Trapped in me.

韓国漫画「Cheese in the trap」の解釈ブログです。
*ネタバレ含みます&二次使用と転載禁止*

憎らしく愛らしい

2013-09-28 01:00:00 | 雪3年2部(遠藤に反撃~小さなデート)
雪と先輩は雑貨店を出ると、連れ立って道を歩いた。



少し俯きがちな雪に、先輩は「伊吹と何かあったの?」と聞く。

誕生日でもないのにプレゼントを探す雪に、先輩も何かと気を揉んでいたのだろう。



雪は先日聡美と喧嘩した旨を話した。

「どうして?」と更に詳しく聞いてくる先輩に、頭を掻きながら説明する。

「私がいけないんです。なのにウヤムヤにしたまま何も出来なくて‥

でも考えてみたらやっぱりそれじゃダメだと思って」




ぎこちない今の関係を変えるために、知らず知らずの内に引いていた線を越えるために、雪は自分を変えようと思った。

それは小さな一歩だったが、雪にとっては大きな決心だ。

「そっか。仲直り出来るといいな」



先輩の言葉に、雪は照れ笑いをした。

言葉を続けようとした矢先、あるものに目が留まる。

「あっ!」



雪は思わずその屋台に駆け寄った。

「ポンテギだ!」



雪のテンションが上がる。

なぜなら近頃では屋台でやっている所は少なく、なかなかお目にかかれないからだ。

雪は先輩の返答も待たず、屋台に寄りポンテギを1カップ買った。

「わぁ、これ食べるのすっごく久しぶり!」



雪の手にはなみなみと盛られたポンテギのカップが握られていた。

ポンテギは雪にとっては大好物というよりも、思い出の食べ物なのだ。

「小さい頃弟と一緒に、公園に行く途中とかよく食べたんですよ」



思い出の中に、小さい雪と蓮が手を繋ぎ「ポンテギ♪ポンテギ♪ポンポン♪テギテギ♪」と歌いながら歩いた場面が浮かぶ。

楽しかった思い出と共に、その食べ物は雪の頭の中に優しい記憶として残っている。

懐かしさに促されて思わず買ってしまったと雪は先輩を笑顔で仰ぎ見たのだが、

先輩は浮かない顔で「そっか‥」と言った。



ん?



先輩の反応がどこかおかしい。

育ちの良い先輩のことなので、もしや食べたことがないんじゃないかと雪はそう聞いてみた。

すると先輩は言葉を濁しながら、「あるっちゃ‥あるけど‥」と小さく答える。



淳の脳裏には、苦い記憶の一場面が浮かぶ。

昔河村姉弟に「食ってみろ食ってみろ」と無理矢理食べさせられた思い出が頭を掠める‥。


そのまま視線を逸らしたままの先輩を見て、

雪は「あ‥食べれないんですね‥」と残念そうな視線を送った。



すると先輩は弱々しい微笑みを浮かべながら、

「いや‥ただそこまで好きじゃないというか‥」と最大限の表現のぼかしをした。



二人の間に沈黙が流れ、ふいに先輩がポンテギから背を向けた。

  

雪がそれを差し出すと、先輩がビクッと身を震わせる。



依然としてポンテギからは視線を外したままだ。



雪はそんな先輩を見て、そういうことかと口元を緩ませた。



弱点である。

これは希少な青田淳の弱点なのである。

雪は心を決めると、上目遣いで先輩に近寄った。

「先輩‥一口くらい食べてみて下さいよ。昔食べた時とは味が変わってるかもしれませんし」



そんな雪を前にして、先輩は幾分慌てた。

そうかもしれないけど、と口ごもりながら言うものの、躊躇いは隠せない。

雪は視線を落とすと、残念そうを通り越して哀しげに言った。

「先輩にあげようと思って買ったのに‥どうしようかな‥」



淳は青ざめた。

もう残された選択肢は、一つしか無かった‥。













ポンテギを食べた後の先輩は、口元を抑えたまま動かなくなってしまった。

雪はそんな彼の横顔を眺めながら、少しやり過ぎたかも‥と様子を窺っている。



まさかここまで苦手だとは思わなかった。

雪はなんだか彼が可哀想になるも、このチャンスは見過ごせないと思う自分もいた。

私だって一度くらい仕返し、もといからかってやりたいと常日頃思っていたのだ。

しかも、俯いてしょげている先輩は思いのほか可愛らしい感じもした‥。



その後話しかけても首を横に振るだけで俯きっぱなしの先輩を見て、雪は頭を掻いてみせた。

「私‥ちょっとふざけ過ぎたみたいですね‥すみません‥」



先輩は雪にスネたような視線を送ってから、「いやいや、大丈夫‥」とようやく口を開いた。



(その後先輩は「でももう二度と食べないから」とスネた口調で宣言し、躊躇いながら雪はそれに了承した。)










