「家」 @ 鎌倉七里ガ浜 + 時々八ヶ岳

湘南七里ガ浜(七里ヶ浜とも)から発信。自分の生活をダラダラと書きとめるブログ。食べ物、飲み物、犬の話題が多い。

「野生のエルザ」な生活

2009-07-01 10:10:16 | 家の遍歴
「野生のエルザ」のお話をご存じだろうか。ジョイ・アダムソンが半世紀ほど前に書いた作品で、数年後にはヴァージニア・マッケンナやビル・トラヴァーズが主演して映画化された。ケニアの乾いた風景や動物と人間との交流を楽しめるけれど、最後の方に行くにしたがって涙を流さずにはいられなくなるストーリーである。原題は「Born Free」。中学生の時、文法的に理解出来なくて困ったことを記憶している。短くbornとfreeという2単語だけを並べられても、それぞれの品詞、あるいは2語の相互の文法的関係がわからなかったのである。この物語に出て来る雌ライオンの名前であるエルザ(Elsa)と、例えばベティー(Betty)という2つの名前は一見別の名前だが、その他のものも含めて全部が同じ1つの名前の愛称にすぎないということを知ったのもこの時だ。



本日の話題は実はこの野生のエルザとは何の関係もない。原題の「Born Free」と、無借金な状態を指す「Loan-free」を引っかけただけの話だ。このブログですでに紹介したとおり、私はバブル崩壊の頃からこれまでに7軒の家を建てて来た。自宅、親の家、山荘・・・7軒全部を今も所有していたら尊敬に値するが、そんなことは私には出来ない。7軒の家を建てる都度、毎回毎回自分でローンを借りて土地を買い家を建てているので、不要になったら売却してローンを返済して銀行に抵当権を抹消してもらわねばならなかったからだ。土地建物を売るたびに損をした。この20年間日本の不動産価格はほとんど下がり続けていたわけだから当たり前だ。親の家を建てた時も多額のローンを強いられたが、父が死に家が不要になりつい先日それを売却したら、売却価格は購入にかかった費用の40%に満たなかった。ものすごい損失を蒙ったのである。今私の手元にあるのは、七里ガ浜の自宅と八ヶ岳西麓の山荘だけだ。

しかしこの20年ほどの間に、もしすべての日本人が私のような行動を取っていたら、平成不況もなかったであろう。地価ももう少し安定的に推移し、もっと景気は良かったはずである。建設業界も潤い、無駄な公共事業に頼ってばかりおらずもう少し自立的であったはずだ。私の度重なる引っ越しで運送業界も潤ったし、家を建てている間に仮住まいをするので家主も喜び、繰り返される売買で不動産業界の仲介手数料増大にも私は貢献し、抵当権の設定やそのキャンセルや登記手続きで司法書士も何度も潤った。また売る時買う時共に契約書が交わされ、それには多額の収入印紙を貼ったし、不動産取得税は買う度に支払い、固定資産税も保有期間中ずっと支払い、納税もスゴイのだ。


(Born Free orchestrated and conducted by John Barry)

私はまるで個人レベルでニューディール政策を推進しているようなもので、ほとんどフランクリン・ルーズベルト大統領並みだ。いやお金の出所が自分の労働の対価としてのサラリーであって、税金や後払いの税金(国債発行)を使っているだけという卑しさがない分もっと偉いかも(?)。

然るに・・・この20年間に7回土地建物のローンを借り、様々な手数料の支払いや元金と金利の返済を滞りなく行って来た私は、つまらないPR品を除くと、銀行から特に恩典を頂戴していない。一方で借りるだけ借りて返済も出来なくなり平気で開き直る企業には、銀行は債権放棄を積極的にして来た。銀行とは不思議なところであり、平然と顧客と公正でないつきあい方をするところだ。貸し込むのひどいし、その債権を放棄するのもひどい。そうやって助けてもらった企業もやがておかしくなり、そんなことをした銀行の一部までがおかしくなると、今度は銀行に税金が投入されたりする。まったく不公平な話である。個人のリスクで自己資金を使い私はニューディール政策を推し進めているというのに(くどいか?)、他方で債務を堂々と免除されたり、税金で生きながらえる企業がある。そんなことしていたら世の中のモラルが崩壊してしまうではないか。事実崩壊しているが。



