電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

東北学院大『大学で学ぶ東北の歴史』を読む〜その4

2022年03月09日 06時01分31秒 | -ノンフィクション
高校時代の日本史は、理系で入試科目にないという理由もあって、黒船来航以後の明治〜昭和の近現代史が中心でしたので、近代以前の歴史は苦手にしております。戦国時代などは、大河ドラマ等の影響か、各地の大名等の動向もある程度は承知していますし、縄文時代や弥生時代についても、身近に遺跡の発掘調査を見た経験もあって興味をもっています。ところが中世となるとまるでダメ、楠正成は何時代かと言われても、はて? という具合(^o^)/ これではならじと、たまたま書店で見かけた東北学院大学の『大学で学ぶ東北の歴史』を購入し、少しずつノートに抜書しながら読んでいます。

中世の東北地方は、奥州平泉の藤原氏の台頭と繁栄から説き起こされます。奥州平泉の藤原氏の繁栄の基礎は、砂金とともに、朝廷が必要とした鷲の羽やアザラシの毛皮など北方交易の産物にありました。12世紀のこの頃は、気候も比較的安定し温暖だったのでしょうか、中央における平氏と源氏の争いが東北の地にも波及します。このあたりは、昔から義経・頼朝の確執とともに、よく見聞きしていたところです。1189年の奥州合戦は、頼朝 vs 藤原一族の戦いとして展開されたことは承知していましたが、頼朝側28万4000人に対し、平泉側は17万で迎え撃ったとのこと。この大規模な戦闘には驚かされます。おそらく、関係する地方領主ばかりではなく、都の貴族や役人たちにも武士の動員力は大きなインパクトを与えたことでしょう。それが、平泉藤原氏の奥州支配の実権を鎌倉幕府が奪取することを朝廷が承認したという背景にあったのではなかろうか。

もう一つ、北条氏の一族が関東から東北へ移り住んでいることが注目されます。これは、論功行賞の意味もあったかと思いますが、それまで奥州を支配していた人たちが北へ追いやられ、関東から東北南部に人々が移住する。大きな流れとしてはそういうことなのでしょう。

鎌倉幕府の弱体化により、奥羽北部に争乱が起こるとともに、京都の朝廷においても争いが起こり、鎌倉幕府は滅亡します。このへんの理由が今ひとつ不明瞭ですが、室町幕府が開かれても、奥州においては地域に根付き実効支配を行う有力領主に依拠するしかありません。しかも有力領主は南朝方・北朝方という都の勢力争いに結びつき、対立抗争を繰り返します。このあたりについて、本書は

南北朝時代の奥羽両国に関する古文書数を調べてみると、この宇津峰合戦(1353)を境に、大きく減少することが注目される(1333年から1353年までが約1070点、1354年から1392年までが約470点)。これは、軍忠状や着到状、恩賞を受ける手続き文書など戦争に関する資料が減るためであり、奥羽両国における大規模な戦乱は、宇津峰合戦を最後に終わりを告げたといえるだろう。(p.85〜6)

としています。この14世紀の奥羽戦乱の背景には、荘園などの土地支配の変質が大きいと考えられているようですが、もしかすると気候変動による天候不順のため、農作物の不作や貢納負担に対する不満などが背景にあったのではないか。たしかに、戦乱を領主の賢愚やわがままに帰するのは、あまりに小児的と言って良いのだろうと思います。



やっぱり、基礎がないのでなかなかハードです。よくわからない分野については子供向けの本(入門書)を読むかNHK の高校講座を聴取するという手があります。NHK の高校講座「日本史」で中世、とくに荘園のあたりの解説を聞いてみるのが良いのかもしれません。

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