音楽の喜び フルートとともに

フルート教室  久米素子 松井山手駅 牧野駅 090-9702-8163 motokofl@ezweb.ne.jp

鉄道に魅せられた男たち

2024-05-08 09:02:00 | ロマン派
連休明けは塚口駅近くのt-raumでハープのレッスン。
馬車の扉で先生とデュオを演奏して以来。
7月21日にハープの発表会があるのでその練習も始まりました。
基礎練習もなかなか難しくなってきました。

先生「なかなか上手になってきましたよ。」とニッコリ。
いやいや、まだそんなこと無いですが嬉しいです。励みになります。

t-raumのバラのアーチが綺麗でした。





猫さんは姿が見えませんでした。

横の白バラもツボでした。
帰り道、淀屋橋駅でトーマス列車に会いました。

ニア





パーシーも。
快速急行ではなく特急で帰ったので乗りませんでしたが、出会うと元気が出ます。

「機関車トーマス」の作者はウィルバート オードリー(1911-1997年)イギリス ハンプシャー州ロムジー生まれ、イギリス クロスタシャー州ストラウド没

司祭館で司祭の父ヴィアとルーシーのもとに生まれました。
庭には兄キャロルが父と作った鉄道模型が置かれていました。
1914年キャロルは出征し戦死します。
1917年にキャロルを失った悲しみから立ち直る為に家族揃ってウィルトシャー州ボックスに移り住みます。

新居の近くにグレート・ウェスタン鉄道(パディントン・ブリストル間)のボックストンネルがありました。

1848年製の広軌のアイアン・デューク級の1両、「ハイロンデル」 (Hirondelle)
そこを蒸気機関車が走り、ウィルバートは聞こえてくる蒸気やエンジンの音から機関車が意志を持っているように感じました。
オックスフォード大学に進学、1932年に大学を卒業し、翌年から3年間イスラエルで教職に付き、その時期にウィルバートと同じく教師としてイスラエルに赴任していたマーガレット・エミリー・ウェイルと出会います。

1936年イギリスに帰国し、マーガレットと結婚、1男2女を儲けます。(長男クリストファー、長女ヴェロニカ、次女ヒラリー)。

クリストファーが麻疹で寝ていた時に蒸気機関車が話すエピソードを息子に話し始めました、
これが、「汽車のえほん」となり、後に「機関車トーマス」になりました。


タリスリン鉄道
1952年以降はタリスリン鉄道等の保存鉄道のボランティア活動にも献身的に参加しました。

「汽車のえほん」にも「スカーローイ鉄道」としていくつか描かれています。

モデルとなったタリスリン鉄道の機関車。ピーター・サムのモデルとなった4号機のエドワード・トーマス号

「汽車のえほん」第10巻において「ピーター・サムのしっぱい」というエピソードとして執筆されています。
1984年「汽車のえほん」は「機関車トーマス」として映像化されます。
1983年からは息子のクリストファーが書き継いでいます。

エドゥアルド シュトラウス2世(1835-1916年)オーストリア帝国ウィーン生まれ、オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン没

ヨハン シュトラウス1世の4男(3男フェルディナンドは夭折)、ヨハン シュトラウス2世、ヨーゼフ シュトラウスの弟です。

彼は語学に長け、外交官になる夢を抱いていましたが、長男のヨハンによって強引にハープを学ばされ、音楽の世界に引きずり込まれました。

作曲家としては、父や兄たちほど成功しませんでしたが、指揮者としては遥かにうまく、シュトラウス楽団を引き継ぎました。

彼の最も成功した曲が
「テープは切られた。」op.45です。

1869年カイザー フェルディナンド 北部鉄道が開業30周年を迎えたことで開かれた記念舞踏会で演奏する為に作曲されました。

この鉄道は、ウィーンからブルノ(当時はブルン)、クラコフ(ポーランド領で当時はクラカウという名)を経由してワルシャワまで行く路線です。

1837年オーストリア帝国で最も早く開業した蒸気機関鉄道です。
1908年ウィーン駅






呻吟9年のピアノ五重奏曲

2024-05-07 21:03:00 | 近代
連休最終日は、枚方市文化芸術センターのリハーサル室でAPAの弾き合い(散らし会)でした。
チェロの有馬善一さんから誘われて
金重さんとほぼ一発合わせの室内楽会に行ってきました。

私はモーツァルトのフルート四重奏のDdurを演奏しました。
他にもモーツァルト弦楽五重奏やチャイコフスキーセレナーデ、フォーレピアノ五重奏曲、ドヴォルザークピアノ五重奏曲、 モーツァルトピアノ五重奏、ブラームス弦楽六重奏などなど、名曲揃い。

ガブリエル フォーレ(1845-1924年)フランス王国パミエ生まれ、フランス共和国パリ没


1889年
ピアノ五重奏曲第1番 ニ短調 Op.89の
作曲期間は、およそ1890年から1894年にかけての5年間と1903年から1905年にかけての3年間に分かれています。

ピアノ四重奏曲第2番の初演後まもない1887年9月、友人のマルグリート・ボニーに宛てたフォーレの手紙によれば、フォーレはピアノと弦楽器のための新たな作品を構想し始めました。