さて、昨日私は10万円を超える繰り上げ返済手数料を銀行に徴収され、自宅のローンを全額返済した。

ローンを借りる時に物件を抵当に抑えられた(その司法書士の費用はこちらの負担だ)上で、さらに保証料やらなんやら手数料がかかり、返済期間中は金利もとられ、繰り上げて返済するとまた「繰り上げ返済手数料」というペナルティーがかかるのだ。ぶったくりである。そして今度は抵当権をはずしてもらうのに、また司法書士に手数料を払わねばならない。私はこれを7回やって来た。しかしとにかくここ20年間続いたローン返済生活をやっと終えたわけである。ローン・フリーな生活が始まるのだ。自分が撒いた種ではある。しかしローンの重圧を長年経験しておられない方々には、この自由な気分はわかるまい。

野生のエルザの原題「Born Free」は同名映画の主題歌のタイトルでもある。歌詞をご存じの方も多いと思う。

Born free
As free as the wind blows
As free as the grass grows
Born free to follow your heart (以下省略)

というのであるが、このBornをLoanに置き換えると意味もそのまま通じ、リズムも乱れず語呂もよく歌え、そのまま今の私の気分をずばり表現してくれる。ということで、好きなアンディ・ウイリアムスのCDをかけて昨日から「Born Free」ならぬ「Loan Free」を熱唱している。今後は私を「エルザ」とお呼び下さい。

Andy WilliamsはYoutubeでどうぞ【ここをクリック】
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7軒の家(23)鎌倉市

2008-02-17 13:08:19 | 家の遍歴

7軒の家の話もこれで終わりである。我ながらよく続いたものと思う。

さて、建物だけでなく、外構も考えねばならない。私はレンガが大好きなのである。せめて外構にはレンガを多用しようと考えた。門の前にある2段の階段と、門柱、そして玄関ポーチへと続くアプローチはレンガで作った。出来ればごつごつしてアンティークな素材感のあるものが良いと思っていたので、それを探した。アプローチの敷きレンガは丸山さんの探してくれた見本から、門柱の積みレンガは私がインターネットで探した会社のカタログから選び、それを購入した。外構屋さんは私が頼んだとおりに工事をしてくれた。

門扉はたいていの家が2枚のものを使うが、私は1枚のものが好きで、それをインターネットで選び、購入して、付けてもらった。郵便ポストも英国のアンティーク・ショップにインターネットで注文して取り寄せた。表札も同様、英国からインターネットを使って取り寄せた。

庭はいくつか木を植えたが、多くの部分は芝生にした。特に芝生に強い関心があったわけではないが、犬が遊べるようにしたかったのである。芝生を生やさず土のままにしておくと、雨天時に地面がどろどろになる。犬の脚を拭くにしても、それでは犬が家に戻る時点で困るのだ。近所の園芸店、西武園芸七里ガ浜店がいろいろと丹念な作業をしてくれた。

画像は本日の芝生とレンガのアプローチ。冬なので、芝生はかなり黄色い色である。
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7軒の家(22)鎌倉市

2008-02-16 09:40:55 | 家の遍歴

またもやブレイスの丸山さんとの共同作業が始まった。土地を買った時点ではもうおおよそプランは出来ていた。七里ガ浜の土地を買う前に、いくつも買いそうになった土地があり、そこに建てる家をあれこれ考え、ラフな図面がすでにあったのだ。買ったばかりの土地にあわせ、出来た図面に多少の調整をする、という作業でアッという間に平面図や配置図が出来上がった。

