ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

アメリカ軍の情報収集 №3

2010-10-02 | Weblog
 1948年1月、安曇野の農家で冬籠り中の岡正雄に東京から電報が届いた。米軍総司令部の民間情報文化局CIEに出頭せよという。「GHQ総司令部が一体、わたしに何の用があるというのだ?」
 CIEに到着した岡は驚いた。ウィーン大学の研究室に残してきた論文「古日本の文化層」全6巻を、彼に渡すというのである。当日、民間情報文化局で授与式がおこなわれ、局長のニュージェント中佐は「近い将来、必ず英語で出版してください」。そう言葉をかけ、全6巻を彼に渡した。
 岡は「これはまったく予期しなかったことで、米軍の意図がなんであったか知らないが、その好意に対し、私は素直に感謝した」
 米軍が日本人を理解するために、軍に所属する数名の学者たちが、論文を深く読み込んだことなど、岡は知らなかったのである。彼の考察は占領政策に活かされていた。

 当時、CIEには日本人学者も勤務していた。社会学者や民族学者など、関啓吾や石田英一郎たちである。
 実は、石田が米軍CIEの学者に働きかけたお陰の返還であった。石田は記している。
「1937年にウィーン大学に(石田が)留学してから、同大学の民族学研究所において、このドイツ語の(岡)論文を閲覧する機会をえて啓発させるところ多く、また戦争のため、岡氏個人の所蔵する右論文のコピーが、ウィーン大学日本学研究所に残されたままになっていたのを、終戦の直後、わが学界のため、占領軍総司令部のCIEにあった人類学者のハーバート・パッシン氏に依頼して、同じ連合軍の占領下にあったウィーンから、日本にとりよせてもらったのも筆者であった。そしてこのコピーを問題の提起と討論の基礎として、1948年の座談会(日本民族=文化の源流と日本国家の形成)は、筆者の司会のもとに開かれたものである。」

 アメリカの学者たちも当然、この論文を既に高く評価しており、著者の岡を尊敬していた。アメリカ人が日本人とその文化を理解できたのは、まずこの論文のタイプ複製に依ったからである。

 ところで岡に渡された論文は、オリジナルでなく複製であった。実は、ウィーン大学の研究室に残されていた岡の手控えである。
 論文はもともと、ウィーン大学民族学研究所に原本が1部。そして同大学の岡の研究室に控えの写しが1部あった。そして1945年に米軍によってつくられた複製が、おそらく2部。アメリカ本土と、東京のGHQ・CIEが所蔵していたのではないかと思う。
 米軍が論文をそれほどに重んじ、コピーが既に東京にもあったろうことに、石田英一郎は気づいていなかった。いや、石田は知っていたのではないか? おそらくこの論文は、外国人すなわち日本人には原則みせない、マル秘扱いの禁断の書であったように思う。天皇の起源についての考察だけでも、当時なら驚がくの説である。

 岡はつぎのように語っている。原文ママ。
 下宿に置いて来たものはいっさい、前に述べたように焼失してしまったが、ウィーン大学の私の研究室に置いて来たものは、大学の書籍といっしょに疎開されて、助かったのであって、この「論文」(複写版)が奇しくもふたたび私の手に戻ったのである。一度この「論文」とは縁がなくなってさっぱりした気持でいた私は、「論文」との再会は嬉しかったが、いっぽう古い因縁が甦ってくることを思うと、また多少心の荷を感ずるようになった。当時、石田君は私が百姓生活を楽しんでいることに不満で、学問への復帰を促してくれたが、それが、この「論文」が戻ってきてからは、その内容の梗概なり、その一部なりを「民俗学研究」(機関誌)に発表するようにと、「執拗」に勧められ、雑誌では私の怠惰を叱責された。ちょうどその頃であった。民族研究所から満州に調査にいっていた、八幡君や江上君が長い抑留から帰ってきたが、江上君と久しぶりに東京で会った時、会うが早いか、彼は持ち前の調子で君の意見とだいたいおなじような結論になった、といって(後に)座談会で同君が述べた「天皇」種族の日本列島渡来についての新説(天皇騎馬民族説)を、まくしたてるようにきかせてくれた。

 そして1948年5月、東京神田の喫茶店の2階で「座談会」が開催される。敗戦の3年ほど後である。復興の進む東京だったが、この喫茶店もバラック建てであった。
 喫茶店で3日連続、連日早朝から深夜まで、ベリ―ハードな議論が続いた。岡いわく「相当精力的な三日間であった」
 参加者は民族学の岡正雄、考古学の八幡一郎、東洋史学・考古学の江上波夫。司会進行役を文化人類学の石田英一郎がつとめた。議論は翌年2月、雑誌『民族学研究』に「日本民族=文化の源流と日本国家の形成」と題して掲載され、なかでも天皇騎馬民族論が、学者にも一般の読者にも驚きの眼で読まれた。戦中戦前、天皇についてこのような異説は唱えようもなかった。
<続く 2010年10月2日>
コメント
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