1887年夏のスケッチ帳の中に、この作品の第3楽章で用いられることになる主題がヘ長調で記されています。

当初はピアノ四重奏曲としてスケッチされたこの曲は、やがて第2ヴァイオリンをつけ加えたピアノ五重奏曲に編成が拡大されました。

これについて、ベルギーのヴァイオリニスト、ウジェーヌ・イザイ(1858年 - 1931年)
曲の初演者となったウジェーヌ・イザイ(1858年 - 1931年、1913年ごろ
が自身のソロ活動とともに弦楽四重奏団(en:Ysaÿe Quartet (1886))を率いていて、1888年及び1889年にブリュッセルでフォーレのヴァイオリンソナタ第1番と2曲のピアノ四重奏曲を四重奏団とピアノのフォーレと共演していたからと言われています。

五重奏曲の草稿は1890年の終わりごろにはかなり書き進められており、フォーレの次男フィリップによれば、アレグロとアンダンテの楽章がほぼ同時期に書かれていたといそうです。

このころイザイは彼の弦楽四重奏団のメンバーとともにパリのフォーレ宅

フォーレの自宅
を訪れ、書き上げられた部分を試演したました。このときの様子をフィリップは次のように述べています。

「アレグロの提示部は書き改められた。なぜならピアノのアルペジオに軽快さを欠いていたからだ。イザイが彼の四重奏団のメンバーとともにパリを訪れ、マルゼルブ大通りのサロンで書き上げられた部分を試演した。このときイザイは感激を表した。そして『五重奏曲』は彼に捧げられることが約束された。しかし、ガブリエル・フォーレは満足していなかった。気にかかっていた展開部がやはりよくなかったからだ。」— フィリップ・フォーレ=フレミエ

五重奏曲の作曲は一時中断され、フォーレは1891年5月から初めてヴェネツィアに滞在します。

現地で後のポリニャック公爵夫人(フランス革命のもととなったポリニャック夫人の孫)ウィナレッタ・シンガー(1865年 - 1943年)


に迎えられたフォーレは、同年9月にポール・ヴェルレーヌの詩に基づく『5つのヴェネツィアの歌』(作品58)を完成します。

また、エンマ・バルダック
エンマ バルダック後のドビュッシーの妻
との交際から、1892年から1894年にかけて連作歌曲『優しい歌』(作品61)を作曲し、このことでフォーレ夫妻の間には気まずい雰囲気が流れ始めました。

1894年6月、フォーレはポリニャック公爵夫人に宛てた手紙に「(五重奏曲が)完成するまでは決してこの曲から離れない」という固い決意で臨み、出版社のアメル社は1896年の春にこの曲が作品番号60として目下印刷中であると公表しました。

この間、1894年の7月には夜想曲第6番、同年9月には舟歌第5番と、フォーレの「第二期」を代表するピアノ曲が完成されています。 しかし、ピアノ五重奏曲の筆は進まず、フォーレはまたしても作曲を中断、長らく放置されることになりました。

ピアノ五重奏曲第1番の作曲が再開されたのは1903年で、フォーレ58歳のときです。

前年の1902年秋からフォーレはスランプに陥っていました。 フォーレの友人エミリ・ジレットの日記では、フォーレの疲れ果てた状態について「ひどい偏頭痛に苦しみ、黄ばんだ顔で、光のない眼、……とにかく驚くような」と記しています。

1903年3月からフォーレは「フィガロ」紙

の音楽批評を担当し、4月にはレジオンドヌール勲章(勲四等)を授与されました。

一方で、晩年のフォーレを悩聴覚障害の兆候が同じ年の夏から始まっています。

この年からフォーレは夏の休暇をスイスで過ごすようになり、これは1914年まで続くことになります。

1903年8月、スイス滞在が始まると、フォーレは新しい作品を書き始めました。当初はヴァイオリンソナタが念頭にありましたが、その後これはピアノ五重奏曲第1番の緩徐楽章となっていき、この年から3年間の夏を通じてこの曲は完全に書き改められ、さらに新しい部分がつけ加えられました。

1905年の夏、チューリヒのシュテルンヴァルテ荘でフォーレはピアノ五重奏曲第1番をついに完成させました。

1905年
同年10月、「ラヴェル事件」(1905年ローマ賞の選考で実績のあるラヴェルを予選で落としたことにより責めを負いました)によって辞任したテオドール・デュボワ


の後任として、フォーレはパリ音楽院

の院長に就任します。またこのためにマドレーヌ寺院の主席オルガニストと音楽学校視学官を辞任しています。

フォーレの手紙から
スイス滞在中にフォーレは妻マリーに宛てて頻繁に手紙を書き、ピアノ五重奏曲第1番の進捗状況を伝えています。このうち1903年にローザンヌから出された手紙には、フォーレの音楽や室内楽ジャンルに対する姿勢が表明されています。

「この新しい室内楽作品についての君の助言に感謝します。君が言うとおり、このジャンルはたしかに重要なものです。真の音楽、一人の人格のもっとも真摯な自己表現というものは、管弦楽か、あるいは室内楽を通じてのみ実現できると思っています。」
— 1903年8月27日、フォーレが妻マリーに宛てた手紙
1889年のフォーレとマリー

「私にとって芸術、とりわけ音楽はわれわれ人間をこの世に存在するものよりはるかに上の最も遠いところに高めることに存在している。」
— 1903年、フォーレが妻マリーに宛てた手紙