新しい家の特徴は以下のとおり。
●構法は木造軸組み
●履き出しの窓はなしで、サッシは風呂場を除き、すべてアンダーセン社製の木製
●2階の壁は立ち上げず、1階の壁の上にすぐ屋根を載せ、2階部分は屋根裏的仕様とし、天井の一部をドーマーとして持ち上げることで高さを確保
●リビング・ルームなるスペースは設けない
●1階のダイニングの天井は屋根の傾斜そのままの斜めの天井。室内天井高が低いところは2.5mほどだが、高いところで6.25mほどあるので、冬になると天井付近にたまりやすい暖気をファンで直接的に下へ降ろすことにした
●室内でも洗面スペースとダイニングと台所の床はタイルで、水の配管がないダイニングは地面からそのままコンクリートを持ち上げ、タイルのすぐ下までコンクリートとした
●上記タイル以外の部分はほとんどがオークの床で、玄関ドアもオーク
●天井材はすべてパイン材を貼り、塗装
●室内壁はボードの上にペイント塗装とし、多くの部分にパイン材の腰壁がある
●外壁は細かい砂利のような骨材を混ぜたジョリパッドを、壁土をコテで塗る要領で、ベタベタと塗ったもの。破風など木部は黒のキシラデコールで塗装
●照明は一部を天井埋め込み型(ダウンライト)の国産照明器具にしたが、それ以外はほとんどすべてアメリカから通販で購入

年度替りということもあり、役所とのやりとりにやや時間がかかったが、それ以外は順調。2006年春に着工。工期は8ヶ月ほど。同年暮れには竣工した。
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7軒の家(21)鎌倉市

2008-02-09 11:01:08 | 家の遍歴

逗子市沼間に住み、八ヶ岳西麓の山荘に通い、山荘に行った時には、同じく八ヶ岳西麓に住む両親の家に立ち寄るという生活が続いた。その後転職をすることがあり、その退職金で両親の家の残債を返済してしまったので、経済的にはグンと身軽になった。それ以後私のローンの残債は逗子市沼間の自宅のものだけとなる。

以前書いたように、自宅があった住宅街は、バブル経済真っ盛りの頃に山をぶっつぶして作った逗子市沼間の新興住宅街である。土地代が高すぎて、ひとつひとつの区画が狭く、土地の起伏があるため、高低差を承知でむりやり住宅街にしたようなところで、コンクリート要塞のような擁壁をよじ登って上がると、そこに小さい土地があり、そこに目一杯建物が建っている、というような区画も多かった。隣接の市が所有する土地は総合病院誘致問題で揺れ、住宅街の自治会は賛成派、反対派の対立が続いていた。住んでいる自分自身なんだか気に入らない住宅街だった。

2005年の夏のことだった。新聞の不動産広告チラシが目に入った。鎌倉市浄明寺の土地で110坪ほどで2000万円。なんだか安い。久方ぶりに不動産マニアの私が関心を抱いてしまった。報国寺さんが持つ借地だった。鎌倉駅前の親切な不動産会社の社員に連れられ、その土地を見に行った。自分では買いたいと思わなかったが、面白い土地だった。狭い道の先のすごい坂を上って行きついたところ。山林の中で暗い。お化けが出そうだ。

逗子に住んでいると、「隣の鎌倉には勝てないなぁ」と思うことがよくあった。現存する歴史的名所、寺、神社の数。それを訪れる観光客の数、学術的な雰囲気、これまでに住んだ文学者の数、納税者一人当たりの納税額、古くて格調を感じる豪邸の数。観光客や地元住民をお客にするレストランの数。

画像は有名スーパーの紀ノ国屋鎌倉店。馬鹿馬鹿しいほど高価なものが多くて買うものがないくらいの場合もあるし、何か特定の食材を買うなら紀ノ国屋に行った方が早い、というケースもある。要は使い方だと思う。タクシーで紀ノ国屋の駐車場に乗りつけ、タクシーを待たせ、ちょっとだけ買い物をしてまたタクシーで帰るご老人、なんて光景を見ることがある。他ではなかなか成立しない風景である。今朝、私は紀ノ国屋に行った。画像はその時撮影したもの。バゲットとマーマレードと紅茶とタイ米を買った。サービスも雰囲気もとても良いと思った。

