戦中戦前の学説を覆した岡正雄たちの日本民族文化論だが、1954年10月に彼は、昭和天皇に進講することになった。岡は、天皇と呼び天皇陛下とは言わない。また進講であり、御進講でもない。
江上波夫とともに大陸半島からの天皇渡来説を掲げた第一人者である彼が、招かれたのである。おそらく天皇が、岡の話しを望んだのであろう。岡正雄に「会いたい」、そして天皇族の半島からの渡来征服説などの話しを聞きたいと、昭和天皇は希望したはずである。
花陰亭での1時間の講義のあと、天皇はじめ数名による1時間以上にわたる自由な質問や討論が続いた。天皇も気軽に発言し、くつろいだ雰囲気であったと、岡は回想している。
そのときの話しの骨子はかつて1948年5月、喫茶店の2階で天皇騎馬民族説を討議したとき、また戦前のウィーン大学論文の記載と同じである。彼はつぎのように記している。
「皇室の種族的系統につき、また皇室の本来の神話的主神はタカミムスビノカミで、アマテラスオオミノカミではないと思うことなど、いろいろ私の自説をそのままに申しあげた。天皇はまったく科学者の客観的な態度でお聴きくださって、また二、三の御質問もあった。終戦前において、こうした内容の研究や座談会の記事を、いったい発表したり、講演できたであろうか。」
岡の考察は、まず日本神話の主神についてである。アマテラスは皇室の祖神とされているが、日本神話研究において最も不思議なことは、最高人格神はアマテラスではなくタカミムスビであるという事実である。アマテラスの占める地位は、非常に意味の軽いものである。
戦中戦前では、このような考えを唱えることは異端であり、非国民として岡は不敬罪で逮捕、あるいは学界から追放されたであろう。
さらに彼は、天皇種族が朝鮮半島を経て日本列島に進入してきたのは古墳時代の中後期であり、弥生時代から続いていたアマテラス神話に、天皇族のタカミムスビが古墳時代後期に重なった。それがアマテラスとタカミムスビの二元性である。この説は江上波夫「天皇騎馬民族説」に継承され発展した。
ところで岡や江上の説が討議され、発表された終戦3~4年後という時期は、敗戦後の大混乱がちょうど収まるころであった。このタイミングに、天皇はアマテラスの子孫ではない、また大陸から半島を経由して日本列島を侵略し支配した種族である。このような説の広まることを、GHQは歓迎した。当時まだ根強かった万世一系の皇国史観。天皇は神の末裔であるはずがない。騎馬民族説は占領軍の施政にかなっていた。
岡は語っている。「ましてや天皇に直接お話しすることなど、夢想することさえもできなかった。私が、私の「論文」をドイツ語のままにしておいた(また印刷することを肯んじなかった)、何分の一かの理由も、日本語での発表は(戦前戦中には)とうてい許さるべくもなかったからであった。世の中は、本当に変わったものと思うのである。」
また、「論文」からこのように歴史が広がったことについて、彼は決して語らずに、自分ひとりの記憶にとどめ置くべきだったのではないかと逡巡した。「こうした形で、私事にわたる思い出話をここに公表することについて、私は最後まで若干の躊躇を感ぜざるを得なかった。」
昭和54年に刊行された岡正雄『異人その他』の凡例には記されている。「独文学位論文『古日本の文化層』は、目次のみ翻訳したが、続いて刊行する予定である」。しかし論文は独英日語、何語版もいまだに出版されていない。なぜなのか?