いつの間にか陽は傾いて、空には綺麗な夕焼けが広がっていた。

そろそろ帰りましょうかという話になり、雪は笑顔で先輩にお礼を言った。

「あの、今日はありがとうございました。一緒に買物付き合ってもらっちゃって」



笑顔の雪に、機嫌の直った先輩もニッコリと言葉を返す。

「え?ううん。伊吹、喜ぶといいな」



そう言われて、雪は先輩もプレゼントを買っていたことを思い出した。

微妙な気持ちのまま、雪は口を開く。

「はい、先輩も‥プレゼント喜んでもらえるといいですね‥」



先輩は雪からそう言われて、何か考えるように天を仰いだ。



そしてカバンから紙袋を取り出すと、雪に向かってそれを差し出す。

「どうぞ」



雪は先ほど先輩が買っていたそれを見て、目を丸くした。

「え?これって‥」そう尋ねた雪に、



先輩は「プレゼント」と言って微笑んだ。

雪はにわかには信じられなくて、何度も貰っていいんですかと先輩に尋ねた。



先輩はもともと、雪にあげるために買ったんだと言った。

「憎らしいからあげるのやめようかとも思ったけど、あげる」



まだポンテギの恨みが残っている先輩はちょっとスネて見せた。

しかしそんなことよりも雪は、先輩が自分にプレゼントをくれたことが信じられなかった。

どうして私なんかに、と尚も追及しかけたが、雪は口を噤んだ。



これ以上聞くのは、野暮というものだ。

「あ‥ありがとうございます」



雪の笑顔を見て、先輩はニッコリと微笑んだ。



そのまま二人は別れの挨拶を交わして、先輩は去って行った。

雪は小さくなっていく先輩の後ろ姿を見送った。



両手でプレゼントを大事そうに抱えながら。




さっきまで微妙だった心が、なんだか軽くなった。

それがどういう意味なのかまだ彼女は知らないが、自然と口元には笑みがこぼれていた。











その夜。

お風呂あがりの雪は、紙袋を両手に持って座っていた。



何が入っているんだろう。

先輩から貰ったその袋を、雪はワクワクしながら開けた。

「まさかあの得体の知れない人形じゃないでしょうね‥」



自分に似てると言われたあの人形‥なワケ‥



あった‥。




‥それでもプレゼントはプレゼントだ‥。感謝しなきゃね‥。



すると紙袋の中に、もう一つ何か入っているのに気がついた。

「まだ何か入って‥」



手のひらにコロンと落ちてきたのは、あのヘアクリップだった。



雪は思わず「うわっ!」と声を出した。

欲しかったけど金欠で買えなかったあのヘアクリップである。雪は嬉しさのあまりそれを握り締めた。



でも気に掛かることがあった。

頭に浮かんできたのは、このヘアクリップの値段である。

すごく嬉しいけど‥これ4000円じゃなかったっけ?



あの人形はまだしも、4000円の物を気軽にもらうことは躊躇われた。決して安くはない金額だ。

思い返してみれば、先輩にご飯もまだご馳走出来ていない。

これらを貰ったからには、私も何かプレゼントした方がいいのか‥?



考えても答えが出なくて、雪は布団に潜り込んだ。

うーん‥もらったからってお返ししたんじゃ、逆に気を遣わせちゃうかなぁ‥



どうしよう‥。

そう考えながら雪は、いつの間にか眠りの中に吸い込まれて行った。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

<憎らしく愛らしい>でした。

今回はあれが出て来ましたね‥そう、ポンテギです。



wikiによると、ポンテギとは‥カイコの蛹を茹で、または蒸して味付けした韓国料理のおつまみ、だそうです。

大体カップ一杯で1000ウォン前後(日本円でいうと90~100円前後)ですって。これなら金欠の雪でも大丈夫ですね!

食べたことある方、いらっしゃいますでしょうか?また感想等お聞かせ下さいね!

しかし日本語版訳の「おでん」‥苦渋の決断だったと思いますが、ちょっと無理があるなぁ。。


次回は<彼らは塾に居る>です。


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小さなデート

2013-09-27 01:00:00 | 雪3年2部(遠藤に反撃~小さなデート)
まだ陽が高い時刻だが、事務員さん達はもう仕事を退けて事務室を出る所だった。

今日は職員さん達全体の親睦会があるようだ。



雪は品川さんと木口さんの背中に声を掛けると、プリントを取り出した。

「友達にプレゼントをあげようと思うんですけど」と、雪は彼女らに相談した。



明日の夕方、聡美と会う約束をしている。

雪は自分の前に引いている線を飛び越えるために、聡美にプレゼントをしようと考えたのだ。

「この中で何がいいですかね?」



プリントには、プレゼント候補の物品リストがズラズラと並んでいた。

三人でそれを見ながら、徐々に候補を絞っていく。

結局無難にアクセサリーはどうかという話になり、品川さんが学校の前のお店がオススメだと雪に教えてくれた。



遠藤はその間、腕組みをしながら思いに耽っていた。

目の前にはあの男の姿がある。



青田淳‥。

遠藤の脳裏に、先日発覚した事実が浮かび上がった。

‥青田のレポートが無くなったせいで、奨学金を貰ったのが、お前だと?