私は鎌倉に土地を探してみることにした。土地探しのストーリーはそれだけで本が書けそうなくらい色んなことがあったが、ここではごく簡単に書く。旧鎌倉のエリアに絞って私は土地を探した。扇ガ谷、浄明寺、二階堂、由比ガ浜、佐助、大町、小町、雪ノ下、西御門・・・。とても面白かった。個性的なところが多いのである。寺所有の借地も多く、分割もされず変わっていない分、良いところが多かった。あれこれ多くの土地を見た。でも様々な条件がどこかで合わず、4ヶ月ほど探し続け、もうやぁ~めた!という感じになった。疲れたのである。「これはいい」と思い成約しようとしたら、売り手に売る気がなくなったことがあった。後から「やっぱり買おう」と思い、買いに行ったらもうその土地は売れていたこともあった。八幡宮の裏でとても良い土地だが、古都保存法にひっかかり、家を建てるのに相当な調査をし、文化庁長官の許可が必要なケースもあった。

あきらめ気分になった頃、案内された土地がひとつあった。旧鎌倉の外。西に大きくはずれ、鎌倉駅よりはむしろ江ノ島が近いところ。七里ガ浜だった。40年前に西武グループが開発した巨大分譲地である。旧鎌倉とはずいぶん違う雰囲気。まっすぐな道路が網の目のようにつき、幅が広い。土地はキレイな長方形。隣接した土地とまったく同じ面積と形。明るい雰囲気である。今まで探してきた地域とは雰囲気がまったく違うが、「これでいいや」という気になった。二匹の大型犬を散歩させやすそうだったことも、「これでいいや」となった理由のひとつだ。クルマが入れない散歩道が住宅地内にあり、木がたくさん植えられていて、犬の散歩も楽しそうだった。大型車も難なく通れる幅6mの南面道路に、買おうと思った土地は面していて、建物の工事がやりやすそうだし、日当たりは抜群。住宅街から海辺はすぐ。鎌倉プリンスホテルも近くである。七里ガ浜からは江ノ島が見え、伊豆半島が見え、富士山や大島も見える。

それまで私に言われるがままに、旧鎌倉の範囲内であちこち土地を探してくれた不動産会社の社員も、いきなりこの土地を買うと言い出した私の気まぐれに驚いていた。私はその土地を購入した。もちろんまたローンを借りた。某メガバンクからは、3回借りてどんどん返し今度は4度目のローンを借りることになった。メガバンクも私のことをすっかり信用してくれたようで、今度もすんなり貸してくれた。2005年12月のことだった。
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7軒の家(20)両親の家

2008-02-02 07:18:23 | 家の遍歴

両親の家の計画は順調に進んだ。ブレイスの丸山さんとは2軒目の共同作業だ。話はかなり簡単である。私は信頼して相談出来たし、丸山さんも私の好みを把握していただろう(と思う)。

在来木造軸組構法で作った。建坪50坪で、老人二人が住むには十分な広さであったろう。外壁はジョリパッドに藁を混ぜ黄色っぽいものになった。妻壁等の木部との組み合わせをキレイに作ろうと考えた。正面デザインは左右が完全なシンメトリーである。内壁は上の三分の二がペイント塗装で、下の三分の一がパイン材の腰壁。非常にシンプルな仕上げとなった。床はほとんどの部分が国産のナラ材。天井はすべてパイン材。暖房、風呂、湯沸しは灯油。調理は電気、つまりIHだった。全体に明るい色使い。

ここでの新しい体験は窓。長野県麻績村のログハウスの別荘、逗子市沼間の自宅、長野県原村のティンバーフレームの山荘と窓は全部米国マーヴィン社製のものを使用したのである。しかしこの両親の家では同じく米国のアンダーセン社製のものを使ってみた。これがまた美しい。流通量も多い。ちょっと値段ははるが、なかなか良いと思った。

