「いたっ‥」
暫し彼が薬を塗るのに身を任せていた雪だが、不意に触れられた傷がひどく痛んだ。
痛いです、と続けて口にした雪に、淳は謝る。
「ごめん」 「いや‥大丈夫‥清水香織のせいですから‥」
そう言って首を横に振る雪に向かって、彼は尚も謝った。
「本当にごめん」
その「ごめん」が単に「痛くしてごめん」の意味じゃないことに、雪は気がついた。
自分の前にしゃがむ彼が俯いている姿を、改めて見つめる。
「ごめん」
目を伏せながら謝罪を口にする彼に、雪は幾分驚いた。
目を丸くして、その姿を見つめている。
淳は雪の瞳を真っ直ぐに見つめながら、真剣に言葉を続けた。
「ただ闇雲に謝ることを、君が嫌がるのも分かってる。けどそれでも言わせて欲しい」
「ごめん」
突然切り出されたあの問題への謝罪に、雪は当惑して言葉を濁した。
すると淳は微かに微笑みを浮かべながら、雪の目を見て静かに言葉を続けた。
「俺は、急がないから」
「君がもう少し俺を理解して歩み寄ってくれるなら、それで満足だから」
淳は跪いた姿勢のまま、彼女の心に届くよう優しく言葉を続けた。
「だから、ずっと待てるよ。ゆっくりでも、君が近付いて来てくれるなら」
「ずっと待ってるから」
彼の言葉が、夕闇迫る秋の空に溶けていく。
二人が付き合い始めたあの夏の日から、気がつけば季節を一つ越えていた。
雪は沈黙したまま彼の言葉を受け止め、その意味を考えている。
彼は心の扉の中から出てこない。そこから彼女に向かって、「待ってる」と声を掛けている。
「‥私が先輩にまた歩み寄るって、分かったような口ぶりですね‥?」
ポツリとそう口にした雪に、淳は口元を上げて言葉を返した。
「ああ。違うの?」
自信たっぷりにそう口にした淳に、雪は頭を抱えて一人悶々とした。
あ‥厚かましい‥!堂々としてるし‥!
そんな彼女を、淳はニヤリと笑ったまま眺めている。
まるで結末は分かっているかのような顔をして。
彼の笑みを目にした雪は、ただ渇いた笑いを立てるしか無かった。
そして彼は更に薬を雪の顔に塗り、雪は痛みに小さく声を上げる‥。
やがて日も暮れ、先ほどまで橙色だった空には、濃紺の夜の帳が降りた。
雪は家の近くの道を、疲れた身体を引き摺るようにしてトボトボと歩いている。
そう、とにかく私には時間が必要だ
雪は歩いている途中も家に着いてからも、頭の中でずっと考え事をしていた。
試験が終わり、また家の仕事を手伝わなきゃいけないし、横山のことについても気を張らなくちゃいけない。
恵と付き合い始めた蓮がこれからどうするのか、蓮の気持ちも聞かなきゃいけない
それに、学科の皆からどんな目で見られるだろうかという心配も尽きない
おまけに、そこに先輩のことまで‥。
今でさえ疲労困憊なのに、更に疲労が降り積もっていく。そして先輩もそれを分かってる‥
部屋に入り、シャワーを浴びて、ご飯を食べて‥。
単調に作業をこなす雪の頭の中は、ゴチャゴチャとしてとても散らかっていた。
出来ることなら、全部投げ出してどこかへ行ってしまいたいくらいだ。
けれどそんなこと出来ないことくらい、雪はとっくに分かっていた。
ベッドに潜り込みながら、騒ぐ胸の内が頭の中を更にかき乱す。
特に今日は心が落ち着かない。
皆の前で床にしゃがみ込み、晒されていた清水香織の姿が瞼の裏に焼き付いて離れない
あの崩れ落ちた清水香織を見た時、雪は崩落した砂の城のようだと思った。
土台も無いところにギリギリまで積まれた、不安定な城が崩れたのだと。
そして、雪は思った。
崩れるのはほんの一瞬だ。
そして、再び立ち上がるには時間が掛かるだろう と。
清水香織のことを、彼はこう語った。
清水香織のような被害者意識が過剰で、他人のものを自分のものと勘違いするような人間は、
いつもああいう風になってしまうんだ。
雪は彼の言葉に、頭の中で言葉を返した。
ううん、あの子の行く末があんな最低な終わり方じゃなかったとしても、
実際はそんなことどうでも良いんです。
あんな終わり方を期待して無かったとか、惨めな香織に罪悪感を覚えたとか、そういう訳じゃなかった。
再び、彼の言葉が脳裏に響く。
そんな人達には同情の余地も無いよ。心に溜め込まないで
そして雪は自分の気持ちを丸裸にして、頭の中でそれを伝える。
先輩はそう言っていたけど、同情でこんな気持ちになったんじゃないんです。
余計な煩わしさは少しでも減らしたい、そんな私のエゴってだけ‥
あんな終わり方になってしまうと、後の処理が大変だ。
それに向き合って事後処理にまた気を遣うパワーなど、今の疲れた雪には皆無だった。
だからそこに後悔したというだけだ。清水香織に同情なんてしていなかった‥。
眠りに落ちる寸前まで、雪の頭の中は考え事でいっぱいだった。
脳裏に色々な人の顔が浮かんでは消える。
清水香織は、なぜ‥
先輩は、どうして‥
お父さんは、お母さんは、蓮は‥。皆はなぜ‥
無意識に他人のことに頭を悩ませる、それは雪の性分だった。
想像を越えて、理解し難い「心」というもの。
雪は他人のそれを考えるうち、自分の心も彷徨っていくような気持ちがした。
私は、なぜ‥?