遠藤の質問に、彼女は小さく肯定した。

レポート紛失、奨学金、噂の二人、そして夏休みのアルバイト‥。

パズルのピースが合わさっていくように青田淳の思惑は浮かび上がり、

今彼がここに座っている現実へと繋がっていく。



不意に視線を感じたのか、遠藤と淳は目が合った。

戸惑いながら視線を外した遠藤に、淳は不思議そうな顔をした。



そのまま品川さんたちに合流する遠藤とすれ違った雪は、その苦虫を噛み潰したような表情に疑問符を浮かべたが、

特に気にすること無く自分の席に戻った。

「あ、先輩今日は早めに上がっていいみたいですよ」 

「そう?雪ちゃん正門の方行くんだよね?」



「はい。でも今日は友達のプレゼント買う用があってお先に‥」

そう言った雪の方を見て、先輩はニッコリと微笑んだ。

「そうなの?俺もプレゼント買う用があるんだ。一緒に行こ!」 「え?」



戸惑う雪を気にすること無く、先輩は彼女にカバンを渡すと、自分もリュックを背負って立ち上がった。

二人が一緒に居る風景は、事務室でもいつの間にか見慣れたそれになっており、品川さんたちがそれを微笑ましそうに見つめていた。









大学の前には様々な店が軒を連ねており、特にここの雑貨店は女学生達に人気のお店だった。



雪は口元に手を置きながら、聡美へのプレゼントについて思いを巡らせていた。

何がいいかなぁ‥聡美の好み‥可愛いながらも子供っぽく無く、ありふれてもないもの‥。



雪の目は獲物を狙う鷹のように鋭い。今彼女を見た者は背景に切り立った岩山が見えることだろう。


しばらく考えに耽っていた雪だが、ふと顔を上げると先輩の姿が目に入った。

キョロキョロと辺りを見回しながら、珍しそうに女の子の物を見て回っている。



女性客ばかりのこの店では、彼がここにいる風景はどう見ても珍妙な感じがした。

しかもそのスタイルと容貌が、女子達の目を留めて皆頬を染めて振り返って行く。



雪は苦笑いを浮かべながら、先輩の方へ駆け寄った。

「すみません、退屈ですよね?女の子のプレゼント探しなんて‥」



そう彼を気遣った雪に、先輩はキョトンとした顔で否定した。

色々見物出来るから、と言って口笛まで吹き始めた。

「俺も買おっと。女の子のプレゼント」  



雪はその言葉を聞いて、先輩も聡美にプレゼントを贈るのかと考えてみたが、すぐにそれは違うと思い直した。

では誰にあげるんだろう?

知り合いとかかな?親戚とか?彼女は居ないって言ってたし



雪の脳裏に、度々女性と電話していた先輩の姿が思い浮かんだ。

  

あの時の電話先の女の人にあげるのだろうか‥?

そう考えた雪だったが、すぐに自分の気持ちを切り替えた。

あーもう誰でもいいじゃん!何気にしてんの‥!



雪は敢えてもう考えないようにして、再び聡美のプレゼント選びに専念した。





また鷹の目で色々見て回っていた雪のところに、不意に先輩がやって来て言った。

「雪ちゃん、これなんかどうかな?」 「え?聡美にですか?」 「うん」



先輩が持って来たそのボンボンは、どう見ても聡美の好みでは無さそうだった。

雪は正直にそう言うと、先輩は「じゃあこれは?」とうさぎの形をした鏡を差し出した。

「ちょっと留め具が不安定ですね。すぐに壊れそうです」 「ええ?」



さすが鷹の目の雪である。

それに比べておそらく初めてこういったお店に来た先輩は、いまいちピントがズレていた。

ありがちなちゃちな製品をマジマジと見ながら、「ここは製品管理がなってないのか?」と至極真面目に考えていて、

少し笑えた。





色々見て回った結果、鷹の目の雪は、遂にプレゼントをピアスにすることに決めた。



そして数多くのピアスの中で、シンプルな物を探そうとその目を光らせた時だった。

先輩が嬉しそうに駆け寄ってくる。

「雪ちゃん雪ちゃん、これ見て」



先輩が手に持っていたのは、奇妙な動物のストラップだった。

目を丸くする雪に向かって、先輩はニッコリ微笑んで言った。

「これ、雪ちゃんに似てるよね」



髪型が、と言って先輩は笑った。雪はそのモジャモジャな毛を持つストラップを前に、何も言えず固まった‥。



(先輩はそれを見て「可愛いよね」と言ったが、雪はどうにも同意することが出来なかった‥)








再びお店を見て回っていると、一つの髪留めが目に入り、思わず「わっ」と雪は声を上げた。



すごく好みのヘアクリップだった。

雪は聡美へのプレゼントは暫し忘れ、鏡を前にそれを髪につけてみようとした。



店員さんが雪に、「それ人気商品で最後の一個なんですよ」と言いながらそれを雪の髪に付ける。

「わぁ!スッキリしてとてもお似合いです~」



鏡を見た雪は、自然と口元がほころんだ。

先輩がそんな雪を見て「よく似合ってるよ」と言って微笑んだ。



照れた雪は浮足立った気持ちでそれを眺めたが、次の瞬間聡美の顔が思い浮かんだ。

おいおいあたしのプレゼントを買いに来たんじゃないわけ~?