翌1904年、チューリヒからの手紙では、作曲が難航し呻吟している様子が伝えられている。

「第1楽章のとても微妙な書き直しには、大変神経を使いました。今こうやって見直してみると、見違えるほど自然な曲になりました。」
— 1904年8月31日、フォーレが妻マリーに宛てた手紙

「曲を作ると言うことはなんと大変なことなのか……。そして、自分を天才だと思い込んで、つまらない作品にも満足できるような人々はどれほど幸せなことだろう! 私はそういった人たちを羨ましく思います。」
— 1904年9月1日、フォーレが妻マリーに宛てた手紙

「へとへとになるまで仕事をしたというのに(……)全く、何もできなかった! 厚い壁が立ちふさがっている。」
— 1904年9月2日、フォーレが妻マリーに宛てた手紙

1906年3月23日、ブリュッセルのセルクル・アルティスティク(Cercle artistique)にて初演。パリ初演は1906年4月30日、サル・プレイエルにて。

サル プレイエル
いずれもフォーレのピアノとイザイ四重奏団(ウジェーヌ・イザイ、エドゥアル・ドリュ、レオン・ヴァン・ホウト、ヨゼフ・ヤコブ)の演奏によります。

ブリュッセルでの初演当日、フォーレは妻に宛てた手紙に次のように記している。

「イザイが、この五重奏曲の作風は私の二つの四重奏曲のものより優れており、格調が高く、それにどのような作品にも見いだし得ない純粋な絶対音楽の響きが備わっていると指摘してくれました。

私は、彼がこんな印象を持ってくれたことを、とても嬉しく思っています。

目下のところ私は、音楽という媒体を通じて、すべてを指向しようとするものだと考えているので、なおさら嬉しく思えるのです。

ロジェ=デュカスは、この作品が格調の高さと純粋さだけで後世に残るということに対しては、恐らく不満を感じることでしょう。
でもそんなことは私にとっては全くどうでもよいことなのです。

なぜなら、私は自らの音楽表現が万人に理解してもらえるなどとは、心底期待していないのですから。」
— ピアノ五重奏曲第1番の初演当日、フォーレが妻マリーに宛てた手紙

曲は試演時の約束どおり、イザイに献呈されました。

1907年、ニューヨークのシャーマー社から出版されました。






シューベルトが食べたかもしれないお菓子

2024-05-06 21:04:00 | ロマン派
3日は私は家でギターと合わせでしたが、夫と次男は和束町まで行っていたようです。

和束町ホームページより
和束町は「茶源郷」
宇治茶の里です。宇治茶の4割を生産しているそうです。

鎌倉時代に海住山寺にいた高僧「慈心上人」

が、茶業興隆の祖と言われる「栂ノ尾の明恵上人」から茶の種子の分与を受け、鷲峰山山麓

に栽培したのが始まりであると言われています。

また、天正年間(1573~1592年)には、和束郷原山の地に57アールほどの畑を開き、茶の実を蒔いたと言う記録が残されています。その当時は自家用に使われていたと言われています。

和束町原山の円形茶園
1700年中期からはお茶の栽培が増え、煎茶を専門にする農家が出始め、江戸時代中期からの茶保護施策により、和束茶業も一層発展し今日に至っています。
(和束町ホームページより)

ということで、

新茶の季節です。

茶団子は、煎茶、ほうじ茶、玄米茶味の3本。
もちろん、

バラして、刺しなおして三色団子にして

和束町の新茶と頂きました。

極楽、極楽…。

フランツ シューベルト(1797-1828年)神聖帝国オーストリア大公国リヒテンタール生まれ、オーストリア帝国ウィーン没
ヴィルヘルム・アウグスト・リーダーによって描かれたシューベルトの肖像画(1825年)
がウィーンで通ったというレストラン
Restaurant zu den drai Hacken
 
今も営業しています。

お茶というより、カフェでもあるので、当時大流行りしていたコーヒーを飲んでいたと思われます。

お菓子のメニューの1番目には

キャラメリゼしたウィーン風カイザーシュマーレン、ローストプラム添えと書いてあります。今のカイザーシュマーレンは凝っています。

もともとのウィーン伝統のお菓子カイザーシュマーレンは、薄いパンケーキで、小麦粉、卵、砂糖、塩、牛乳を混ぜ合わせた甘い生地をバターで焼いて作ります。

卵白と卵黄を分け、卵白を固くつのが立つまで泡立てから、小麦粉、砂糖と混ぜた卵黄、ラム酒に浸けた干しぶどうを入れます。

パンケーキを焼いて固まりかけたら引き裂いて小片にして、粉砂糖をふりかけ、アップルソースやプラムソース、またはスモモ、コケモモ、イチゴやリンゴといった果物のコンポートを添えて温製でだされます。

シューベルトも食べたかもしれない…と思ってここまで書いたら、新事実発見!