順調に工事は進み、2002年の秋には完了。冬を避けて2003年の春には、私の両親が入居した。その時点では両親の前の家(三重県の山の中)はまだ売れていなかった。私の苦しいローン返済が始まった。
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7軒の家(19)両親の家

2008-01-26 12:12:38 | 家の遍歴

神奈川県逗子市小坪(自宅)⇒長野県東筑摩郡麻績村(山荘)⇒神奈川県津久井郡相模湖町(自宅)⇒神奈川県逗子市沼間(自宅)⇒長野県諏訪郡原村(山荘)と私は5軒の家を建てて来た。今度は私にとって6軒目の家で、両親の家の話である。

両親が新しい家に移り住みたいと思っていることを知り、最初私は八ヶ岳山麓だけでなく、伊豆や箱根の別荘地でも土地を探した。2001年のことだった。伊豆などかなり地価が高いの驚いた。伊豆では私が買える土地というと、狭い土地であることが多かった。湘南の住宅街とたいして変わらない、狭苦しい別荘地も多かった。

伊豆・箱根、あるいは八ヶ岳山麓でいくつか候補になるところがあったが、いずれも一長一短。やがて適当なところが見つかった。長野県西麓、茅野市の標高1250m。大手ゼネコンが開発した巨大別荘地の中の一区画である。私の山荘からもすぐのところにあった。

面積は400坪弱。きわめてフラットな土地で、道路からはわずかに上がる。南面道路は二車線のアスファルト舗装。しかし別荘地でも端っこに位置することからクルマの往来はほとんどない。山の中というのに上下水道が備わっていた。自宅も含めてその土地も抵当に入れて、その上に両親の家を建てるからお金貸してくれる?と自宅のローンを借りているメガバンクに申し込んだら、あっさり通ってしまった。

その時点で両親は三重県の山林の中に住んでいた。母が打ち込んでいた陶芸の釜やその作業場や展示室やジャグジー風呂も備えた大きな家で、平成不況の真っ只中、そこを売却することはかなり困難と思われた。実際売りに出してみると、まったく売れそうになかった。見に来る人さえいなかった。10年近く前の購入価格の4分の1まで下げても売れなかった。

結局新しく購入する両親のための土地、およびそこに建てる建物のローン全部を、私が背負うことになった。涙のローン返済人生である。一方で自宅のローンもまだまだたくさん残っていたのである。
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7軒の家(18)八ヶ岳西麓

2008-01-19 15:29:30 | 家の遍歴

ブレイスの丸山さんとの楽しいプランニング作業が続いた。自分としてはなんとしても実現したい部分と、コストダウンのためにここは譲ってもよいという部分があった。そして自分が支払えるギリギリのところに、価格を持って行く作業が続いた。

丸山さんは私の細かいリクエストに応えてくれた。そして1999年6月になった。近隣の山荘と比較して、小さめの建物が完成した。建物の中にいるのも楽しいし、そこを拠点に原村の周囲を車で走り回ることも楽しかった。

画像は建物の内部である。太い柱の上にもっと太い桁や梁が載る。吹き抜けの天井部、屋根を支える登り梁が気持ちが良い。珪藻土の壁もとても気に入っている。垂直の構造材と水平のそれとを斜めにつなぐ、ブーメランのようで筋交いのような部分がブレイスである。これが丸山さんが主宰する建築集団「ブレイス」の名前の由来である。

建物が完成した直後の夏休み。私の両親が泊まりに来た。母が原村を見て「このあたりに住みたい!」と言い出したが、父は嫌がった。「こんな寒いとこ住めるか!」と。しかし父は戦前の満州育ち。アイスホッケーの選手だったのである。その時点で両親は、なぜか地縁血縁のない三重県の山の中の集落に住んでいた。父の退職後、陶芸が好きだった母が、それに本格的に取り組むため移り住んだ山里だった。そこが両親とも嫌になったのである。息子だけでなく、両親も移り気なのだった。