あたしショートだから留める髪なんてないし~そういうのもあまりしないほうだし~




雪は脳内聡美に諭されて我に返ったが、ヘアクリップを握りしめて一人考えた。

でもこれ気に入ったしなぁ‥聡美の買う時に一緒に‥



そう思って、商品を裏返すとそこには「4000円」と書いてあった。

た、高すぎる‥。

ピアス‥ピアスにしよう‥



雪はヘアクリップは見ないことにして、聡美のピアス選びに没頭することにした。

突然ヘアクリップを手放した雪に、店員さんと先輩は不思議そうな顔をして彼女の背中を見つめていた。





結局このピアスを、聡美へのプレゼントにすることに決めた。

値段は4000円弱。貧乏学生の雪にとっては正直痛い出費である。晩ご飯抜きも確定した。

あのヘアクリップ、欲しいなぁ‥。でもあれまで買ったらほぼ一文無しだし‥



そう思って視線を送った先で、露出の多い女性が大きな声で店員と話しているのが聞こえてくる。

「え~?あのヘアクリップもう売り切れちゃったの?!可愛かったのに~~」



なんとなくその後姿に見覚えがあるような気がしたが、

雪はヘアクリップが売り切れたことの方がショックで、しゅんと俯いた。




ふと先輩の方を窺うと、彼は会計を済ませているところだった。



またどうぞ、と店員に言われ微笑む先輩の手には、紙袋が下がっていた。

雪は本当に女の子のプレセントを買った先輩を前にして、なんとも微妙な気持ちになる。



その正体が何なのか、まだ分からないまま。

雪と先輩は、その後共に店を出た。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

<小さなデート>でした。

ヘアクリップに4000円は高いですね‥。韓国のアクセサリーってそんな高いんでしょうか。

先輩が持って来たのがうさぎの鏡なのは、作者さんの描く自画像がうさぎのキャラクターだからでしょうね。

前ゲームセンターでシューティングゲームをした時も、うさぎのゲームでした。

ところどころ見てみるとうさぎのモチーフが結構出てくるので、それを探すのも楽しいですよ。


次回は<憎らしく愛らしい>です。

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彼の思惑

2013-09-26 01:00:00 | 雪3年2部(遠藤に反撃~小さなデート)
その日の夕方、雪は塾の廊下を教材を持ちながら歩いていた。



考えるべきこともやるべきことも沢山ある。

早足で教室へと向かっていた時だった。

「よぉ、ダメージヘアー!」と、不意に後ろから声を掛けられた。



一瞬気付かずにやり過ごそうとしてみたが、すぐにまた雪はこう呼ばれた。

「ダメ~ジ~ヘア~」



‥こんな呼び方をする人間は二人としていない。

雪は赤面して振り返った。

こんな人の多い所で止めて下さい、と言いながら。



すると河村亮は雪の持っていた教材をひょいと持つと、その重さに目を丸くした。

「うひゃ~こんな重いもん持ち歩いてんのか?レンガじゃねーかレンガ」



いきなり教材を奪われて、雪は何するんですかとそれに手を伸ばした。

しかし亮はそれを返そうとせず、ニヤリと笑みを浮かべながら言った。

「重いだろ、オレが持ってやるよ」



「‥はい???」




雪はどうして彼がいきなりこんなことをするのか理解できず、頭に疑問符を浮かべた。

周りはザワザワと雪と亮‥すなわちトーマスとのやりとりに目を留めて何かしら囁いている。



亮はそんなざわめきには気を留めず、「行くぞ」と言って教材を持ったまま教室へと歩を進めた。

雪は当然戸惑い、その背中を呼び止めた。

「あの、どうして私の教材を‥」



困惑する雪を見て亮は、自分の行動はさも当然のことのような顔をした。

「どうしてって?ただ目についたから持ってやっただけだけど」



「何か問題でも?」

口の端を上げて笑うその表情は、独特な雰囲気があった。

言っていることも紳士な振る舞いのそれで、雪は幾分赤面した。



亮は「モタモタすんなよ」と言ってそのまま教室へ歩き出したので、雪はよく分からないままその後に着いて行った。

「あ、そういや前に言ってた仕事は上手くいってんのか?」



振り返ってそう聞いてくる亮に、雪は頭を掻きながら「お陰様で‥」と答えた。

お陰様で‥? 合ってるっちゃ合ってるけど‥



確かに亮のアドバイスのお陰で、遠藤に自分の意見を言えたような気もするが、なんとなく雪はしっくりこなかった。

そんな雪に亮はもう一度振り返り、口の端を上げてニヤリと笑って見せた。

「また何か困ったことがあったらオレに言えよな?オレ結構使えるヤツだぜ?」



雪は以前携帯を受け取りに行った時に亮から言われたことを思い出した。

淳に何かされたら、オレ様に連絡しろよな



考えてみれば変な縁もあるものだ。

青田先輩繋がりとはいえ、ここまで彼と接点が出来るなど雪は想像もしなかった。



教材の分厚さに目を丸くしている亮は、ペラペラと指でページを捲った。



滑らかな動作でそれを行う様を見て、

雪はこの間彼が言っていたことを思い出した。


普段はなんら問題は無いけど、たまに感覚が無くなる時がある



そしてこの間塾で、口に出したあの言葉。

お前、Impromptuって知ってるか?




想像はつかないが、おそらく即興曲という意味を持つImpromptuへの言及や、指を広げたあの仕草からして、

昔ピアノをやっていたことには違いないようだ。

でも今は指を故障してしまっている‥。





欠伸をしながら歩く亮の後ろ姿を見て、雪は微妙な気分だった。

なんで私はここまで彼のことを考えているのだろう、いやそれ以前に、なぜこの人は私にこんな構ってくるんだ?


亮の言葉が、脳裏に数々蘇ってくる。


お前、青田淳とどういう関係?