余談だが、騎馬民族説を唱えた江上波夫は1991年、文化勲章を受章した。ついに異端の説も、認知されたと考えるべきなのであろうか。あるいは、京都の公家たちが千年以上にわたって育んできた「位打ち」の逆襲応酬を、岡も江上も浴びせられたのであろうか。
さて、突然思いついたこの連載も本日で終えます。この稿はノンフィクションなのか、それともフィクションなのか? 極力、事実を書くようにつとめたつもりですが浅学非才。わからない部分がいくつもあります。それを想像で補いました。ですので「八分目ノンフィクション」とでもいいましょうか。独断偏見の記述をご容赦ください。興味あるかたは、下記の図書などを参考になさってください。
<参考図書>
『日本民族の起源』石田英一郎・江上波夫・岡正雄・八幡一郎共著
昭和33年初版 平凡社刊
『異人その他 日本民族=文化の源流と日本国家の形成』
岡正雄著 昭和54年 言叢社
『異人その他―岡正雄論文集―他十二篇―』大林太良編 1994年 岩波文庫
※この文庫版は抄本ダイジェストですので、前記の言叢社本をおすすめします。
「歴史民族学の限界―日本民族文化起源論をめぐって」
『石田英一郎全集』第2巻所収 昭和45年 筑摩書房
『騎馬民族とは何か』 江上波夫編 毎日新聞社 昭和50年
井上靖「『騎馬民族説』と私」
<2010年10月3日>
江上波夫とともに大陸半島からの天皇渡来説を掲げた第一人者である彼が、招かれたのである。おそらく天皇が、岡の話しを望んだのであろう。岡正雄に「会いたい」、そして天皇族の半島からの渡来征服説などの話しを聞きたいと、昭和天皇は希望したはずである。
花陰亭での1時間の講義のあと、天皇はじめ数名による1時間以上にわたる自由な質問や討論が続いた。天皇も気軽に発言し、くつろいだ雰囲気であったと、岡は回想している。
そのときの話しの骨子はかつて1948年5月、喫茶店の2階で天皇騎馬民族説を討議したとき、また戦前のウィーン大学論文の記載と同じである。彼はつぎのように記している。
「皇室の種族的系統につき、また皇室の本来の神話的主神はタカミムスビノカミで、アマテラスオオミノカミではないと思うことなど、いろいろ私の自説をそのままに申しあげた。天皇はまったく科学者の客観的な態度でお聴きくださって、また二、三の御質問もあった。終戦前において、こうした内容の研究や座談会の記事を、いったい発表したり、講演できたであろうか。」
岡の考察は、まず日本神話の主神についてである。アマテラスは皇室の祖神とされているが、日本神話研究において最も不思議なことは、最高人格神はアマテラスではなくタカミムスビであるという事実である。アマテラスの占める地位は、非常に意味の軽いものである。
戦中戦前では、このような考えを唱えることは異端であり、非国民として岡は不敬罪で逮捕、あるいは学界から追放されたであろう。
さらに彼は、天皇種族が朝鮮半島を経て日本列島に進入してきたのは古墳時代の中後期であり、弥生時代から続いていたアマテラス神話に、天皇族のタカミムスビが古墳時代後期に重なった。それがアマテラスとタカミムスビの二元性である。この説は江上波夫「天皇騎馬民族説」に継承され発展した。
ところで岡や江上の説が討議され、発表された終戦3~4年後という時期は、敗戦後の大混乱がちょうど収まるころであった。このタイミングに、天皇はアマテラスの子孫ではない、また大陸から半島を経由して日本列島を侵略し支配した種族である。このような説の広まることを、GHQは歓迎した。当時まだ根強かった万世一系の皇国史観。天皇は神の末裔であるはずがない。騎馬民族説は占領軍の施政にかなっていた。
岡は語っている。「ましてや天皇に直接お話しすることなど、夢想することさえもできなかった。私が、私の「論文」をドイツ語のままにしておいた(また印刷することを肯んじなかった)、何分の一かの理由も、日本語での発表は(戦前戦中には)とうてい許さるべくもなかったからであった。世の中は、本当に変わったものと思うのである。」
また、「論文」からこのように歴史が広がったことについて、彼は決して語らずに、自分ひとりの記憶にとどめ置くべきだったのではないかと逡巡した。「こうした形で、私事にわたる思い出話をここに公表することについて、私は最後まで若干の躊躇を感ぜざるを得なかった。」
昭和54年に刊行された岡正雄『異人その他』の凡例には記されている。「独文学位論文『古日本の文化層』は、目次のみ翻訳したが、続いて刊行する予定である」。しかし論文は独英日語、何語版もいまだに出版されていない。なぜなのか?
余談だが、騎馬民族説を唱えた江上波夫は1991年、文化勲章を受章した。ついに異端の説も、認知されたと考えるべきなのであろうか。あるいは、京都の公家たちが千年以上にわたって育んできた「位打ち」の逆襲応酬を、岡も江上も浴びせられたのであろうか。
さて、突然思いついたこの連載も本日で終えます。この稿はノンフィクションなのか、それともフィクションなのか? 極力、事実を書くようにつとめたつもりですが浅学非才。わからない部分がいくつもあります。それを想像で補いました。ですので「八分目ノンフィクション」とでもいいましょうか。独断偏見の記述をご容赦ください。興味あるかたは、下記の図書などを参考になさってください。
<参考図書>
『日本民族の起源』石田英一郎・江上波夫・岡正雄・八幡一郎共著
昭和33年初版 平凡社刊
『異人その他 日本民族=文化の源流と日本国家の形成』
岡正雄著 昭和54年 言叢社
『異人その他―岡正雄論文集―他十二篇―』大林太良編 1994年 岩波文庫
※この文庫版は抄本ダイジェストですので、前記の言叢社本をおすすめします。
「歴史民族学の限界―日本民族文化起源論をめぐって」
『石田英一郎全集』第2巻所収 昭和45年 筑摩書房
『騎馬民族とは何か』 江上波夫編 毎日新聞社 昭和50年
井上靖「『騎馬民族説』と私」
<2010年10月3日>