2011年の晩秋、未来書店に夜の9時にやって来た本屋3人は、全員が片瀬と同じ団塊世代の連中である。京都の三書店、中垣書店、ブックス堀井、仲井書店の店主たち。今朝早くに電話をもらった片瀬は、「店を閉めてから息子たちと打ち合わせをやりますが、9時には終えます。遅くまで飲まずにミーティングを続けると、翌日がしんどいですから」 理屈になっていない話しだが、議論が長引いてから飲みだすと、午前様になってしまうということであろうか。確かに深夜までの酒は、60歳を過ぎるとこたえる。
居酒屋「藤島」の六畳の座敷の障子をあけると、坪庭がある。その奥がトイレだが、飛び石つたいに用を足してもどって来た客の青年が「女将さん、裏の庭、小さいけど落ち着きますね。よっぽど腕のいい、植木屋さん、庭師の方が作られたんでしょうね。」
片瀬の仲間のほかに5人ほどの客がカウンターに座っていた。全員に一瞬、沈黙が流れた。青年は意味がわからず「ぼく、何か変なことを言いましたか…」
女将が座敷に座る片瀬を指さし、「いちばん向こうに座っている方の親友、亡くなったんだけど…、その方が作ってくれた庭なの。前川さんというの。本屋が商売なのに、本職顔負けのいいお庭でしょ」
前川と庭のことをカウンターの常連客はみなよく知っていた。
毎日のように藤島に通う傘寿が近い長老、コンチャンこと近藤大助が音頭をとった。「前川さん、この庭、またお客さんにほめられたで。素人やのに。なんで本屋になんかなったんやろなあ。庭師やってたら、いまごろ人間国宝やったやろになあ。何でもできた天才前川に、みなで乾杯しましょ。天才、バカボンの前川に、乾~杯~」「カンパ~イ」 古井町のみなに愛された未来書店と前川であった。
「藤島」の女将、藤島小百合は70歳に近いはずだが、ほれぼれするほどの美人である。いまでも「古井小町」と呼ばれ、サユリストたちが通う。40年ほども前、開店以来の客のひとりである近藤は米寿のいまでも、毎日のように通い詰めている。50歳以上の客が多いが、古井町で銭湯の次に繁盛しているのが、この店である。未来書店は足元にも及ばない。
座敷では本屋6人の話し合いがはじまった。伸介がこれまでの経過を説明する。通販業界の現状については、河野が説明した。書籍業界と通販業界は、緊密に連携できるはずだ。若手ふたりの話しには説得力があった。本屋の主人三人は、
「面白い。まず片瀬さんの店から口火を切ってください。わたしたちはほかの書店も巻き込んで、京都を起爆点にして、全国にフィーバーの嵐を起こしますから」
「POD機のティータイムEが500万円もしても、伸介君がいうようにぜひ導入してください。何百万冊をE在庫する零細本屋の出現なんて、わたしたちの夢の実現です。本屋冥利に尽きますよ」
「われわれもPOD用の資金を出しましょう。そのかわり自分の店から通信回線で送ったデータを未来書店で受信して、オンデマンド本を作ることは可能ですか?」
IDとパスワードをそれぞれが持てば、何軒の本屋でもオンラインでPOD機を操作できる。メーカーからは対応可能との返事をもらっていた。また予想に反して、機械があまり稼働しなければ、接続書店数を増やしてもいい、と片瀬は考えていた。
3軒の本屋が各百万円ずつ出そうという。印刷製本された湯気の出ている本は、自転車かバイクでその都度、取りに来るという。
「若手が話すように、われわれにもパブリッシングができるようになったら、自費出版だけでなく、全国に向けて、紙本も電子書籍Eブックも、商業出版が可能になりそうですね」と仲井は言った。
仲井の息子はサラリーマンだが、家業は継がないといっている。しかし本来は出版社に就職したかった青年である。この話しをすれば「継ぎたい」と言い出すかもしれない。そのような予感がした。
しかし刷り部数が多くなれば、「ティータイムE」では無理がある。1冊10分として、10時間稼働でもわずか60冊。
片瀬は京都の老舗印刷屋、中北印刷の主人の了解を取っていた。「紙本のオフセット印刷と製本、また超高速PODも。たとえ刷り数が少なくとも任せてください。片瀬さんのところのPOD機に負担がかかるようなら、いつでもやりますから。通信回線1本で何でも可能ですよ」
座敷で庭に目をやる片瀬は「前川さん、あなたの遺志はいま、花開こうとしています。かならず、全国の書店に『未来』を届けます」 彼は、庭にたたずむかのごとき前川の影に向かって誓った。
縄暖簾をくぐって「こんばんは」 娘がひとり入って来た。「えっ」、片瀬は驚いた。娘の洋子である。もう10時のはず。なぜ今ごろ。
小百合は「内緒にしてたけど、実はわたし、急に引退することになってしまって…。洋子ちゃんが来月からこの店の女将を継いでくれることになりました。えっ、もしかして五郎さんは知らなかったの?」 息子の伸介はうつむいている。妻の文子もとっくに知っているのであろう。なぜ?