始まりは駅のホームだった。

不躾にそう聞いてきた彼に、最悪な第一印象を持った。



これ、淳のせいなんだ



指を故障した原因が、青田先輩にあると彼は言った。

アイツは恐ろしい奴だと、亮は続けて言ったのだった。






雪は俯いて考えていた。

どう回り道をしたとしても、結論は一つしか浮かび上がらない。



次のご飯はいつおごってくれるんだと言う亮に、雪は手のひらを差し出した。

教材を返して下さいと言って。



雪は「私にはよく分かりませんけど」と前置きをして、言葉を続けた。

「私にこうして近付くんじゃなくて、言いたいことがあるなら青田先輩に直接言った方が‥」



亮は雪の言葉に、一瞬の沈黙の後眉をひそめた。

「はぁ~?何を言ってやがんだお前は?」



亮は教材を担ぎながら、これも仕事の一つなんだと言った。

重たいものを持ってやることが悪いこととも思えないし、雪だけが特別ということもなく他の子に手を貸してやることもある。

「お前なんかカン違いしてんじゃねーか?」  「!」



雪は赤面した。

きまり悪さに視線を逸らしながら、「くそぉ‥失敗した‥!」と後悔した。



バツの悪くなった雪は、亮に向かってもう一度手を伸ばした。

自分で持てるから教材を返して下さいと言って。



しかし亮はなかなか返してくれない。どうやら雪が頑なな態度でいることが、理解出来ない様子だった。

亮は呆れ顔で口を開く。

「ダメージ、お前見てるとマジもどかしいわ」



「持ってやるって言ってんだから、そのまま甘えりゃいーだろ?なんでそんなに頑ななんだ?」



誰?あの女‥ トーマスの知り合い?

ヒソヒソと、周りの学生たちが囁く声が聞こえてくる。

しかし亮はそんな周りの様子には気づかずに、

「つーか何その顔?おいダメージヘアー」と、

雪の顔をマジマジと眺めてくる始末だった。”ダメージへアー”も連発している。



赤面した雪は衆人環視の中、亮を引っ張って非常階段まで連れ出した。









「何だ?どーしたんだ?」



亮は強く掴まれた腕をさすりながら、雪に文句を言った。

しかし亮の方を振り返った雪は、それ以上の剣幕で彼への不満を捲し立てた。

「人が大勢居る所でダメージヘアーダメージヘアー言わないで下さいよ!!

恥ずかしいでしょうが!てか何で私がダメージヘアーなんですか?!」




しかし雪の必死の訴えも、亮の前には通用しない。

彼はキョトンとした表情を浮かべながら、率直な気持ちを口にした。

「何でって? ダメージヘアーがダメージヘアーだからダメージヘアーって呼んだんだよ

なんでダメージヘアーかって聞かれても‥」




何度も繰り返される”ダメージヘアー”に、

とうとう雪の堪忍袋が切れた。

ブチッ!



「あのですねぇ、河村氏!!」



言葉を続けようとした雪だが、そういえば初めて彼の名前を呼んだ。

丁寧にしようとか礼儀を重んじようとか日頃考えている雪だが、今は色々な感情が一緒くたになって、変に上から目線な敬称で呼んでしまった。

当然亮も困惑顔だ。

「はぁ? 河村氏~~~~~??」



雪は思わず口元を押さえたが、時すでに遅し。

亮は険しい形相で雪ににじり寄った。

「氏って何だよ氏って!アンダー・ザ・シ~♪でもあるまいし!鳥肌立つわ!この生意気小娘め!」



雪はたじろぎながら、「口が勝手に‥すいませ‥」と口ごもった。

「じゃ、じゃあ何て呼べばいいんですか?!」



困惑しながらそう質問した雪に、亮は「そりゃオレの方が年上だから‥」と自分の敬称を考えた。

]

「おにいさま‥」



亮がそう言った所で、二人共興ざめした。

それはないわ‥。



亮はそのまま教材を雪に向かって放り投げると、

「あーもー河村氏でいいよ、ったく!」と言い捨てて背を向けた。



肩をいからせて去って行く亮を見て、雪はつい独りごちた。

「何でそんな怒ってんの?!」



怒りたいのはむしろ雪の方だ。

改めて持った教材が、よりズッシリと重く感じられた。






亮はドカドカと廊下を歩きながら、未だ「河村氏」と呼ばれた時の変な怖気に身を震わせていた。

すれ違う女学生たちは、皆「トーマス!」と声を掛けていく。



それにしても‥





頭の中には先ほどの、雪の言葉がこびり付いていた。

私にこうして近付くんじゃなくて、言いたいことがあるなら青田先輩に直接言った方が‥




そして先日静香のところに見舞いに行った時に、淳から言われたあの言葉も‥。

お前、これ以上俺の周りの人間に付きまとうなよ





亮は、一筋の汗が頬を伝うのを感じた。

「ダメージヘアーあいつ‥すぐに見破りやがったな」




淳に当てつけるため故意に親切にしてやったのだが、雪は見事にそれを見抜いた。

廊下を歩けば皆が振り返るような端正な彼に親しげにされると、大多数の女は浮かれ上がる。

しかしあの女は‥。



亮の思惑は見事看破された。

淳とはまた違う彼女の鋭さに、亮は一筋縄ではいかないこの先を思って、口を噤んだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

<彼の思惑>でした。

今回は翻訳の難しさを実感し直す回でした。

というのも、日本語には無い「人の呼び方」がキーになっていたからです。

韓国での敬称は日本よりも細かいですね。
http://korean-culture.com/language/other04.html

日本語版ではそれら全て変えて、意味が通るように訳されています。

ですので下の「Under the sea」も勿論出てこないわけで‥。



未だなぜ亮が↑の曲を言及したのか謎です‥。氏って言われたからアンダー・ザ・シー‥。???