しかし父の説得には2年を要した。「足りない資金はボクが出すから」と私は言って、父を説得した。私のこの言葉は後に私に災厄をもたらすことになる。ある時父がその気になった。時は2年後、2001年のことだった。
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7軒の家(17)八ヶ岳西麓

2008-01-13 14:29:25 | 家の遍歴

順序が逆になった。勝手な都合により資金計画の話は前回のところで書いた。それより先に、私は丸山さんと八ヶ岳西麓の山荘について、プランを練り始めていたのだ(画像はその山荘ではない。私の両親の家の作成途中の平面図だ)。私にとっては逗子市小坪(自宅)、長野県東筑摩郡麻績村(山荘)、神奈川県津久井郡相模湖町(自宅)、逗子市沼間(自宅)に続いて5軒目の家となる。

私にも標高の高い土地に建つ建物の理想がある。小さい山荘になるだろうが、自分なりにいろいろ考えてはいたのだ。鉛筆で書いた絵を丸山さんに示した。ティンバー・フレーム構造の家である。ラフな外観図、平面図はもちろんのこと、中にダグラス・ファー(米松)の構造材を組んだ複雑さを見せること、玄関ドアはオーク製、それ以外の建具はヘム・ロック、窓は最初の山荘と逗子市沼間の自宅で慣れ親しんだマーヴィン社製、採光は絞り気味、床はパイン材、外壁(藁を刻んでモルタルと混ぜるような感じ)、薪ストーブのモデル(ドイツ製)、キッチンのカルチャード・ブリック、内壁の一部はペイント、それ以外は珪藻土に色付け、キッチン収納の部材はオークで、屋根はここは吹き抜けで、全体に天井の登り梁をぐっと太めに、塗装はこんな感じで等々。具体的に丸山さんに相談し、リクエストしたのである。

丸山さんはベテランである。いろいろリクエストに応えてくれた。控えめだが、正直で的確なアドバイスがもらえる。あくまで施主の希望を優先する。しかし無理なことは無理だし、良くないことは良くないと教えてもらえる。施主のコストダウン要請には、具体的に「コレをアレにすればいくら下がるし、ソレにすればさらに下がっていくらになる」と答えてくれる。施主の無意味で傲慢な値下げ要求は不要だ。そもそも家ってそれなりの価格がつくものだ。高いことをすれば高くつくし、安く仕上げれば安くなる。安くても基本的要件を満たせば、それで問題はない。どんな構法だって、ちゃんと建てれば地震でも大丈夫。施主が素人なりに鑑識眼を持ち、まともな建築家を選べば、そこからは先はどう仕上げようが施主の努力と責任である。ちゃんとした注文の出来る施主になることだ。

丸山さんにはモデル・ハウスもないし、「これがモデル・プラン!」というモノもない。もちろん丸山さんおよびブレイスの仲間が、すでに建てた建物の現物は見ることが出来る。でもそれはいわゆるモデル・ハウスではない。施主の希望はなんでもありで、施主の希望を可能な限りかなえて行くというスタイルである。構法はログ・ハウスだろうが、ティンバー・フレームだろうが、在来木造軸組構法だろうがなんでもOKである。私もいろいろリクエストをしたし、丸山さんから学ぶところも多かった。
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7軒の家(16)八ヶ岳西麓

2008-01-12 11:08:14 | 家の遍歴

今回はあるメガバンクからお金を借りる話である。結局、私は八ヶ岳西麓に新たに建てる山荘を、ブレイスの丸山さんに建ててもらうことに決めたのだった。そしていつも私についてまわるのが資金繰りの問題だ。ローンを利用する場合、普通は【家のプランの相談】→【設計図面作成】→【建築工事請負契約】(ここまでは設計士、工務店、ハウスメーカーなどと)→【完成した契約書、図面等の書面を持って借金の相談に行く】(最後のプロセスは銀行と)といった順序を経る。しかしここでは都合上、最後の部分、つまり銀行との交渉を先に書く。