洋子は座敷の前まで来て、「父さん、これまで内緒にしててごめんなさい。いろいろ考えたんだけど、父さんと伸介が未来書店を、日本いや世界一の本屋にしようと頑張っているのをみてて…。わたしも決意したの。女将さんが引退するのが残念だし、わたしは前川のおっちゃんが作った庭を守りながら、この小百合さんの店と、わたしを育ててくれた古井町商店街を、同じように日本一に、そして世界を目指して、生まれ変わらせようと決めたの。ごめんなさい」
片瀬は洋子の顔に、伸介と同じ輝きをみた。新しいことにチャレンジする若者には、夢がかもすまぶしい光が発している。
「前川さん、家族ともども、よろしくお願いします」、彼は庭に向かってつぶやいた。
長老のコンチャンこと近藤は、小百合の引退の相談を内緒で受けていた。引退の理由は、ドクターストップである。また洋子の決意を聞かされてもいた。
コンチャンは、「またべっぴんの女将ができた。初代と二代目の古井小町に乾杯やあ。」
「カンパーイ」「カンパ~イ」
小百合は涙ぐみながら、「ありがとう。ありがとうございます。今日はビールと日本酒、焼酎も飲み放題にしますよ。ただし、いまからのオーダーですよ。これまでの分は、ちゃんと頂戴します。だって、わたしのこれからの、老後の蓄えの心配もしてくださいね」
全員の笑いがこだました。ここは、すばらしい商店街である。古井町商店街、古い町に洋子は革命を起こそうとした。
<2010年11月13日土曜。この物語はフィクションです。隔日集中連載。続く>
居酒屋「藤島」の六畳の座敷の障子をあけると、坪庭がある。その奥がトイレだが、飛び石つたいに用を足してもどって来た客の青年が「女将さん、裏の庭、小さいけど落ち着きますね。よっぽど腕のいい、植木屋さん、庭師の方が作られたんでしょうね。」
片瀬の仲間のほかに5人ほどの客がカウンターに座っていた。全員に一瞬、沈黙が流れた。青年は意味がわからず「ぼく、何か変なことを言いましたか…」
女将が座敷に座る片瀬を指さし、「いちばん向こうに座っている方の親友、亡くなったんだけど…、その方が作ってくれた庭なの。前川さんというの。本屋が商売なのに、本職顔負けのいいお庭でしょ」
前川と庭のことをカウンターの常連客はみなよく知っていた。
毎日のように藤島に通う傘寿が近い長老、コンチャンこと近藤大助が音頭をとった。「前川さん、この庭、またお客さんにほめられたで。素人やのに。なんで本屋になんかなったんやろなあ。庭師やってたら、いまごろ人間国宝やったやろになあ。何でもできた天才前川に、みなで乾杯しましょ。天才、バカボンの前川に、乾~杯~」「カンパ~イ」 古井町のみなに愛された未来書店と前川であった。
「藤島」の女将、藤島小百合は70歳に近いはずだが、ほれぼれするほどの美人である。いまでも「古井小町」と呼ばれ、サユリストたちが通う。40年ほども前、開店以来の客のひとりである近藤は米寿のいまでも、毎日のように通い詰めている。50歳以上の客が多いが、古井町で銭湯の次に繁盛しているのが、この店である。未来書店は足元にも及ばない。
座敷では本屋6人の話し合いがはじまった。伸介がこれまでの経過を説明する。通販業界の現状については、河野が説明した。書籍業界と通販業界は、緊密に連携できるはずだ。若手ふたりの話しには説得力があった。本屋の主人三人は、
「面白い。まず片瀬さんの店から口火を切ってください。わたしたちはほかの書店も巻き込んで、京都を起爆点にして、全国にフィーバーの嵐を起こしますから」
「POD機のティータイムEが500万円もしても、伸介君がいうようにぜひ導入してください。何百万冊をE在庫する零細本屋の出現なんて、わたしたちの夢の実現です。本屋冥利に尽きますよ」
