若冲はいまだに謎の多い人物である。謎のひとつに年齢加算の難問がある。享年は数え年齢で八十五歳であった。ところが八十六、八十七とか八十八歳と自ら記した作品が残っている。実年齢に最大三歳を加算している。
狩野博幸氏は、還暦以降の改元に際してその都度一歳を加算したという「改元一歳加算説」をとなえておられる。例としてあげられるのが茶人の川上不白(1719~1807)で、二歳か三歳を加算しているが、どうも改元ごとに一歳ずつを足したようだ。
「昔は還暦の後は年なしとし、改元ごとに一年ずつ加算した」。狩野氏のこの解釈がいまではほぼ定説になっている。確かに説得力のある加齢説であるが、はたしてそうであろうか。
若冲が還暦以降に迎えた改元は二度。安永から天明へ、天明から寛政へ、二回の改元であった。二度の改元では八十七歳止まりであり、三年上乗せの八十八歳には届かない。
もうひとつの説を辻惟雄氏が提唱しておられる。若冲は「四」という数字が「死」に通じるため、還暦以降は四のつく年を忌避し、四を五に変えてしまったという説である。六十五、七十五、八十五歳。この三度の一歳加算で享年は八十八歳になったとする。
岡田秀之氏は「伊藤若冲の年齢加算について」(「國華」1408号)でより詳しく論じておられる。
まず民俗学による戦前の調査から、年増し、年違え、耳ふさぎの風習を紹介する。身近な同年齢者が亡くなると、「同齢感覚」という不安畏怖の民間信仰心から、歳をひとつあわてて加えた事実が数多く報告されている。
また文献史学からは平山敏治郎氏が中世から近世にかけて、年違え、耳ふさぎの加齢があったことを、史料からたくさんの例をあげている。
耳ふさぎ・耳ふたぎとは、家族のなかのだれかと同年齢者が亡くなったことを知ると、家人は同年の本人にはその死を知らせずに、あわててモチをつく。そして正月をいち早く迎え、一歳加齢してしまう。そして搗いたばかりの餅を当人の耳に当て、亡者が同年の生者を呼ぶ声をふさぐ。
また凶作の年にはその年を早く終えるために地域あげて餅をつき、今年におさらばし夏や秋に正月を迎えてしまう。豊作の兆候でも台風などの被害を恐れて、いち早く門松をたてて正月を迎えてしまうこともあった。ただこの風習では地域共同体の全員が早めの加齢を迎えるので、終生の加算が続くとは考えにくい。ただ年に二度正月祝いをすれば年齢加算になってしまう。
民俗学や文献史学にみえる「年違」(としたがえ)の記述をみていると、改元と年齢加算は無関係といえそうである。
さてつぎに歴史上の人物で、明らかに年齢を加算しているいくつかの例を、年代をかまわずランダムに紹介してみよう。
<富岡鐵斎と常煕興燄>
画家の富岡鐵斎(1837~1924)は、大正十三年大晦日、数え八十九歳で亡くなった。後一日たてば元旦であり、目出度く卆寿九十歳を迎えるはずだった。ところが彼は生前にいち早く九十歳と年記している。実は八十九歳の夏ころに予祝を行い、一足早く卒寿の祝いを済ませて九十歳にしていたのである。
予祝では常煕興燄(じょうきこうえん/1582~1660)も同様である。彼は中国の黄檗僧だが、日本で黄檗禅をひろめた隠元を助けた人物である。七十九歳の七月ころ、病のために起きることあたわず。九月早々、傘寿八十歳を予祝。九月二十九日に示寂。
<司馬江漢>
司馬江漢(1747~1818)は還暦を期して、実年齢に九歳を一気に加算している。そのため享年は七十二歳説と八十一歳説がうまれてしまい、研究者の間ではいまも混乱している。
江漢の一気加算は文化五年(1809)、六十二歳になった正月である。その後、没年までこの九歳の下駄履き上げ底を通した。以降は毎年、ふつうに一歳ずつ加算している。実享年は七十二歳だが、彼が称した年齢では、没年は八十一歳であった。彼もまた改元加算には無縁だ。
昔は数えで歳を数える。還暦は六十一歳。江漢は還暦を過ぎた直後、翌正月元旦に通常の一歳にプラス九歳も加齢した。「還暦過ぎれば年知らず」、どうもこの文言は正しいのかもしれない。ただ、改元ごとに一歳加算したという説には、まだ納得がいかない。
江漢の人生をざっとみてみよう。画作はまず幼くして狩野派に習う。これは若冲も同様のようである。そして父を亡くした十代なかばの江漢は、生活のために浮世絵師となる。そして二十歳ほどの彼は師匠、天才絵師の鈴木春信に並ぶほどの力量をみせる。錦絵美人画で高名な春信急逝ののち、困惑した遺族や関係者に請われ、春信の贋作を数多く描いたといわれている。売れっ子絵師を失ってしまった版元、彫師、摺師など、関係者の失職困窮を救うためであった。また彼はのちに鈴木春重を名のり、美人画を数多く描いている。
その後、宋紫石(楠本幸八郎雪渓)について、中国清の南蘋画を習得し、師友の平賀源内を通じて西洋絵画に傾斜する。そして日本ではじめて銅版画エッチングを創始した。独自の油画も生み出す。