丸山さんに図面と契約書を用意してもらった私は、それを持って銀行へと急いだ。大手メガバンクのひとつである。逗子市沼間の自宅の土地建物もその銀行の抵当権つきである。この時点で私の所有する不動産は2つ。ひとつはそのメガバンクが抵当権を設定している私の自宅。もうひとつは長野県東筑摩郡麻績村にある私の山荘である(先述)。これは村が所有する山林の地上権(通常の借地に多い賃借権よりも強い権利で抵当権の設定も可能)の土地に建てた丸太のログハウスである。これにはローン残債はなかった。逗子市沼間に自宅を建てる際のどさくさにまぎれて、わずかな残債を返してしまっていた。

メガバンクは私に以下の3つの条件で貸すと言う:
1.新しい山荘(土地建物)に必要な総額よりかなり少ない金額しか貸さない。
2.新しい山荘に対してのみ分離して貸すのではなく、自宅と新しい山荘の両方にまたがる抵当権を設定し、その全体に対して貸す。
3.なるべく早く不要となる古い別荘を売却し、その資金で一部でも返済して欲しい。

私は唸ってしまった。2.は構わない。これは取りっぱぐれの期待値を少しでも小さくするための先方の都合だ。私は借りられさえすれば良いのだ。問題は1.である。ローン可能な金額は私が必要な金額よりかなり少なかった。これではとりあえず土地は確保出来ても、建物が完成しない。3.は実現可能かどうかわからない。時は1998年だ。平成不況がいよいよ本格化し、巨大金融機関が破綻し続けていたあの頃である。長野県の北にある中古のログハウスを買おうなんて人は、どんどん減っていた。そもそもこのログハウスの売却が簡単に適当な値段で可能になるなら苦労はないのだ。四谷にある田舎不動産取扱い専門会社に、このログハウスの売却仲介をお願いしたが、売却契約の成立はいつになるかわからない。そういう前提で新山荘建築計画を進めねばならなかった。

丸山さんに相談した。「丸山さんと契約して、銀行からお金は借りられます。原村に土地も買えます。丸山さんに工事を途中までは進めてもらえますし、そのお金は支払えます。しかし途中でそれ以上のお金が支払えなくなる可能性があります。残り工事を進めて残額すべてを支払えるかどうかは、長野県麻績村のログハウスが売却出来るか否かにかかってますが、どうですか」と。

仮にログハウスが売れず、途中で丸山さんに支払えなくなったら、その時は銀行以外のローンを利用することに決定した。私もかなり調べて、消費者金融までは行かなくても、いろいろお金を借りる手段があることがわかったのだ。それにログハウスだっていつまでも売れないわけではない。調べてだいたい相場はわかった。どれくらいまで自分の希望価格を下げれば、売却が可能かも目処が立った。売却出来なかった時はその時のこと。また考えればいいやと。とは言え、それは私の勝手な算段である。しかし丸山さんはこれに同意した。

ちなみに建築家集団ブレイスは会社形態をとらない。施主は代表者丸山さんと一対一で契約を結ぶ。「ブレイス」はお店の屋号みたいなものである。ブレイスに所属し家を建ててくれる気のいい人達は皆、丸山さんと一対一で契約している個人だ。実はこれは施主にとってはなかなか良い形態である。大手ハウスメーカー等と比べれば、様々なコストは激減する。詳しくはまたいつか書こう。

一般に施主は工事を請け負った業者が、資金を支払った後、建物完成前に、倒産しないかと心配する。いわゆる信用リスクというものだ。でも工事請負業者だって、いい加減な施主が途中で契約の履行を渋り、資金支払いをストップさせないかと、もっと心配しているのだ。この施主(私のこと)の無謀な資金計画によく同意したものだと、丸山さんに驚いたし感謝した。