あー‥難しい回だった‥。

今回はお悩み相談所にて解決してもらいました(^^;)

まだまだ勉強不足です。。


次回は<小さなデート>です。

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互いを知るということ

2013-09-25 01:00:00 | 雪3年2部(遠藤に反撃~小さなデート)
雪と先輩は、二人並んで事務室へ向かう廊下を歩いていた。



雪は先ほど先輩と話したことについて考えていた。

脳裏に先輩の、呟くような声が反響する。

俺に対してはプレッシャーが半端無くて‥





彼と父親との関係について聞いた時、雪は意外なようなそうでないような、微妙な気持ちだった。

この人もああいうことを考えたりするんだなぁ‥



なんとなく、全てにおいて恵まれた男だというイメージがあった。

考えてみれば彼の境遇では、そういうプレッシャーがないわけがないだろう。

雪は先輩が一人の人間として、頑固な父を持つ子供として、自分と同じような悩みを抱えていることに、

幾分親近感を感じるような気がした。

思いがけない共通点を知ってしまったからには、前よりは少しだけ親しみを感じるような‥



先輩は雪の視線に気がつくと、ニッコリと微笑んだ。

「今日は二人して暗い話ばっかしちゃったな。

でも人にああいうこと打ち明けたの初めてだし、なんかスッキリしたよ。

人に家族の話とか一度もしたことないんだ」




先輩が紡ぐ言葉が、雪の心にしっくり収まるような気がした。

雪も家族の話を、友人にさえしたことが無かったと思い返しながら。



「話せて良かった。雪ちゃんの話も聞けたしね」



親しげにそう話す彼を見て、雪は少し頬が赤らむのを感じた。

それはよかった、と笑いながら雪は、その空気を変えようと幾分明るく振る舞う。



ここだけの話にしましょうと言いながら扉に手を掛けようとすると、

先に先輩の手がドアノブを掴んだ。



雪の背中越しに、彼の長い腕が回される。

キィッという音とともに、扉が開いた。



「どうぞお先に」



耳元で先輩の声がする。

雪は何が起こったのか分からず、思わず固まった。



お入り下さい~と先輩はおどけて先を促した。

雪は彼の行動に戸惑いっぱなしだ。



場を誤魔化すかのように笑う雪を、先輩は真っ直ぐ見つめて微笑んだ。



彼はドアのところに佇んでいる。

振り返った雪に向かって、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「俺、雪ちゃんににまた少し近づけた気がする」



「勿論実際に解決出来るわけじゃないけど‥互いをもっと知ることが出来ただろう?」



「それだけでも充分だと思うな」



静かに言葉を続ける先輩を、雪は真っ直ぐ見つめていた。

彼は一瞬視線を下にそらし、自らの心の泉を覗くようにその波立ちを俯瞰する。



そして確かめるように「うん、」と言うと、もう一度雪の目を見て口を開いた。

「それだけで充分なんだ」



彼の瞳は静謐な泉のように澄んでいた。

雪はそんな彼を、不思議な気持ちで見つめている。







先輩はニッコリと微笑むと、「今日はこれで失礼するよ」とドアの前で佇みながら言った。



今日は雪の顔見がてら、お昼休憩に少し寄っただけらしい。

顔を見合わせる二人。

  

「元気出せよ」



先輩はそう言うと、ワシャワシャと雪の頭を撫でた。

(コンプレックスの髪の毛を触られた雪は、少しショックを受けていたが) 



雪に労いの言葉を掛けた後、先輩は去って行った。

お気をつけてと声をかけて、雪はその背中を見送った。










昼下がりの事務室は、外の気温に反してクーラーが効いてとても涼しく、そしてとても静かだ。

雪は、気温や音などの身体的な感覚や、心の揺らぎなどの精神的な感覚が、ゆっくりと元に戻って行くのを感じていた。

クリアになった脳内に思い浮かぶのは、先ほどの先輩の言葉だった。

互いをもっと知ることが出来ただろう?それだけでも充分だと思うな



俺もそうだよ



慰められるよりも、激励されるよりも、気持ちに寄り添ってもらうということが、何より心を癒やす時がある。

雪は心の中に小さな火が灯ったような、仄かな温かさを感じていた。




すると携帯が震え、見てみると聡美からメールが入っていた。

仕事は上手くいってる?無理してない?



雪は”うん、優しい人ばかりで‥”と文字を打ったが、途中で手を止めた。

同じようなメールを、ついこの間も打ったのを思い出す。

なんだかなぁ‥あれ以来ずっと気まずいままだし、同じ内容のやりとりばっかしてる気がする‥



今は夏休み中で、聡美には滅多に会えない。

誰かがどこかでアクションを起こさないと、雪はこのままずっとこんな関係が続くだけのように思えた。


すると鼓膜の奥が、彼の声を再生して震えた。


勿論実際に解決出来るわけじゃないけど‥互いをもっと知ることが出来ただろう?

それだけで充分なんだ











突然記憶の海が波立って、様々な場面が現れ始めた。

寄せては返す波のように、記憶は断続的に再生する。





秋学期最後の日の飲み会で、悩みを抱えた雪を心配そうに介抱してくれた聡美。

あんたまた他の問題で悩んでるんじゃない?

全く気付いてやれなかったけど、もしそうならホントにごめん




あの時聡美は、「何でも聞くから」と言ってくれたのに、黙っていたのは雪の方だ。


去年の夏休み、横山とのことで悩んでいた時太一と食事して、あの時彼はこう言った。

雪さん疲れでも溜まってるんスか?何か悩みでも?

  

彼なりに心配してくれたのに、本当のことを話さなかったのは雪の方だ。


そして夏休み前、聡美と言い争いになった時の記憶が蘇った。

下を向いた聡美が絞り出すように出した声が、今も脳裏に焼き付いている。

横山の件だってそう。あんな大事なこと‥。あたしは太一に後から聞いたのよ。

休み前のテストの時から変だったって!それなのに、あたしは何も知らなかった‥!








