「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

沖縄県浜比嘉島 「 比嘉グスク 」

2013-10-13 05:32:50 | グスク ( 城 ) ・ 遺跡



グスク頂部の拝所には 「 千年貝 」 が祀られている








わずかに残る石垣







グスク頂部は公園として整備されている







比嘉集落からグスクへと続く階段







グスクの入り口にある看板







グスクからアマミチューの墓があるアマジン島が見える





比嘉グスクは、沖縄中部地方の東に位置する浜比嘉島にあり、標高44mの独立丘にある。
別名を 「 アガリグスク 」 とも呼ばれ、グスク北側に城門があり、
南側にある階段を百余段登ると、頂上の一の郭に至る。
グスクの築城者は不明だが、築城年代は13世紀ごろだと考えられる。
比嘉グスクには、これといった伝説もないが、一の郭の東側の御嶽には千年貝が祀られている。
グスク自体は市の農村総合整備モデル事業の一環として公園化され、
わずかに残った野面積みの石垣があるが、昔の面影すら残していない。

また、浜比嘉島の兼久集落の南に 「 シルミチュー洞 」 があり、
沖縄開闢 ( かいびゃく ) の祖神アマミクは、久場 ( クバ ) 島を足がかりにして浜比嘉島に上陸し、
シルミチュー洞に住居し、死してアマンジ ( アマミチューの墓 ) に葬られたと伝えられている。

比嘉グスクへのアクセス
比嘉グスクへは、与勝半島から海中道路を通り、平安座島から右に行き、
浜比嘉大橋を渡って浜比嘉島に入り、左へ進むと比嘉集落の右側の丘陵上にある。
駐車は、比嘉公園上り口の階段の下に4、5台の駐車スペースがあるのでそこに駐車できる。



福岡県みやこ町豊津 ・  鶴田知也の 『 椎の木の家 』  と文学碑

2013-10-13 05:32:02 | 文学・文化・映画作品



『 椎の木の家 』 のモデルとなった 「 鶴田の実家 」








八景山の中腹にある 「 鶴田知也文学碑 」









「 椎の木の家 」 のモデルとなった鶴田知也の実家







八景山にある鶴田知也の文学碑





鶴田知也は、明治35(1902)年2月19日、福岡県小倉市大阪町(現在の小倉北区)に
高橋虎太郎、アサの三男として生まれる。
明治42 ( 1909 ) 年、鶴田和彦・ミヨの養子となり鶴田姓になった。
養父の転勤のたび小倉市、直方市、田川市、大分市の各小学校を転校。
夏・冬休みには豊津に帰省する。

 大正4 ( 1915 ) 年3月、豊津尋常小学校を卒業、
同年4月、豊津中学校 ( 現・育徳館高等学校 ) に入学する。

 北海道山越郡八雲村 ( 現八雲町 ) 出身の真野万穣の紹介で八雲を訪ね、
徳川牧場技術指導員らと親交を結び、
農夫、職工、馬車引きなどしながら同地に半年間滞在。
北海道農業、特に酪農業に興味を抱き、ロシア文学を読み漁る。

 昭和2(1927)年、葉山嘉樹に誘われ上京。 「 文芸戦線 」 に加わり、
プロレタリア作家としてデビュー、
アイヌの悲劇を叙事詩風に構成した 「 コシャマイン記 」 により、各選考委員の絶賛を得て、
昭和11(1936)年、第3回芥川賞を受賞した。

 戦後は、社会主義文学クラブや日本農民文学会に参加。
戦時下の疎開先であった秋田を舞台とする未来志向の陽性な農民文学を描いた。

 昭和30(1955)年には、児童文学 「 ハッタラはわが故郷 」 で小学館第4回児童文化賞を受賞。
しかし、次第に文学の世界から遠ざかり、農業共同化の推進や農村文化運動など、
晩年は、もっぱら農業問題の専門家、指導者として過ごした。

 実弟の福田新生は日展審査員の画家、
高橋信夫は音楽家とそれぞれ兄弟は芸術的才能に恵まれていた。


豊津関連郷土作品の代表作

★『椎の木の家』・・・・豊津の実家を描きこんだ作品。
★『わが悪霊』・・・・まばゆい芸術的才能をもった先輩が豊津に帰郷し、
旧制中学生たちを魅了する物語。
★『僕達と志摩氏』・・・豊津中学校の同窓生である僕達3人と豊津に帰郷して
 隠遁生活を送るクリスチャンの志摩氏との交流を描いた作品。




「 沖永良部民謡 」

2013-10-13 05:30:36 | 音楽 ・ 映画







このCDは、「 おきえらぶ フローラホテル 」 で買ったもので、
奄美や沖縄の音楽は耳にすることはあるが、
沖永良部の曲はほとんど聴くことがない。
それだけに興味を持っていた。

沖縄の古謝美佐子や与那覇 徹などのアルバムに挿入されているのを聴いたことがあるが、
こうして全て沖永良部の曲を聴くのは初めてであった。
やや沖縄寄りだが、それは琉球でも奄美でもない、沖永良部独自の唄であった。

沖永良部の島酒を飲みながら聴くと国頭のフーチャーやヤクニヤ岬の海が浮かんで来る。