作った。出来ればごつごつしてアンティークな素材感のあるものが良いと思っていたので、それを探した。アプローチの敷きレンガは丸山さんの探してくれた見本から、門柱の積みレンガは私がインターネットで探した会社のカタログから選び、それを購入した。外構屋さんは私が頼んだとおりに工事をしてくれた。

門扉はたいていの家が2枚のものを使うが、私は1枚のものが好きで、それをインターネットで選び、購入して、付けてもらった。郵便ポストも英国のアンティーク・ショップにインターネットで注文して取り寄せた。表札も同様、英国からインターネットを使って取り寄せた。

庭はいくつか木を植えたが、多くの部分は芝生にした。特に芝生に強い関心があったわけではないが、犬が遊べるようにしたかったのである。芝生を生やさず土のままにしておくと、雨天時に地面がどろどろになる。犬の脚を拭くにしても、それでは犬が家に戻る時点で困るのだ。近所の園芸店、西武園芸七里ガ浜店がいろいろと丹念な作業をしてくれた。

画像は本日の芝生とレンガのアプローチ。冬なので、芝生はかなり黄色い色である。
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7軒の家(22)鎌倉市

2008-02-16 09:40:55 | 家の遍歴

またもやブレイスの丸山さんとの共同作業が始まった。土地を買った時点ではもうおおよそプランは出来ていた。七里ガ浜の土地を買う前に、いくつも買いそうになった土地があり、そこに建てる家をあれこれ考え、ラフな図面がすでにあったのだ。買ったばかりの土地にあわせ、出来た図面に多少の調整をする、という作業でアッという間に平面図や配置図が出来上がった。

新しい家の特徴は以下のとおり。
●構法は木造軸組み
●履き出しの窓はなしで、サッシは風呂場を除き、すべてアンダーセン社製の木製
●2階の壁は立ち上げず、1階の壁の上にすぐ屋根を載せ、2階部分は屋根裏的仕様とし、天井の一部をドーマーとして持ち上げることで高さを確保
●リビング・ルームなるスペースは設けない
●1階のダイニングの天井は屋根の傾斜そのままの斜めの天井。室内天井高が低いところは2.5mほどだが、高いところで6.25mほどあるので、冬になると天井付近にたまりやすい暖気をファンで直接的に下へ降ろすことにした
●室内でも洗面スペースとダイニングと台所の床はタイルで、水の配管がないダイニングは地面からそのままコンクリートを持ち上げ、タイルのすぐ下までコンクリートとした
●上記タイル以外の部分はほとんどがオークの床で、玄関ドアもオーク
●天井材はすべてパイン材を貼り、塗装
●室内壁はボードの上にペイント塗装とし、多くの部分にパイン材の腰壁がある
●外壁は細かい砂利のような骨材を混ぜたジョリパッドを、壁土をコテで塗る要領で、ベタベタと塗ったもの。破風など木部は黒のキシラデコールで塗装
●照明は一部を天井埋め込み型(ダウンライト)の国産照明器具にしたが、それ以外はほとんどすべてアメリカから通販で購入

年度替りということもあり、役所とのやりとりにやや時間がかかったが、それ以外は順調。2006年春に着工。工期は8ヶ月ほど。同年暮れには竣工した。
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7軒の家(21)鎌倉市

2008-02-09 11:01:08 | 家の遍歴

逗子市沼間に住み、八ヶ岳西麓の山荘に通い、山荘に行った時には、同じく八ヶ岳西麓に住む両親の家に立ち寄るという生活が続いた。その後転職をすることがあり、その退職金で両親の家の残債を返済してしまったので、経済的にはグンと身軽になった。それ以後私のローンの残債は逗子市沼間の自宅のものだけとなる。

以前書いたように、自宅があった住宅街は、バブル経済真っ盛りの頃に山をぶっつぶして作った逗子市沼間の新興住宅街である。土地代が高すぎて、ひとつひとつの区画が狭く、土地の起伏があるため、高低差を承知でむりやり住宅街にしたようなところで、コンクリート要塞のような擁壁をよじ登って上がると、そこに小さい土地があり、そこに目一杯建物が建っている、というような区画も多かった。隣接の市が所有する土地は総合病院誘致問題で揺れ、住宅街の自治会は賛成派、反対派の対立が続いていた。住んでいる自分自身なんだか気に入らない住宅街だった。

2005年の夏のことだった。新聞の不動産広告チラシが目に入った。鎌倉市浄明寺の土地で110坪ほどで2000万円。なんだか安い。久方ぶりに不動産マニアの私が関心を抱いてしまった。報国寺さんが持つ借地だった。鎌倉駅前の親切な不動産会社の社員に連れられ、その土地を見に行った。自分では買いたいと思わなかったが、面白い土地だった。狭い道の先のすごい坂を上って行きついたところ。山林の中で暗い。お化けが出そうだ。