カイザーシュマーレンのカイザーは皇帝の意味で伝説によるとフランツヨーゼフ一世皇后エリーザベト
新婚の皇帝夫妻

エリーザベト
が太らないために低カロリーのデザートばかり食べるのを気にして作らせたのがカイザーシュマーレン。

エリーザベトはこの栄養豊富なデザートを見て、やはり食べるのを拒否。
怒った皇帝は「「即席」シュマーレンshmarrnで作ったのか?」と皮肉を言ったそうです。
が、結局のところこのデザートを気に入り2人分を食べたそう。
たがらカイザーシュマーレンと名がつけられたとか。
この話は本当かどうか?わかりません。

本当ならシューベルトは食べたことがないです。フランツ一世が生まれる2年前に亡くなったから。

シューベルトは、お料理を作るのが好きで、野菜くずと牛肉とうまく炊いて友達に振る舞ったりしたそうです。
美味しいけれど余り物で作ったのを恥じてかレシピを教えなかったそう。

きれいに焼いたパンケーキをわざわざちぎってグダグダにして作るシュマーレンはシューベルトに似合っているように思えて…。

ハンガリーでは庶民がお菓子としてではなく、食事の代わりに食べていたそうなので皇帝の話しは後付けのような気がします。
知らんけど😅💦

シューベルトが天国の女神よりも現世のラウラの微笑みの方が嬉しいと歌う曲を作っています。
カフェでシュマーレンを彼女とたべながらシューベルトも至福の時を味わっていたのかも。

歌詞はルートヴィヒ ヘルティ(1748-1776年)神聖ローマ帝国ハノーファー生没


「至福」
数え切れないほどの喜びが
天国の広間に咲いている!
天使や聖者もいると
神父さんは教えてくれた
ああ、そこへ行って
永遠の喜びを得たいものだ

天国の女神が
だれにでも微笑みかける
ハープがなって、
みな踊り、歌うんだ
ああ、そこに行って
永遠の喜びを得たいものだ

でも僕はこの地上にいる事にする
ラウラが僕に微笑みかければ
一度のまなざしで
僕の嘆きは消え去ってしまう
だから僕は彼女と幸せに
永遠にここにいるんだ




湖畔で生まれた曲

2024-05-05 21:01:00 | ロマン派
午前中レッスンをして午後から栗東の長男宅へ。

お昼を近所のスーパーで買い込んで行ってお昼ご飯を部屋で食べました。

その後、オトコ3人は琵琶湖で釣り。

私は部屋で練習。
近江富士が見えます。

夕方、
釣りから帰って来た3人。
「どうだった?釣れた?」
釣れました。

ブルーギル。
これはリリース禁止。
次男がさばいて
フライに。

これを野菜と

パンの上に乗せてタルタルソース

ブルーギルバーガー

野菜もこんもり。
カブの浅漬は、半分は冷蔵庫に入れて、明日からの長男の食料に。

ヨハネス ブラームス(1833-1897年)
自由ハンザ都市ハンブルク生まれ、オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン没

は、1872年に詩人のJ.V.ヴィートマンとチューリヒで知り合い長い交流が続きました。

ヴィートマンにブラームスは「トゥーンはいいところだよ」と言われて、1886(51歳)〜1888年(53歳)の夏の間、トゥーンに滞在することになりました。


オーヴァーホーエン城(スイス政府観光局)

トゥーンを紹介したヴィートマンは、近くのベルンに住んでいたため、ブラームスは週末になるとベルンへ赴いてヴィートマンの家に居たそうです。

トゥーン湖に面したニーゼン山に、ヴィートマンと一緒に登ったこともあります。

標高は2362m。

しかし1888年ここで滞在中に友人の訃報を耳にしたブラームスは、トゥーンへ足を運ぶことはなくなりました。

トゥーンで作曲された作品(1886〜1888年)
チェロ・ソナタ第2番 ヘ長調 作品99
ヴァイオリン・ソナタ第2番 イ長調 作品100
ピアノ三重奏曲第3番 ハ短調 作品101
ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲 イ短調 作品102
ヴァイオリン・ソナタ第3番 ニ短調 作品108

チェロソナタ 第2番ヘ長調 作品99



は、第1番完成から21年経過してからの2番です。
ヴィートマンがチェロを弾いたことからトゥーンで演奏する為に作曲されたのではないかと言われています。

ジャクリーヌ デュ プレとダニエル バレンボイムの演奏が残っていました。










パリ音楽院の教授

2024-05-04 21:00:00 | ロマン派
連休、うちはみんな暦通り。やっとお休み。
3日、ギターの川原久美子さんが合わせに来てくれました。

5月18日(土)堺市都市緑化センター
「緑のホールコンサート」に二人で出演します。
イベールの「間奏曲」ピアソラの「オブリビオン」「リベルタンゴ」を演奏します。
何度もやっているので慣れているはずですが、結構何か起こりがち、特に「オブリビオン」音符少ないから
油断しちゃうからかも…集中、集中!

今日のお菓子
6月30日西宮ギター練習会でやるジュリアーニの「協奏的大二重奏曲」op85第1.2.4楽章をします。
川原さんとは第1.2楽章は初めてなので、大体のテンポや方向だけ決めました。
真面目に練習した後は、くずはモールでランチ。
新装開店した五穀 
山里定食

豆乳汁を出してから温めてくれるのが新しく、ダシが効いていて美味しかったです。
五穀ご飯も!

チェロの有馬さんから5月6日に枚方市文化芸術センターで演奏するファランクのトリオ第1楽章と第2楽章の楽譜、先週決めたばかり…ファランクって誰?という始末。
しかもお休みなので明日は家族でどこか行くとか言ってるし…。
大丈夫か?

