雪と先輩は、暗い夜道を互いに口を噤んだまま並んで歩いた。
しかしだんだんと、二人の距離が開いていく。
先ほどからずっと先輩は黙ったままだ。
チラとその横顔を窺うと、先輩は何かを考え込んでいるような険しい表情をしている。
雪は無意識とはいえ、それまでの温かい空気を壊してしまったことに自責の念を感じ、俯いた。
「去年」
不意に発せられた先輩の一言に、雪は目を見開いた。
顔を上げると、先輩の背中が見える。彼は振り返ることなく言葉を続けた。
「確かに去年は、自分がこんな行動に出るとは思いもしなかったよ。
だけど実は今も、完全に理解してるわけじゃない」
彼は厳しい表情を変えること無く、その淡々とした口調も変えること無く言葉を続けた。
「雪ちゃんの目に映る俺が、去年と違うってことも分かってる」
二人は、互いに悪感情を感じていた去年を思い出していた。
彼らは背中合わせの対と対。
決して振り返ることは無かった。
今年になるまで、淳が雪を振り返るまでは。
「それを雪ちゃんが変に思うのも無理はないと思う。だけど、それももう一年前のことだよね。
それは既に過ぎ去った、過去に過ぎないよ」
彼はそれまで背中を向けていた。
しかしその言葉を境に、雪のほうへ向き直る。
先ほどの厳しかった表情に、多少の憂いが滲んでいる。
「なのに雪ちゃんは、未だにそんな書類一枚に身を竦める」
雪は目を見開いた。
先輩から次々と言及される去年の忌むべき記憶。
頭を整理しようとしても、ついていかなかった。
二人は暫し互いに向き合ったまま静かに佇んでいたが、
やがて淳の方から雪に向かって、手を伸ばした。
ぎゅっとその手を握る。
雪はハッと息を呑んだ。
淳は雪の手を握りながら、静かに言葉を紡ぎ始める。
「雪ちゃんの邪魔にならないように努力して、何か手伝えることはないか、
解決してやれることはないかって、いくら手を差し伸べたところで」
「結局、去年と何も変わらない」
彼は目を伏せて、その憂いを帯びた瞳でじっと雪のことを見ていた。
雪は先輩から紡がれる言葉を受け止めるのに精一杯で、彼の秘めたる思いにまで気が回らない。
淳は握った手を見つめながら、静かに言葉を続けた。
「俺は雪ちゃんと、去年とは別の付き合いがしたいのに、一向に答えが見えない」
何も変わらない、答えが見えない、と淡々と嘆く彼の言葉に雪は顔を上げ、言葉を返そうとした。
「でも私は去年‥!」
しかしそれにかぶせるように、彼は幾分強い口調で言った。
「俺は、」
そしてなおさら強く、雪の手を握った。
「胸に秘めてきた言葉より、これからの言葉が聞きたい」
「‥‥‥‥」
「雪ちゃん」
「俺と付き合わない?」
暗い夜道は静けさに沈んでいた。
世界は何一つ変わっていない。変わっていないのに、雪と淳の間には今確かに、新しい何かが生まれていた。
握り合う手の中に、見つめ合う瞳の中に、まだ形作るのにはあまりにも未熟なそれが、産声を上げていた。
雪は何が起こったのかまるで理解出来ずに、ただその目を丸くした。
ポカンと口を開け、瞬きも忘れてその場で固まった。
そんな雪の表情を見て、淳は幾分困ったように眉を寄せる。
「何て顔してんの。もう分かってただろう?」
当然のようにそう言う先輩に、雪は狼狽した。
そして又当然のように告白の返事を求められ、雪は思わず下を向いた。汗が止まらない。
「あの‥私にも考える時間を‥」
そう言った雪に先輩は、尚も返事を急いだ。
「受け入れられない?」
雪は戸惑い、たどたどしいながらも今の自分の気持ちを口に出す。
「‥わ、私は‥大学に入ってから彼氏とか考えたことなくって‥
そういう余裕も無いし‥その‥」
とにかく様々な理由はあれど、今は動揺してしまってちゃんと考えられないと雪は説明した。
しかしそんな雪の言葉を聞いて、先輩は静かに口を開いた。
「分かったよ」
先輩が若干屈めていた背を正す。
そして、握った手の力を弱めた。
雪はその手の行方を追った。
するとゆっくりと静かに、彼の手が離れていく。
心の中が大きくざわめいた。
離れていく彼の手を見て、言いようのない寂しさに襲われた。