実は、その後丸山さんに山荘を建ててもらっている途中で、いきなり古いログハウスが売れてしまうのである。この売却資金を得たおかげで、追加的ローンを実行する必要もなくなり、八ヶ岳西麓の山荘建築計画はあっさりと資金繰りがついてしまった。何事も事前の調査、そしてある程度のところでの思い切りが必要だと実感した。
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7軒の家(15)八ヶ岳西麓

2008-01-04 20:32:31 | 家の遍歴

原村の標高1600mにある大手ディベロッパーの分譲地の土地を予約したが、それはまだ私の物にはなっていなかった。私にお金がないからだ。まず土地だけを所有し、そこに遠い将来建てるであろう家のことを時間をかけて想像する、などという方法を、私はとらない。土地と家はいつもセットで手に入れるのである。家を建てないなら、土地にも関心もなかった。だからお金の無い私の場合、その土地を自分の物にするためには、合わせて新しい山荘計画を策定し、両方の資金繰りを同時に銀行に相談し、それでローンの内諾をとりつけるのでなければ意味がなかった。私はさっそく新山荘建築計画に取り掛かった。

ログハウスにはもはや関心がなかった。私が最初の山荘であるログハウスを長野県東筑摩郡麻績村に建てた時は、まだログハウスと言えば大口径で荒々しいハンドカットのログハウスが圧倒的に多かった。私のもそうだった。実は近年では、これはほとんど需要がない。あるとすれば工場でプレカットされたマシンカットである。多くは北欧製。一部北米製のものもある。私が新しい山荘計画に取り掛かった1998年には、すでにその傾向が顕著であった。木材を横倒しにして積み上げ、建物の内装も外装も同じログの表面という、構造的にまったくユニークで魅力的なものだ。しかしハンドカットにしろ、マシンカットにしろ、それまでの様々な経験からいろいろとやっかいなことも多いと私は考えた。

また米国式の壁組み構法(ツーバイフォー構法)も逗子市沼間の自宅で経験済みで、非常に合理的だと感じたが一回経験すれば十分で、建物としての面白みは少なかった。もう一度柱や梁を組み上げる木造軸組構法で、家を作りたくなった。出来れば古民家のように太い材を用い、屋内にその構造をそのまま見せたかった。その頃いろいろな雑誌を見ていて、ティンバー・フレーム構法を知った。日本において法律的には在来の木造軸組構法と同じ扱いになるものだ。一般の国内の木造軸組に較べれば、かなり太い材を用いることが多い。そして表面的な仕上げが少し洋風になる。

ティンバー・フレームを建築を手がける会社は少なかった。たまたまある雑誌の広告で、ティンバー・フレームを請け負っている八ヶ岳山麓の会社、ブレイスのことを知り、そこに電話をかけてみた。「はい、丸山(ブレイスの代表者)です!」という声が返って来た。ちょっと怖い声だった。怖い人なのだろうか・・・。とにかくその丸山さんという人に会うことにした。会って、その人が建てた建物を見せてもらうことにした。

ブレイスの事務所は山梨県北巨摩郡小淵沢町(現在は北杜市の一部)。中央高速で行くと小淵沢ICを出て左折し、まっすぐ5分ほど下ったところ。右側に看板(上の画像)が見える(詳しくはこのブログにあるBookmarkにリンクがあるからそこからどうぞ)。教えられたとおりに当時の愛車(デリカ・スペースギア)を運転して行ってみた。八ヶ岳山麓の別荘建築ということから想像していたのとは、ブレイスの事務所はまったく異なっていた。かなり古いスナックをそのまま建築事務所に転用したものだった。スナックとして使用されていた時のメニュー(黒板)が、なぜかまだ壁に掛かっていて、「あたりめ●●●円」などと書いてあった。雰囲気が想像していたのと異なるので調子が狂ったが、それはそれで面白かった。

丸山さんは率直で温和な感じの人だった。「まだよくわからんが、この人に建ててもらおっかなぁ~、どうしよっかなぁ~」と思いながら、私は新しい山荘計画を丸山さんに説明し始めた。
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