ルイーズ ファランク(1804-1875年)フランス パリ生没

彫刻家の父の元に生まれました。
幼い頃からセシル・ソリアにピアノを学び初めました。
イグナス・モシェレスやヨハン・ネポムク・フンメルなどの巨匠からレッスンを受け、才能を発揮し、1819年両親は彼女をピアニストにすることを決めました。

15歳、パリ音楽院の作曲教師アントン・ライヒャに作曲を学びます。

しかし、当時は女性が伝統的な作曲クラスに参加することが禁止されていたため、彼女は個人レッスンで学びました。

1821年、彼女は10歳年上のフルートの学生であったアリスティド・ファランクと結婚し、彼女はルイーズの家族が住んでいたソルボンヌ大学で定期的に開催されるコンサートの一部に出演しました。

結婚後、ファランクは学業を中断し、夫とともにフランス全土でコンサートを行いました。

しかし、夫はすぐにコンサート生活に飽き、彼女の援助でパリに出版社を設立し、エディション・ファランクとして40年近くフランスを代表する音楽出版社の一つとなりました。

パリでは、ファランクはライヒャのもとで学業に戻り、その後コンサート活動を再開しましたが、1826年に娘ヴィクトリーヌを出産したため一時中断しました。

1830 年代に、ファランクは演奏家としてかなりの名声を獲得し、その名声により 1842 年にはパリ音楽院のピアノ教授の常任職に任命されました。

ファレンクの肖像画 (1835 年) 作:ルイージ・ルビオ

彼女はこの職を30 年間にわたり務めました。

ファランクは、19 世紀を通じてパリ音楽院で尊敬される地位と階級を維持した唯一の女性でした。

当時の記述には、彼女が優れた指導者であり、多くの生徒が一等賞で卒業し、プロの音楽家になったことが記録されています。
それにもかかわらず、10年近くの間、男性の同僚よりも給料が低く抑えられていました。

有名なヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒムも参加した『ノネット』(九重奏曲)の初演が勝利を収めた後になって初めて、彼女は同一賃金を要求し、受け取るようになりました。

娘のヴィクトリーヌもコンサート・ピアニストとなりましたが、1859年に30歳で結核のため亡くなりました。

ファランクは教育と演奏のキャリアに加えて、古楽の演奏スタイルに関する影響力のある本「ピアニストの至宝」(Le Trésor des pianistes)を制作および編集し、 1861 年にアカデミー・デ・ボザールのシャルティエ賞を 2 度受賞しました。
1865年 夫のアリスティドが亡くなります。その後ファランクは作曲から遠ざかり1869年リで亡くなりした。

フルート、チェロ、ピアノのためのトリオ ホ短調 op. 45 (1862)

作曲家として、ファランクは多作で、交響曲からピアノ独奏の小品まで、さまざまなジャンルで作曲しました。

しかし、彼女の最も重要な成果はおそらく室内楽です。
1839 年から 1862 年にかけて、彼女はさまざまな楽器の組み合わせによる一連のソナタ、トリオ、五重奏曲、六重奏曲、およびノネットを完成させました。フルート、チェロ、ピアノのためのホ短調三重奏曲は、当時もその後も前例の少ないアンサンブルで、これが彼女が作曲した最後のアンサンブルでした。

やってみたらドラマティックでなかなかいい曲です。頑張ろうっと。



バラの名前になった詩人

2024-05-03 20:54:00 | ルネッサンス
うちのピエール・ド・ロンサールが咲いてきました。
バラのアーチ全体はまだもう少しなのですが。


ピエール・ド・ロンサール(1524-1585年)フランス王国ロワール=エ=シェール県ラ・ポワソニエール生まれ、


貴族の家で末っ子として生まれました。彼の一族はドナウ川の北のルーマニア一帯の出身でした。

12歳の時、パリのコレージュ・ド・ナヴァルへ送られました。
そこで王太子フランソワ

1518- 1536年18歳没
の小姓に列せられ、次いでその弟オルレアン公シャルル
1522-1545年23歳没
に仕えました。

マドレーヌ王女
1537年結婚しますが、結核でその年に16歳で亡くなりました。
がスコットランド王ジェームズ5世と結婚した時には、彼女に付き従い、その後3年間をスコットランドで過ごしました。

1540年にフランスに帰還すると、再びオルレアン公シャルルに仕えました。

この職で彼はフランドルに派遣され、それから改めてスコットランドに派遣されました。

その後、ジャン=アントワーヌ・ド・バイフ

1532-1589年プレイヤード派の詩人
の父ラザルの秘書となります。ジャン=アントワーヌは、ロンサールの友人でもあり、後には同じプレイヤード派(ギリシャ時代の文芸を規範とする詩人の一派)に加わることになります。

ロンサールの前途洋々たる外交的な職歴は、不治の難聴に見舞われたことにより、突然の中断を余儀なくされます。

そこで彼は、学問に生涯を捧げることを決意しました。

ロンサールの学び直しは7年に及びました。
そしてとうとう処女作『オード』四部集(1550年)を公刊しました。
1552年には、『恋愛詩集』と同時に『オード』第五部が出版されました。

これらの作品集は、フランス文学界に論争を巻き起こしました。

マロ派(クレマン・マロの影響を受けた一派)の首魁メラン・ド・サン=ジュレ
は、国王の前でロンサールの詩を詠み上げる時に、こき下ろす目的で滑稽に詠みました。

しかしある時、王妹マルグリット(後のサヴォイア公妃)

1523-1574年51歳没 フランソワ一世の子どもで唯一長生きしました。
が、メランの手から詩集を取り上げ、詩本来の素晴らしさを活かして詠み上げました。
詠み終わると、その詩に魅せられた大広間からは、割れんばかりの拍手喝采が沸き起こりました。