‥何も知らないはずだ。

話したことすら無かったのだから。



雪は自分が聡美に言ったことを思い返した。

あの時雪は期末のグループワーク発表が終わって、その散々な結果にイライラしていた。

私は今回の発表でD貰ったの!奨学金だって貰えなくなるかもしれないのに、

旅行の話なんてしてる場合じゃないの!




自分の気持ちにいっぱいいっぱいで、

「少しでもそれらしきことを言ってくれたら、あたしだってこんなに言わないのに!」

聡美がこう言った時だって、雪は彼女を責めるような口調で言葉を返した。

家の事情や奨学金のことは、私個人の問題でしょ?!

そんなこと口が重くて言えるわけないじゃない!言ったところで解決出来るわけでもないのに!




そう言ったら聡美は俯いた。

俯いて、そういうことを言っているんじゃないと、絞り出すように声を出した。

あんたは‥









私は‥



いつもそう、と聡美は言った。

思い返してみると、確かにいつもそうだった。

相手を慮るばかりに黙ってばかりいて、いつも自分の前に線を引いていた。

それが相手のためでもあると思っていた‥。



雪はギュッと拳を固めると、すぐさま携帯電話を手に取り、通話ボタンを押した。

着信メロディーの後聞こえてきたのは、少し躊躇った友人の声だった。

「あ、聡美?私」



週末にでも会えたらなぁと思って。

今週どう?

遅くてもいいからさ‥。




互いを知るということに、まだハッキリとした答えは出ない。

けれど鼓膜の奥で、「それだけで充分なんだ」という彼の声がする。


それに突き動かされるように、雪は目の前の線を飛び越えようと、めいっぱい助走をつけた‥。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

<互いを知るということ>でした。

先輩が雪に扉を開けてあげるけど、自分は中にはいらず「それだけで充分なんだ」と言う場面は、

とても象徴的な感じがしました。心の扉的なところの。


そして以前コメント欄で「ジジ臭い」と言われていた「今日はこれでおいとまさせてもらうよ」という先輩のセリフは、

少し現代風に変えました‥(^^;)すいません。江戸っ子風にもしなくてすいません。。


次回は<彼の思惑>です。


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重なる二人

2013-09-24 01:00:00 | 雪3年2部(遠藤に反撃~小さなデート)
雪は立ち尽くした。



携帯電話からは、母親の沈んだ声が聞こえてくる。

雪は「分かった、すぐ行く」と言うと、すぐに実家へ帰る支度を始めた。




母親から聞かされたのは、父親の事業が倒産したという知らせだった。







翌日の事務補助のバイトには、当然身が入らなかった。

いつもは軽快に響くキーボードを弾く音も、今日は時たま長い沈黙を挟んだ。

  