逗子に住んでいると、「隣の鎌倉には勝てないなぁ」と思うことがよくあった。現存する歴史的名所、寺、神社の数。それを訪れる観光客の数、学術的な雰囲気、これまでに住んだ文学者の数、納税者一人当たりの納税額、古くて格調を感じる豪邸の数。観光客や地元住民をお客にするレストランの数。

画像は有名スーパーの紀ノ国屋鎌倉店。馬鹿馬鹿しいほど高価なものが多くて買うものがないくらいの場合もあるし、何か特定の食材を買うなら紀ノ国屋に行った方が早い、というケースもある。要は使い方だと思う。タクシーで紀ノ国屋の駐車場に乗りつけ、タクシーを待たせ、ちょっとだけ買い物をしてまたタクシーで帰るご老人、なんて光景を見ることがある。他ではなかなか成立しない風景である。今朝、私は紀ノ国屋に行った。画像はその時撮影したもの。バゲットとマーマレードと紅茶とタイ米を買った。サービスも雰囲気もとても良いと思った。

私は鎌倉に土地を探してみることにした。土地探しのストーリーはそれだけで本が書けそうなくらい色んなことがあったが、ここではごく簡単に書く。旧鎌倉のエリアに絞って私は土地を探した。扇ガ谷、浄明寺、二階堂、由比ガ浜、佐助、大町、小町、雪ノ下、西御門・・・。とても面白かった。個性的なところが多いのである。寺所有の借地も多く、分割もされず変わっていない分、良いところが多かった。あれこれ多くの土地を見た。でも様々な条件がどこかで合わず、4ヶ月ほど探し続け、もうやぁ~めた!という感じになった。疲れたのである。「これはいい」と思い成約しようとしたら、売り手に売る気がなくなったことがあった。後から「やっぱり買おう」と思い、買いに行ったらもうその土地は売れていたこともあった。八幡宮の裏でとても良い土地だが、古都保存法にひっかかり、家を建てるのに相当な調査をし、文化庁長官の許可が必要なケースもあった。

あきらめ気分になった頃、案内された土地がひとつあった。旧鎌倉の外。西に大きくはずれ、鎌倉駅よりはむしろ江ノ島が近いところ。七里ガ浜だった。40年前に西武グループが開発した巨大分譲地である。旧鎌倉とはずいぶん違う雰囲気。まっすぐな道路が網の目のようにつき、幅が広い。土地はキレイな長方形。隣接した土地とまったく同じ面積と形。明るい雰囲気である。今まで探してきた地域とは雰囲気がまったく違うが、「これでいいや」という気になった。二匹の大型犬を散歩させやすそうだったことも、「これでいいや」となった理由のひとつだ。クルマが入れない散歩道が住宅地内にあり、木がたくさん植えられていて、犬の散歩も楽しそうだった。大型車も難なく通れる幅6mの南面道路に、買おうと思った土地は面していて、建物の工事がやりやすそうだし、日当たりは抜群。住宅街から海辺はすぐ。鎌倉プリンスホテルも近くである。七里ガ浜からは江ノ島が見え、伊豆半島が見え、富士山や大島も見える。

それまで私に言われるがままに、旧鎌倉の範囲内であちこち土地を探してくれた不動産会社の社員も、いきなりこの土地を買うと言い出した私の気まぐれに驚いていた。私はその土地を購入した。もちろんまたローンを借りた。某メガバンクからは、3回借りてどんどん返し今度は4度目のローンを借りることになった。メガバンクも私のことをすっかり信用してくれたようで、今度もすんなり貸してくれた。2005年12月のことだった。
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7軒の家(20)両親の家

2008-02-02 07:18:23 | 家の遍歴

両親の家の計画は順調に進んだ。ブレイスの丸山さんとは2軒目の共同作業だ。話はかなり簡単である。私は信頼して相談出来たし、丸山さんも私の好みを把握していただろう(と思う)。

在来木造軸組構法で作った。建坪50坪で、老人二人が住むには十分な広さであったろう。外壁はジョリパッドに藁を混ぜ黄色っぽいものになった。妻壁等の木部との組み合わせをキレイに作ろうと考えた。正面デザインは左右が完全なシンメトリーである。内壁は上の三分の二がペイント塗装で、下の三分の一がパイン材の腰壁。非常にシンプルな仕上げとなった。床はほとんどの部分が国産のナラ材。天井はすべてパイン材。暖房、風呂、湯沸しは灯油。調理は電気、つまりIHだった。全体に明るい色使い。

ここでの新しい体験は窓。長野県麻績村のログハウスの別荘、逗子市沼間の自宅、長野県原村のティンバーフレームの山荘と窓は全部米国マーヴィン社製のものを使用したのである。しかしこの両親の家では同じく米国のアンダーセン社製のものを使ってみた。これがまた美しい。流通量も多い。ちょっと値段ははるが、なかなか良いと思った。

順調に工事は進み、2002年の秋には完了。冬を避けて2003年の春には、私の両親が入居した。その時点では両親の前の家(三重県の山の中)はまだ売れていなかった。私の苦しいローン返済が始まった。
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