その栄光は急激でした。大衆におもねる必要も全くありませんでした。

1555年から1556年には、サヴォイア公妃マルグリットに捧げた『賛歌』を出版しました。

彼は1556年に『恋愛詩集』を完成させました。伝説では1560年にフランソワ2世

1544-1560年16歳没
と結婚したメアリー・スチュアート

1542-1567年スコットランド女王。1559年フランソワ2世と結婚。ダーンリー卿ヘンリー・ステュアートは2度目の夫で、後のイングランド国王ジェームズ1世の母。
の要請で全集を編纂し、1565年には、『フランス詩法の抜粋』と同時に『哀歌、仮面舞踏会、牧歌』を出版しました。

1560年前後にはフランス王は目まぐるしく替わりましたが、ロンサールの立場が悪くなることはありませんでした。フランソワ2世の後に即位したシャルル9世

1550-1574年24歳没
もロンサールに魅せられました。

シャルル9世の死後も、ロンサールの宮廷での厚遇に変化はなかったようです。

ロンサールは多くの友に先立たれ、自身の病気は悪化していましたが、エリザベス1世を含む外国の君主たちは、彼に贈り物をすることがありました。

病状にもかかわらず、ロンサールの創作はなおも優れた水準を保ち、晩年の作品のいずれをとっても傑作でした。
1585年12月27日、ロンサールはトゥールのサン=コーム教会に葬られました。

1545年「恋人よバラを見に行こう」は、カッサンドル サルヴィアティという女性に寄せた詩です。
彼女はイタリアの銀行家の娘で15歳、ロンサールが21歳の時の出会いでした。
恋は成就しませんでした。

オードは歌われることを前提にした詩で、リュートでジェハン シヤルダヴォイン(1538-1580年フランス王国アンジュー生まれ、没地不明)が曲をつけています。

「カッサンドルへのオード」より
恋人よ、見に行こう
けさ、あけぼのの陽をうけて
紅の衣をといた、ばらの花
今宵いま、赤い衣のその襞も
あなたに似た色つやも
色おとろえていないかと。

ああ、ごらん恋人よ、
何とはかない、バラの花 
大地にむくろをさらすとは!
おおつれない自然  
この花のいのちさえ、
あしたから、ゆうべとは。

だから恋人よ、
ぼくのことばを信じるならば、
水々し、花の盛りのその齢に
摘め、摘め、あなたの若さを、
この花ににて、じきにくる老年に
あなたの美しさも褪せるのだから。 
出典:平凡社 世界名詩集大成 
オード集 ロンサール(窪田般弥・高田勇訳)より


5月の曲

2024-05-02 21:00:00 | ロマン派
サプリ村野は枚方市の子育て支援課のある所で、子育てサポートの拠点の1つです。

車を使ったサポート時の保険に加入できることになったということで、お約束していたのが、気づいたら車がなかった…次男が乗っていってました。

言っとかなかった私が悪いのですが…。
初めて電車と歩きでいきました。
行きは迷って道を聞いたご婦人が、同じ方向ということで、近くまで付き添って下さいました。
親切な方で感謝です。

村野小学校をそのまま改装して使っています。

体育館では卓球の音が聞こえていました。
無事手続きを終えて、帰路に。
帰りは余裕で天の川の堤防を歩いて帰りました。


サンザシに
シャリンバイ



コメツブツメクサ

トベラ(トビラノキ)


そして侵略的外来植物ナヨクサフジ

完全侵略されてました。

ファニー メンデルスゾーン(1805-1847年)




彼女はピアニストでもあり有能な作曲家でもありましたが、父エイブラハムは娘に1820年に当てた手紙の中で、こんなことを書いています。

作曲は「あなたにとってそれは単なる飾りであってよく、そうすべきであり、決してあなたの存在や行動の基礎ではない」

弟のフェリックスもファニーの才能を認めていたものの彼女を社会的に応援することはありませんでした。

そんな彼女を変えたのは1829年ヴィルヘルム・ヘンゼル(1794-1861)との結婚でした。

彼は彼女の才能を認め、社会に出るように強く推し進めました。
サロンを開いてお客様を招いて演奏したり、コンサートを開き、曲を披露し、出版も勧めました。

二人目の子どもを流産した後には彼女をイタリア旅行に誘い、ローマで若い作曲家たちの出会いをはかり、刺激を受けたファニーは元気を取り戻し、帰国してから新しい曲作りに乗り出しています。

その中のピアノ曲集が「12の性格的小品」通称一年です。月々の名前のついた曲を作っています。

5月の曲「春の歌」

楽譜には一月ごとにヴィルヘルム ヘンゼルの挿絵がついています。


休日が始まった!