自分のものなのに、心は時に暴走して理性の範疇に収まらない。
そしてそれを動かしている性分というものは、滅多なことでは変わらない。
変わらない姿勢で彼女を待ち続ける、扉の向こうで鎮座する彼のように。
雪は次第に眠りに落ちて行った。
意識が無くなる寸前に見えた誰かの顔は、白んでいてよく分からなかった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<性分>でした。
この「どうして‥?」と悶々と考える雪ちゃんは、特別編の雪ちゃんを思い出しますね。
考えてもしょうがないことを考え続けてしまう、萌菜はそんな雪を「疲れない?」と一蹴しますが、
なかなか雪は自分のそんな性分を変えることが出来ない。
極限に疲れた時にこそ、人の「性分」というものは姿を表すようです。
あの「疲れがピークだった日」に、雪を見つけた淳のように。
そして今回が雪ちゃんのそれでしたね。
そんな彼女は、扉の向こうで動かない淳の「性分」が変わらないことを見抜いて、また頭を悩ませるわけです‥。
ちなみに、その淳の「性分」が形作られる過程での話が本家版の流れでは次に来るのですが、
これは以前の記事<父の相談>にて記事を上げてますので、そこを御覧ください。
次回は<ジャンヌ・ダルクを讃えて>です
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暫し彼が薬を塗るのに身を任せていた雪だが、不意に触れられた傷がひどく痛んだ。
痛いです、と続けて口にした雪に、淳は謝る。
「ごめん」 「いや‥大丈夫‥清水香織のせいですから‥」
そう言って首を横に振る雪に向かって、彼は尚も謝った。
「本当にごめん」
その「ごめん」が単に「痛くしてごめん」の意味じゃないことに、雪は気がついた。
自分の前にしゃがむ彼が俯いている姿を、改めて見つめる。
「ごめん」
目を伏せながら謝罪を口にする彼に、雪は幾分驚いた。
目を丸くして、その姿を見つめている。
淳は雪の瞳を真っ直ぐに見つめながら、真剣に言葉を続けた。
「ただ闇雲に謝ることを、君が嫌がるのも分かってる。けどそれでも言わせて欲しい」
「ごめん」
突然切り出されたあの問題への謝罪に、雪は当惑して言葉を濁した。
すると淳は微かに微笑みを浮かべながら、雪の目を見て静かに言葉を続けた。
「俺は、急がないから」
「君がもう少し俺を理解して歩み寄ってくれるなら、それで満足だから」
淳は跪いた姿勢のまま、彼女の心に届くよう優しく言葉を続けた。
「だから、ずっと待てるよ。ゆっくりでも、君が近付いて来てくれるなら」
「ずっと待ってるから」
彼の言葉が、夕闇迫る秋の空に溶けていく。
二人が付き合い始めたあの夏の日から、気がつけば季節を一つ越えていた。
雪は沈黙したまま彼の言葉を受け止め、その意味を考えている。
彼は心の扉の中から出てこない。そこから彼女に向かって、「待ってる」と声を掛けている。
「‥私が先輩にまた歩み寄るって、分かったような口ぶりですね‥?」
ポツリとそう口にした雪に、淳は口元を上げて言葉を返した。
「ああ。違うの?」
自信たっぷりにそう口にした淳に、雪は頭を抱えて一人悶々とした。
あ‥厚かましい‥!堂々としてるし‥!
