日本でアヒルを記したもっとも古い本は、『本草和名』です。延喜18年(918)、醍醐天皇の侍医・博士だった深根輔仁が完成。日本で現存最古の本草書だそうです。初登場の鶩アヒル文を紹介します。現代語訳はわたしの下手な抄訳です。ご容赦ください。[なお括弧内は小さな文字です]
なおこの鳥を日本で「アヒル」と呼んだ最初は、16世紀のことです。
〇『本草和名』の鶩アヒル。
「鶩肪、[楊玄操音木]一名鴨、[楊玄操作■、於甲反、]屎名鴨通、一名舒鳥、[出兼名苑]和名加毛、」
<鶩は音読み木ボク。鴨ともいう。音は甲コウ。鶩を小馬鹿にした別名に舒鳥。わが国では加毛(訓かも)。>
※ 「鶩肪、和名加毛」<箋注倭名類聚抄>
※ ■は鳥の右に邑が合体した字のようですが不明です。
※ 「舒鳥」よちよちと、ゆっくり歩くアヒルです。「舒ジョ」は静かとか遅いの意味。「舒鳧」はアヒルの異名。のろのろと尻を振りながら歩く家鴨です。ちなみに「舒雁」はガチョウです。
少し遅れてアヒルが再登場するのが、承平年間(931年~938年)です。 注目の本は源順(みなもとのしたごう/911年生まれ)が編纂した『倭名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう)です。彼は当時20歳代、勤子内親王の求めに応じて作成した総合辞典です。略名『和名抄』など。
『和名抄』は『本草和名』に十数年遅れての完成ですが、両本の著者同志、互いに影響しあっていたのではないでしょうか。また本の制作を依頼したのが、『本草和名』は醍醐天皇、『和名抄』は勤子内親王でした。四人には深いつながりがあった可能性があります。
勤子内親王(904~938)は醍醐天皇(885~930)の第5皇女でしたが、内親王と源順は親戚です。勤子の母親の父と、順の祖父が兄弟でした。
醍醐天皇は『倭名類聚抄』の完成をみることなしに亡くなっています。承平改元の前年ですが、そのころ校了が近づいていました。天皇はこの本の編纂過程を熟知していただろうと、わたしは思っています。
このころの何年間か、本邦初の総合辞事典をめぐって、激しい動きがあったはずです。そのように想像しています。
〇『倭名類聚抄』(和名抄のアヒル)
中国漢代の辞典『爾雅』注を引いて、
「鴨 爾雅集注云、鴨[音押]野名曰鳧[音扶]、家名曰鶩[音木]、楊氏漢語抄云、鳧鷖[加毛、下音烏■反、]」
<鴨は自然の中に暮らしているのが野鴨(オウ)であり鳧(フ)といい、家で飼育しているのが鶩(ボク)である。>
- 「鶩」(音:ボク)は日本でいう和訓「あひる」です。また鴨(押オウ音)。鳧(訓けり・音フ)。
- ■は読みケイ、山の名だそうですが、PCで出ません。
- 「鷖」音エイ・訓かもめ。なぜここでカモメ? 「鷖」には想像上の鳥という意味がありました。鳳凰の類。
「鳧」はチドリ科の鳥のケリではなく、ここでは鴨を意味します。鳧/音[扶フ]、訓[けり・かも]。ケリとカモ、2種類の鳥を意味する「鳧」字には悩まされます。式亭三馬『浮世風呂』に登場する「鴨子」と「鳧子」を思い出しました。
酒井抱一の号「白鳧」(はくふ)がケリなのか、カモなのか。まだ結論けりはついていないとわたしは思っていますが、一般的にはカモと判断されるのでしょう。いずれにしろ、アヒル談議に出てくる「鳧フ・けり」は、まず鴨として読まないと意味が通じません。特に中国の文献では、すべてカモです。
<2024年9月5日 南浦邦仁>
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