2024-05-01 21:00:00 | 古典
29日の夜はフルートアンサンブルレッスンでした。
今田さんのコンサートのあと、新大阪から淀屋橋に移動。
2時間くらいあるので、駅内のドトールコーヒーで紅茶ラテとシリアルバーを頂きながら、ベートーヴェンの第九をスマホで聞きながら、楽譜チェック。
72分あるので全部聴くことができました。

大江橋から中之島線に乗っても良かったのですが、今日は歩いて。

淀屋橋。
向こうに見えるのは日本銀行。


フェスティバルホール
肥後橋

歴史的建造物山内ビル。
兵庫県生まれの設計者、今北乙吉が手掛けた建造物です。



登録有形文化財だそうです。

サロン ド プリンシパル。
ゴールデンウィークの初日ということで大阪エスカルのメンバーに加えて、いつも神戸で練習しているメンバーが5人来てくれました。
いつもは無しで練習しているピッコロパートも今回はいて嬉しいです。
バスも厚め。
今回はドビュッシーの「小組曲」
こってり絞られました。

お休みのオフィスも多いのか、いつもより灯りが少なかったです。

ウォルフガング アマデウス モーツァルト(1756-1791年)神聖ローマ帝国ザルツブルク大司教領ザルツブルク生まれ、神聖ローマ帝国オーストリア大公国ウィーン没

の、K.561は「おやすみ!ホントのおバカさん」は、衝撃の歌詞がついています。

1788年32歳の9月2日にウィーンで作曲され、交響曲第41番「ジュピター」が完成したほぼ1か月後で、自作品目録にまとめて記載された10曲のカノンのひとつです。

詳しい作曲の動機は不明ですが、「俺の尻をなめろ」K.231と同じく、親しい友人たちといっしょに歌うために作曲されたと考えられています。

このカノンもスカトロジー的な言葉が目立つ作品で、ラテン語、イタリア語、フランス語、英語、ドイツ語の5つの言語の順に「お休みなさい」と言い、適当に語呂合わせの言葉(または文句)をくっつけ、最後はスカトロジックな言葉で締めくくるという作品です。

また青年時代のモーツァルトが書いた手紙の中にも同じような文言が見られ、モーツァルトが「お休み」という時には決まって「俺のケツをなめろ」という言葉つけていたのではないかと考えられています。

当時は貴族の間でスカトロジー(糞尿)が流行っていたそうですが、現代でもいますよね。
下ネタ好きな人。
おやすみにはリラックスしてもいいですが、羽目を外し過ぎてはだめですよ。言っても無駄か…。

「おやすみ!ホントのおバカさん」K.561
Bona Nox, bist a rechta Ox
Bona notte, liebe Lotte
Bonne nuit, pfui, pfui
Good night, good night
Heute muss ma no weit
Gute nacht, gute nacht
Schist ins Bett dass's kracht
Gute nacht
Schlaf fei gesund
Und reck'n Arsch zum Mund


お休み、ほんとのお馬鹿さん
お休み、ロッテちゃん
お休み、ぷい、ぷい
お休み、お休み
今日は逃げないで
お休み、お休み
ベッドにクソして、プリっといわせろ
お休み
ゆっくりお休み
ケツなめろ












今田聡美リサイタル

2024-04-30 21:00:00 | コンサート
4月29日は今田聡美さんのリサイタルてした。
ムラマツリサイタルホールでされました。

今田さんは伊藤公一セミナーで知り合ったセミナー仲間です。

素直で美しい音色は出会った頃から変わりません。
ピアノは造座千晴さん。

ゴーベールのロマンス。
一曲目というのに硬いところがなく、フレンチのキラキラした感じもあり素晴らしかった!

エラートの シンフォニッシユ カンツォーネ
コンクールの予選でよく使われる曲で、今田さんもこの曲で受けたことがあるそうです。
さすがによくこなれていて、素晴らしかったです。

今回はチェロ成川昭代さんも一緒です。

バッハのフルートソナタBWV1035は、ピアノもチェンバロに変えてチェロとの演奏でした。
優しい音色でフルートトラヴェルソのような感じに聞こえました。

ピアソラのタンゴエチュードから2曲。No.3No.4。
この優しい音色でどう演奏するのか?
興味がありましたが、どうしてなかなか、大人の雰囲気で、柔らかい良い意味で色気のあるピアソラでした。

タファネルのアンダンテ パストラルはゆっくりしたところはたっぷりと歌い、速いパッセージは丁寧で生き生きしてとても美しい演奏でした。

ムチンスキーは、今回のプログラムで一番現代に近い作曲家で、少し難解ですが、とてもお好きと言うことで、音色も近代に合わせて変化。
少し尖った感じで吹かれていて、幅広い表現力を感じました。

アンコールはチェロとピアノも出演して、ヴィヴァルディの「ごしきひわ」の第2楽章でした。最後にとっても癒やされました。

今回は曲を紹介したり、直接マイクで話しかけられるやり方でされました。
クラッシック音楽は、黙って出てきて黙って演奏して黙って帰るというスタイルが定番ですが、易しい解説などもあって、グッと客席と奏者の距離が近づいた感じでいいなと思いました。
話し方も親しみやすくて楽しかったです。

今田聡美さんのYouTubeチャンネル
さとみんチャンネル
肩のこらない楽しい曲を取り上げたり、アレンジ楽譜も売っています。

昨年3月のリサイタル最後の曲をアップされていました。

ベラ バルトーク(1881-1945年)ルーマニア スンニコラウ マレ生まれ、アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク没