そんな彼女を、淳はニヤリと笑ったまま眺めている。
まるで結末は分かっているかのような顔をして。
彼の笑みを目にした雪は、ただ渇いた笑いを立てるしか無かった。
そして彼は更に薬を雪の顔に塗り、雪は痛みに小さく声を上げる‥。
やがて日も暮れ、先ほどまで橙色だった空には、濃紺の夜の帳が降りた。
雪は家の近くの道を、疲れた身体を引き摺るようにしてトボトボと歩いている。
そう、とにかく私には時間が必要だ
雪は歩いている途中も家に着いてからも、頭の中でずっと考え事をしていた。
試験が終わり、また家の仕事を手伝わなきゃいけないし、横山のことについても気を張らなくちゃいけない。
恵と付き合い始めた蓮がこれからどうするのか、蓮の気持ちも聞かなきゃいけない
それに、学科の皆からどんな目で見られるだろうかという心配も尽きない
おまけに、そこに先輩のことまで‥。
今でさえ疲労困憊なのに、更に疲労が降り積もっていく。そして先輩もそれを分かってる‥
部屋に入り、シャワーを浴びて、ご飯を食べて‥。
単調に作業をこなす雪の頭の中は、ゴチャゴチャとしてとても散らかっていた。
出来ることなら、全部投げ出してどこかへ行ってしまいたいくらいだ。
けれどそんなこと出来ないことくらい、雪はとっくに分かっていた。
ベッドに潜り込みながら、騒ぐ胸の内が頭の中を更にかき乱す。
特に今日は心が落ち着かない。
皆の前で床にしゃがみ込み、晒されていた清水香織の姿が瞼の裏に焼き付いて離れない
あの崩れ落ちた清水香織を見た時、雪は崩落した砂の城のようだと思った。
土台も無いところにギリギリまで積まれた、不安定な城が崩れたのだと。
そして、雪は思った。
崩れるのはほんの一瞬だ。
そして、再び立ち上がるには時間が掛かるだろう と。
清水香織のことを、彼はこう語った。
清水香織のような被害者意識が過剰で、他人のものを自分のものと勘違いするような人間は、
いつもああいう風になってしまうんだ。
雪は彼の言葉に、頭の中で言葉を返した。
ううん、あの子の行く末があんな最低な終わり方じゃなかったとしても、
実際はそんなことどうでも良いんです。
あんな終わり方を期待して無かったとか、惨めな香織に罪悪感を覚えたとか、そういう訳じゃなかった。
再び、彼の言葉が脳裏に響く。
そんな人達には同情の余地も無いよ。心に溜め込まないで
そして雪は自分の気持ちを丸裸にして、頭の中でそれを伝える。
先輩はそう言っていたけど、同情でこんな気持ちになったんじゃないんです。
余計な煩わしさは少しでも減らしたい、そんな私のエゴってだけ‥
あんな終わり方になってしまうと、後の処理が大変だ。
それに向き合って事後処理にまた気を遣うパワーなど、今の疲れた雪には皆無だった。
だからそこに後悔したというだけだ。清水香織に同情なんてしていなかった‥。
眠りに落ちる寸前まで、雪の頭の中は考え事でいっぱいだった。
脳裏に色々な人の顔が浮かんでは消える。
清水香織は、なぜ‥
先輩は、どうして‥
お父さんは、お母さんは、蓮は‥。皆はなぜ‥
無意識に他人のことに頭を悩ませる、それは雪の性分だった。
想像を越えて、理解し難い「心」というもの。
雪は他人のそれを考えるうち、自分の心も彷徨っていくような気持ちがした。
私は、なぜ‥?
自分のものなのに、心は時に暴走して理性の範疇に収まらない。
そしてそれを動かしている性分というものは、滅多なことでは変わらない。
変わらない姿勢で彼女を待ち続ける、扉の向こうで鎮座する彼のように。
雪は次第に眠りに落ちて行った。
意識が無くなる寸前に見えた誰かの顔は、白んでいてよく分からなかった。
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<性分>でした。
この「どうして‥?」と悶々と考える雪ちゃんは、特別編の雪ちゃんを思い出しますね。
考えてもしょうがないことを考え続けてしまう、萌菜はそんな雪を「疲れない?」と一蹴しますが、
なかなか雪は自分のそんな性分を変えることが出来ない。
極限に疲れた時にこそ、人の「性分」というものは姿を表すようです。
あの「疲れがピークだった日」に、雪を見つけた淳のように。
そして今回が雪ちゃんのそれでしたね。
そんな彼女は、扉の向こうで動かない淳の「性分」が変わらないことを見抜いて、また頭を悩ませるわけです‥。
ちなみに、その淳の「性分」が形作られる過程での話が本家版の流れでは次に来るのですが、
これは以前の記事<父の相談>にて記事を上げてますので、そこを御覧ください。
次回は<ジャンヌ・ダルクを讃えて>です
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