蘭学仲間にも加わり、天文地理学に通じ、天動説の一般普及にも貢献している。精巧な銅版画、江漢作「地球全図」「天球図」も有名である。蘭学では、前野良沢、杉田玄白、大槻玄沢などの学者に交わる。彼の兄貴分であった平賀源内のつながりであろう。
文人としても多く書き残しているが、自由平等の思想を説く。封建時代人としては珍しい先進のひとであった。「人間はこれ世界虫、上下をとわず、すべて同一の人間」「上天子将軍より、下士農工商非人乞食に至るまで、皆以て人間なり」「人間が牛馬ではなく、人間が人間らしく生きて、人間を尊ぶ」など、幕末前の同時代を超えた「市井の哲人」、畸才であった。
また事業として江漢は多くの品々を制作したが、驚くべきものに補聴器やコーヒーミル(オランダ茶臼)もある。阿蘭陀茶臼は写真でみたが、デザインも優れ、現代に「江漢ミル」複製を製作発売しても、かなり売れそうなほどの優品。エレキテルで知られる「非常の人」、平賀源内の弟分だけのことはある。
さて司馬江漢の九歳加算について、成瀬不二雄氏が紹介する細野正信氏の二説がある。
まず崎陽隠士輯『巷説集』(天明2年刊 元長崎県立図書館蔵)の記載。この本は、長崎のオランダ語通訳、日本人通詞にかかわる百余話を記したものだそうだ。江漢は親しく接した通詞の吉雄幸作らを通じて話しを知ったであろうという。
「養老山人とて一畸人ありて、或時己の齢に一時に九歳を加えて大悟散人と称すと云、何謂か分明ならずと雖、俄に世を欺くは佯老散人とも可称歟」
著者の崎陽隠士は、行文から推して後に松平定信に属した通詞、石井恒右衛門と考えられる。
そしてもうひとつの説は江漢が晩年、老荘思想に傾斜したことから、『荘子』寓言篇(雑篇第二七)の「九年而大妙」に細野氏は注目された。
「顔成子游はいった。わたしは先生の話しを聞くようになりましてから、…八年たつと生と死の区別を意識しなくなり、九年たつとすべてを一体とする絶妙の境地に達することができるようになりました」
『荘子』原文では「一年而野、二年而従、三年而通、四年而物、五年而来、六年而鬼、七年而天成。八年而不知死、不知生。九年而大妙。」
細野氏は、江漢は九年を加え、大悟の心境を装ったとされる。大妙は「すなわち大悟の意である。九歳年齢を加えて、一足とびに自らにいいきかせるように悟りに入ったつもりになったのである」
いずれも説得力のある見解だ。しかし、わたしはあえて追加したいと思う考えがある。江漢は晩年、「ただ老荘のごときものを楽しむ」としているが、禅寺の鎌倉円覚寺の住持、誠拙和尚の弟子であると記している。江漢は、老荘思想と禅に親しんだ。
彼の伯父、父の兄は、絵心の達者なひとであった。江漢「六歳のとき、焼き物の器に雀の模様のあるのを見て、その雀を紙に写し描いて伯父にみせた。また十歳のころ、達磨を描くことを好み、数々画いては伯父に見てもらった」と自ら記している。
幼いころから江漢は、達磨に惹かれていたようだ。達磨・菩提多羅は天竺より六世紀、中国の北魏の少林寺に到る。同寺の岩窟で面壁端坐、面壁九年という。
江漢は達磨の大悟九年を、還暦を過ぎたとたん、一気に達する、あるいは到達しようと考えたのであろうか。
<鈴木春信>
司馬江漢の画師、錦絵創始の浮世絵師・鈴木春信(~明和7年6月14日か15日 1770年)だが、彼も享年が定まらない。出身も身分も家族のことも、何もわからない謎の人物である。ただ司馬江漢のもうひとりの師であった平賀源内が長屋住まいのころ、その長屋の家主は春信であった。当時、三人はみな非常に近い関係だったのである。
春信の没年齢については、四十六歳、五十三歳、六十七歳などと実にさまざま。ただ司馬江漢が記した「そのころ、鈴木春信という浮世絵師、当世の女の風俗を描くことを妙とした。四十余にしてにわかに病死」
享年を推定する史料はこの江漢の記載「四十歳余」しかない。現在では四十六歳没という説に落ち着いているそうだが、確たる根拠はなさそうだ。
春信はおそらく年齢加算とは関係なく、単に生年が不明であるというのが結論ではないか。昔のひとは生年不詳、あるいは不明という方があまりに多い。われわれ現代人とは、生年月日の感覚意識がおおいに異なるように思う。また正月元旦に歳を加える時代、生誕月日にはあまりこだわる必要がない。
確然と存したのは、過去帳や墓表などに記された記録である。逝ってはじめて記載される記録だけといってもいいようだ。江戸期以前の彼らには、出生届も戸籍もなかった。亡くなると、過去帳や墓に没年月日は書き込まれるが、享年記載がなければ年齢不詳になってしまう。また享年の歳を記されてもその年齢は、加算や偽年かもしれない。当時の没年齢は、簡単に信用してはいけないようだ。
<2017年2月3日 南浦邦仁>
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