は、音楽院を卒業してから後輩コダーイと共に各地の民謡や民族音楽を収集しその方面の研究に大きな足跡を残しています。

作品のなかにその素材を活用し、西欧的な音楽伝統に留まらない独自の音楽を築きました。

ポール アルマ編曲版は、彼が民族音楽を用いた一連のピアノ曲のなかで最も重要な曲集の一つである 「15のハンガリー農民歌」 を原曲としています。

ポール アルマ

(リスト音楽院で1920年から1924年にかけてバルトークの指導を受けたピアニスト、イムレ・ワイスハウス(1905 - 1987年)は、1933年以降はフランスに活動の拠点を移し「ポール・アルマ」の名前で現代音楽や、バルトークに影響された民俗音楽を基にした作品を書く作曲家としても活動しました。)による編曲は、原曲第6番のバラードを省略し、いくつかの曲でくり返しを付けたりフルート・パートに変奏させている他、曲の本質に触れる変更はしていません。

使用された原曲民謡(フルート版は6番は無い)
1.Rubato (Megkötöm lovamat - 私は馬を繋ぐ)

2.Andante (Kit virágot rózsám adott - 私のバラの花は誰に捧げたのか)

3.Poco rubato (Aj, meg kell a búzának érni -ああ、麦は熟したに違いない)

4.Andante (Kék nefelejcs ráhajlott a vállamra - 肩には青い忘れな草)

5.Scherzo. Allegro (Feleségem olyan tiszta - 私の妻はとても純粋です)

6.Ballade(Tema con variazioni). Andante - Poco adagio - Più andante - Maestoso (Angoli Borbála - アンゴリ・ボルバーラ)
ベーケーシュ県のヴェーステー(Vésztő)において収集された歌「アンゴリ・ボルバーラ(Angoli Borbála)」を変奏曲として扱いました。
歌詞の内容は、結婚前に恋人の子を身ごもった少女アンゴリ・ボルバーラが、それを恥とする母によって死に追いやられ、それを知らされた恋人も彼女を追って自殺するというもの。
バルトークは妻・マールタに宛てた手紙の一つにおいて特別な言及をしています。

「...7つのハンガリーの歌に和声を付け終えた。その中にはエクレシュ・ローザ(Ökrös Róza)の有名なアンゴリ・ボルバーラもある。是非、これを聞いて欲しい、というのも、こんなハンガリー語で、それに加えてアルフェルドのちょうど中心地で、そして更にそれに加えて、7/8の拍節で、本当の感動を聞く事ができるのだから...」(1917年の夏の終わりに。)

7.Allegro (Arra gyere, amőrre én - 私が行くところへ来てください)

8.Allegretto (Fölmentem a szilvafára - 梅の木に登った)

9.Allegretto (Erre kakas, erre tyúk - こっちの雄鶏、あっちの雌鶏)

10.L'istesso tempo(quasi trio) (Zöld erdőben a prücsök - コオロギの森)

11.Assai moderato (Nem vagy legény - あなたは独身じゃないから)

12.Allegretto (Beteg asszony, fáradt legény - 病める女、疲れる男)

13.Poco più vivo - Allegretto (Sári lovam a fakó - 私の馬サーリは色褪せた)

14.Allegro (Ësszegyűltek, ësszegyűltek az izsapi lányok - イズサップの女の子たちが、集まっている、集まっている)

15.Allegro 歌詞のない旋律。バグパイプによって演奏されました。




ピクルスの味

2024-04-29 21:27:00 | ロマン派
新緑の京都。
スカイラインがバッテリー上がってはいけないので、レッスンの後、母も誘って夫と次男と、私でドライブ。

実家は京田辺市、京都の南の端っこなので、そこから出発。

次男は脚が治ってないので、本当にドライブです。
八坂神社の前を通り抜けていきましたが、すごい人出。
どこにも停められずそのまま山へ
山道を行くと、ヤマツツジや野生の藤が満開でしたが、やはり停められない。
結局

八瀬花尻の土井のしば漬け本店。

しば漬けとお漬物を買って

裏山のせせらぎ

菜の花畑は紫蘇畑のお休み中のお仕事みたいです。

今日のお土産。キャベツ、紫蘇大根、生姜、玉ねぎのお玉はん。

お漬物というと、ヨーロッパではピクルス。

ジョアキーノ ロッシーニ(1792-1868年)教皇領生まれ、フランス帝国パリ没

1836年、44歳の時にイタリア北部のボローニャで引退生活に入りました。
以降は亡くなるまで、料理の創作やレストランの経営を行うという生活を送っていました。

しかし、作曲活動から一切手を引いたわけではなく、毎週土曜日に自宅サロンで演奏会を催しては、ピアノ曲を中心とした自作を披露していました。

そういった作品を集めて、ロッシーニ自身が編纂したものが『老いの過ち』という曲集です。

ピアノ曲だけでなく、声楽曲、室内楽曲など様々な作品が集められています。

「老いの過ち」の中の1つ
第4巻「4つのデザートと4つの前菜」

第4集: Quatre mendiants 4つのデザート

1. No. 1. Les figues seches 干しイチジク(ただいま - こんにちは奥様)

2. No. 2. Les amandes アーモンド(真夜中の音 - こんにちは奥様)

3. No. 3. Les raisins 干しブドウ(私の小さなインコへ)

4. No. 4. Les noisettes ヘーゼルナッツ(私の愛するニニへ)


第4集: Quatre hors d'oeuvres 4つのオードブル

5. No. 1. Les radis ラディッシュ

6. No. 2. Les anchois アンチョビ: 主題と変奏

7. No. 3. Les cornichons ピクルス: 序章

8. No. 4. Le beurre バター: 主題と変奏


「4つのデザートと前菜」より

No3序奏 ピクルス