暗く孤独な闇が、胸の中にじわじわと広がっていく‥。
次の瞬間、考えるより早く身体が動いていた。
「ま、待って下さい‥!」
ガシッと音が聞こえるくらい、雪は淳の手を強く掴んだ。
淳が予想外の彼女の行動に目を見開く。雪は感情のままに、手に力を込めた。
「先輩が嫌いとかじゃなくって‥!そうじゃなくって‥!その‥」
そうは言ったものの、何と続けて良いのか分からない。
俯いて言葉に詰まった雪に、淳は「じゃあ付き合おうよ」と言って微笑んだ。
「な?問題無いと思うけど」と言葉を続ける先輩に、雪は赤面してモゴモゴと口ごもった。
先輩がまた雪の手を強く握り返してくる。
「俺、雪ちゃんの勉強の邪魔にならないようにするから」
雪の脳内パニックメーターが、今にも振り切れようとしていた。
なんとか言葉を紡ごうとするが、思考回路がつながらない。
「な?」
先輩が微笑みかけてくる。早く返事をしなければならない。自分の気持ち、先輩の気持ち、大学生活、これからのこと‥。
雪は全てのファクターが頭の中に雪崩れ込んでくるのを感じた。
そして様々なそれらが思考回路をショートさせメーターが振り切れたら、シンプルな答えが雪の口から出た。
「はい‥‥」
そして暫しの間、二人の間に沈黙が落ちた。
雪はおそるおそる、顔を上げた。
先輩がどんな表情をしているのかと思いながら。
先輩は微笑んでいた。
そして雪と目が合うと、ニッコリと笑ってこう言った。
「そっか」
その笑顔は、凍てついた先ほどの空気を溶かすほど眩しかった。
その後言われた「ああ、良かった」と安堵したような彼の言葉にも、雪は赤面した。
先輩はすぐそこにある雪のアパートを見やって、口を開いた。
「今日はもう遅いから、これで失礼するね」
雪は自分でも知らぬ間に、先輩の手を強く握りしめていたようだ。
彼が丁寧にその手を解くと、雪はやはり心にポッカリと穴が空いたような気分になった。
けれど先輩は雪に向かって笑いかけ、疲れただろうから早く上がって休むといいと言って彼女を気遣った。
「後でメールする」
そう言ってゆっくりと帰路を歩き出した先輩に、
雪は「送って頂いてありがとうございました」と声を掛けた。先輩が笑って手を振る‥。
「‥‥‥‥」
先輩の小さくなっていく後ろ姿を見送りながら、雪はぼんやりと佇んでいた。
なんだか夢だったみたいだ。
色々なことが起こりすぎて、未だ脳の末端まで情報がいきわたっていない。
雪はそのままアパートの階段を昇ると、鍵を開けて部屋の中に入った。
靴を脱ぎ、電気を点ける。
肩に背負っていたカバンを床に置くと、書類の束がガサッと音を立てた。
見慣れた自分の部屋に帰ってきて、いつもの行動をしてみると、脳がようやく動き始めた。
ようやく事態を把握した雪は、みるみる顔面蒼白になっていった。
うわあああああああああっ?!
パニックな雪が思わず絶叫すると、我知らず隣の秀紀は驚きのあまり飲みかけの缶を取り落とした。
雪は思わずうずくまり、頭を抱えた。
先ほどの出来事が、脳裏にフラッシュバックする。
私ってば何やってんの?!なんつーことを!!!
いつかはこうなるって分かってはいたけど‥でも‥でも‥
脳内グルグル状態の雪は、髪の毛をグシャグシャしながら考えを巡らせていた。
隣の部屋から壁を叩く音が聞こえ、雪のことを心配している秀紀の声がしていたが、雪はそれどころじゃなく、
また絶叫した。
今度は秀紀の怒鳴る声がしているが、やはり雪はそれどころじゃない。
その日は夜遅くまで、秀紀は情緒不安定な雪に付き合わされることになった‥。
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<告白>でした。
遂に!二人が付き合い始めました~!
‥と手放しに喜ぶような告白ではありませんが、ひとまず二人の関係に一区切りですね。
さて次回は<密会>です。おそらく大半の方がツマラナイと思うだろうな、というメンバーの密会です。。
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