「われわれもPOD用の資金を出しましょう。そのかわり自分の店から通信回線で送ったデータを未来書店で受信して、オンデマンド本を作ることは可能ですか?」
IDとパスワードをそれぞれが持てば、何軒の本屋でもオンラインでPOD機を操作できる。メーカーからは対応可能との返事をもらっていた。また予想に反して、機械があまり稼働しなければ、接続書店数を増やしてもいい、と片瀬は考えていた。
3軒の本屋が各百万円ずつ出そうという。印刷製本された湯気の出ている本は、自転車かバイクでその都度、取りに来るという。
「若手が話すように、われわれにもパブリッシングができるようになったら、自費出版だけでなく、全国に向けて、紙本も電子書籍Eブックも、商業出版が可能になりそうですね」と仲井は言った。
仲井の息子はサラリーマンだが、家業は継がないといっている。しかし本来は出版社に就職したかった青年である。この話しをすれば「継ぎたい」と言い出すかもしれない。そのような予感がした。
しかし刷り部数が多くなれば、「ティータイムE」では無理がある。1冊10分として、10時間稼働でもわずか60冊。
片瀬は京都の老舗印刷屋、中北印刷の主人の了解を取っていた。「紙本のオフセット印刷と製本、また超高速PODも。たとえ刷り数が少なくとも任せてください。片瀬さんのところのPOD機に負担がかかるようなら、いつでもやりますから。通信回線1本で何でも可能ですよ」
座敷で庭に目をやる片瀬は「前川さん、あなたの遺志はいま、花開こうとしています。かならず、全国の書店に『未来』を届けます」 彼は、庭にたたずむかのごとき前川の影に向かって誓った。
縄暖簾をくぐって「こんばんは」 娘がひとり入って来た。「えっ」、片瀬は驚いた。娘の洋子である。もう10時のはず。なぜ今ごろ。
小百合は「内緒にしてたけど、実はわたし、急に引退することになってしまって…。洋子ちゃんが来月からこの店の女将を継いでくれることになりました。えっ、もしかして五郎さんは知らなかったの?」 息子の伸介はうつむいている。妻の文子もとっくに知っているのであろう。なぜ?
洋子は座敷の前まで来て、「父さん、これまで内緒にしててごめんなさい。いろいろ考えたんだけど、父さんと伸介が未来書店を、日本いや世界一の本屋にしようと頑張っているのをみてて…。わたしも決意したの。女将さんが引退するのが残念だし、わたしは前川のおっちゃんが作った庭を守りながら、この小百合さんの店と、わたしを育ててくれた古井町商店街を、同じように日本一に、そして世界を目指して、生まれ変わらせようと決めたの。ごめんなさい」
片瀬は洋子の顔に、伸介と同じ輝きをみた。新しいことにチャレンジする若者には、夢がかもすまぶしい光が発している。
「前川さん、家族ともども、よろしくお願いします」、彼は庭に向かってつぶやいた。
長老のコンチャンこと近藤は、小百合の引退の相談を内緒で受けていた。引退の理由は、ドクターストップである。また洋子の決意を聞かされてもいた。
コンチャンは、「またべっぴんの女将ができた。初代と二代目の古井小町に乾杯やあ。」
「カンパーイ」「カンパ~イ」
小百合は涙ぐみながら、「ありがとう。ありがとうございます。今日はビールと日本酒、焼酎も飲み放題にしますよ。ただし、いまからのオーダーですよ。これまでの分は、ちゃんと頂戴します。だって、わたしのこれからの、老後の蓄えの心配もしてくださいね」
全員の笑いがこだました。ここは、すばらしい商店街である。古井町商店街、古い町に洋子は革命を起こそうとした。
<2010年11月13日土曜。この物語はフィクションです。隔日集中連載。続く>