遠藤も品川さんたちも、いつもとは違う彼女に違和感を感じていた。

彼女らの心配をよそに、雪は心ここにあらずの風情でモニターの前で放心している。



心の中を虚無感が支配する。



下を向いていた雪だが、ふと視線を上げた。

前の方から、自分の名前を呼ばれたからだった。



顔を上げると、先輩が雪の方を向いて立っていた。

いつもと違う彼女を前にして、先輩もまた違和感を感じていた。














お昼休み、外に出ると木々の間でセミが五月蝿いほど鳴いていた。

けれど雪の感覚は壁一枚隔てているように鈍く、それに気が付かないかのように沈黙して歩いた。

先輩が腕時計を見ると、時刻は十二時半であった。

「一時まであと三十分あるし、ちょっと休憩してこっか」



雪はぼんやりしたまま「はい‥」と答え、促されるまま先輩と並んでベンチに座った。

「クーラーきついから頭痛くなるよな。ちょっと休んでいこう」



引き続き雪は先輩の言葉にも、心ここにあらずな返答をするだけだ。

俯いた彼女の横で、先輩が優しく声を掛ける。

「何かあった?元気ないみたいだけど」



雪はそう言われてやっと、普段の自分らしくその心配を否定した。



誤魔化すように頭を掻きながら笑う雪に、先輩はゆっくりと言葉を選んで彼女に語りかける。

「あまり言いたくなければ無理にとは言わないけど、

それでも内に溜めとくより外に吐き出した方がいい時もあるよ」




前にも言っただろう?と先輩は言った。

以前の記憶が頭を掠める。

一人じゃないんだから、それくらい大丈夫だよ



あの時、行き詰っていた暗い道に光を差し込ませてくれたのは、彼の温かな眼差しだった。

雪は隣に座った彼を見つめる。



以前も今も、変わらず自分を見つめる彼の瞳の前で、心の扉が揺れる思いがした。

いつも問題をひとりで抱え込んできた雪を、先輩は柔らかく解き解していく。


「実は‥昨日実家に行ってきたんですけど‥」



雪は言いにくそうに口を開くと、父親の事業が倒産した旨を先輩に伝えた。

俯く雪の横で、先輩が大きく目を見開く。



乾いた笑いを立てる雪に何と言葉を掛けて良いのか分からず、彼は思わず口を噤んだ。

雪はそんな先輩を見て、大したことじゃありませんからと両手を広げて見せた。

「差し押さえの札を張られたりとかそういうのもなければ、

借金だって深刻なレベルでもないみたいですし‥」




それに料理が得意な母親が今度お店を始めることになったということを、雪は努めて明るく話した。

それを聞いて先輩はほっとした顔をしたが、雪の表情は依然として晴れない。

「うまくいくといいんですけどね‥。もう‥状況がこうなってしまった以上、

いい方向に考えようとはしてるんですけど‥」




昨日実家で対面した、項垂れた両親の姿が思い浮かんだ。

特に父親は、丸めた背中が一回り小さく見えた‥。


「お父さんはすごく落ち込んでるし‥。なんせ状況が状況だから‥それが何よりも心配で‥。

どうしても気持ちが落ちちゃって‥」




そう言って俯く彼女を、淳は何も言えずにただ見つめた。

夏空の下、二人の間に沈黙が流れる。



雪はそんな気まずい雰囲気を察して、あはははと声を上げて笑い始めた。

「私ってば何やってんだか~!無駄に周りまで暗い気持ちにさせるなんて~!どうかしてますよね~!」



先輩は雪を見て、そんなことないよと何度も首を横に振った。



「それで元気なかったんだね。雪ちゃんもそうだけど、お父さんもさぞ辛いだろうにな。

こういう時こそ前向きに乗りきるしかないんだろうけど、実際そうはいかないもんなぁ‥」




雪は困ったように頭を掻いて、融通の効かない父親について話し出した。

「うちのお父さんは頑固な上にプライドも高いから、立ち直るまで少し時間がかかりそうです」



昨日だって母親と一緒に何度も前向きな意見を出して励ました。

けれど取り付くしまもないほど落ち込んだ父親に、雪と母親は閉口するほかなかったのだ。

「こうなった以上少しでも楽に考えればいいものを‥。

そういう部分がもどかしくて、どう励ましていいのかも分からないんです」




雪が語る父親との話は、淳の心の縁取りに重なるように思えた。

彼女のことを思ってというだけではなく、淳はその縁取りをなぞるように心の扉を少し開ける。

「俺もそういう時があるよ」



先輩の一言に、雪は「本当ですか?」と身を乗り出した。

彼が自分自身のことについて話をするのを、雪は初めて聞いたのだ。



淳ははにかむような表情を浮かべてから、ゆっくりと自身と父親のことを語り出した。

「うちの父親は俺よりも断然大人で賢い人だけど、たまに融通が利かない時があるんだ」



自身の父親は、情が厚すぎて損をするタイプの人間だと淳は言った。

河村姉弟への支援だって、父親のそれは淳の考える程度を遥かに越えている。

淳はいつもそれをもどかしく感じていた。

「それを俺がいくらどう言おうが、父さんの歳くらいになればそれを覆すのは難しいみたいで」



雪はその言葉に、うんうんと何度も頷いた。

頑固一徹な父親を変えることほど難しいことは無いと、雪も常日頃から思っていたからだ。



淳の心の扉は、自身が思っているより幾分大きく開いているようだ。

「でも反対に、」と彼は言葉を続けた。

いつも父親から押さえつけられた肩が、疼くような気がする。

「俺に対してはプレッシャーが半端無くて‥」



幼い頃から厳しかった父の姿が、脳裏に浮かんでくる。

河村姉弟にはいつも甘いくせに、自分にだけ厳しい父親の姿が。

「特に押し付けたりとかそういうのはないんだけど、知らぬ間にそう感じる時があって」



「たまに息苦しくなる時があるんだ」




そう言って幾分俯いた彼を、雪は何も言わずにただ見つめた。

真昼の陽の下で、二人の間に沈黙が流れる。




その微妙な空気を察して、ハハハ‥と今度は淳が乾いた笑いを立てた。

「俺の方こそ暗い気持ちにさせちゃったみたいで‥」



そう言って頭を掻く彼を、そんなことないですと慌てて雪はフォローする。



そして「そういうの、少しは分かる気がします」と、

自身の父親も同じような面があることを認めると、今までの記憶が脳裏を掠めた。



死ぬほどの努力をして保持している”優等生”を、当たり前のように求めるその姿勢や、

弟と比べることで知らぬ間に与えているプレッシャー、そして失敗をした時にされたあの冷遇が、蘇ってくる。

頑張っても頑張っても、得られない愛情。努力しても努力しても、与えられない評価。

自身とあまりにも違う友人と父親との関係性を耳にする度に、心の奥をぎゅっと掴まれる感じがすること‥。





雪は小さく溜息を吐く。

「友達の話とか聞くと、変に比べちゃったりして気に病んでる自分がいるんです。

そんなことしたらいけないって分かってるのに‥」




考えても何にもならないことや、求めてもどうにもならないことが、雪の心を悩ませている。

そんな雪に対して、先輩は「俺もそうだよ」と声を掛けた。

雪はまた意外そうに彼の横顔を眺めた。

「多分誰しもがそうなんだと思う。敢えて他人と比較することで、自分を慰めたり、尚更憂鬱になったりね」



「間違いなく皆も、各自人知れない事情があるだろうに」








雪は何も言わず先輩の横顔を見つめていると、彼は雪の方を見て最後にニッコリと微笑んだ。



陽の光が映り込んだ先輩の瞳に、一筋の明かりが見えた気がした。

去年は漆黒の闇だったその瞳の中に、仄かで温かな一点の光明が。




そして二人は事務室へ向かって歩き出した。

セミの鳴き声が、二人の真上で騒がしく響鳴していた。

その五月蝿いほどの生命力を、雪は真昼の陽の下で感じていた。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

<重なる二人>でした。

お父さんへの二人の気持ちが、重なって見えた回でしたね。

この二人はこういう話を沢山すべきなんですよね、心の中の、話すべき話を。

初めて人と人とで向き合った、雪と淳のお話のような気もします。


次回は<互いを知るということ>です。

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