ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

秋の日は

2017-10-17 | アメリカ事情

秋、秋、と私ひとりが騒いでも、そして確かに朝夕の空気は冷たくパリッとしているけれど、まだここでは夏時間。11月6日にやっと夏時間が終わってくれる。今日この頃の日の出は、7時過ぎである。朝が本当に暗い。ドライブウェイに朝刊を取りに行く時も薄暗く、お月様がてっぺんに輝いてたりする。そしてやっと出勤時にお日様が出てくる。

ああ、そういえば、別の州にある大学へ行っていた時、冬場は7時過ぎでも暗く、シャワーを出てドライヤーをかけても、長かった髪が乾ききれずに、7時過ぎの最初のクラスへ、キャンパスへ飛び出していったものだ。7時過ぎでもまだ暗く、凍れる冬の朝だった。

教室に着く頃には髪がすこしパリンと凍ってたような。冬のそんな私を級友のM君が、短歌に詠んだりしたんだった。大学時代、私はいつもばたばたしていたような気がする。永住権故にドメスティック学生だった私とて、世間一般の留学生並みに、とにかく勉強、勉強だったのだ。授業に遅れてはならない、他の学生に劣れをとってはならないと、必死だったのかもしれない。

5人の白人ルームメイトがいて、そのうちの2人と私は、炊事を共同で行った。やがて一人のルームメイトの兄のアパートのルームメイト達、確か7,8人の男子学生が、加わり、私達3人の女子学生とで、毎晩交代で食事を作り、食べ、後片付けをしたのだ。まあ、にぎやかだったこと。以前も書いたが、私は男性と食事をすることが非常に苦手だったので、なるたけルームメイトと隣同士になるようにしていた。食事以外では、平気なのに、実に不都合なことだった。

その大学の規範では、当時も今も、男女別々に、寮、アパート、家が決まっていて、その区別は完全にきっちりとしている。異性が泊り込むだの、11時過ぎまで長居をするなどは、ない。大学へ子女を送りこむ両親や保護者にとって、その厳しさは、おそらく大きな安心であったろう。6人も女子が住む家だったので、私は大抵学校の図書館へ勉強しに行った。閉館時間近くに、律儀に迎えに来る男子学生友達も幾人かいて、でも彼らは私のboy friendsではなく、私の friends who are boysであった。

 

https://theboard.byu.edu/media/attached_files/r_104004/Tasty%20Little%20American.JPG

かつての私を見るよう。


https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/de/HBLL_periodicals.JPG


上の写真のような所で閉館まで頑張って勉学に励んでいた私であった。後に夫となる彼ともここでよく勉強した。

こうした勉強場所(上)の他に下の写真のように、グループスタディの部屋もたくさんあって、同じクラスを取る学生同士が、デートではなく、一緒に勉強するためである。難しいクラスは、グループスタディで勉強するとかなり理解を深められ、それはテストに反映できる。


この大学は1875年10月16日に創立された、西部ではまあ古いほうの大学で、蔦の絡まる校舎はなくとも、夫と私の大事なアルマ・マター(母校)である。ここのキャフェテリアは現在は外部委託方式になって、かつてのキッチンのおばさんがたは、居ない。よって北国の凍れる日々には、暖かいマカロニ&チーズや熱いクラムチャウダーが、救いだったのに、それもなくなった。どこにでも見るサンドウィッチショップやタコベルなどになったが、それでもまだこの学校の名物と言っていいgrasshopper brownie(mint brownie)は、未だキャフェテリアのひとコーナーとブックストアで売られている。よかった!

愛しのgrasshopper brownie!  Mmmmmmm!! 

https://i.pinimg.com/736x/45/89/49/458949141cb9482641d582a025a68256--chocolate-mint-brownies-chocolate-mints.jpg

 

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