前回に織田信長の命日と阿弥陀寺、豊臣秀吉のことを少し書きました。わたしはやはり、阿弥陀寺に伝わる信長最期の伝承が、ほぼ正しいであろうと思っています。
信長死後の転変する状況を、これから秀吉を中心にみてみましょう。ただ今日は時間がありません。いま自宅TVで東北地震報道をみていますがこの後、朝風呂です。昼12時からは友人と昼食をとって、それからは京の街歩き。
建築家の先生に引き連れられ、四条から七条まで歩き、建造物を見て回り話を聞く。夜は参加者が集まっての会食。おもしろそうな企画ですが、詳細は何も知らず、誘われるままに参加するわたし。
信長のお葬式の話よりも、街散策のほうが興味深いかもしれませんが、近ごろ、六条方広寺・豊国神社西の「耳塚」に関わっています。かつて秀吉が朝鮮を攻めた壬申倭乱[和読:じんしんわらん・ハングル読:イムジンウェラン]。文禄・慶長の役ですが、あまりにも残忍な戦闘でした。
敵の首を持ち帰るのにはあまりにも戦地は遠く、耳や鼻をそぎ、一樽千個の鼻を塩漬けにして、数万あるいは十万個以上も京都に送った。それらを埋めて京観となし、供養したのが鼻塚、その後にいう「耳塚」です。
秀吉は若きとき、狡猾ではあるが、賢く楽しい、みなに好かれた好人物でした。なぜかれは、最高権力やありあまる富をえた晩年になって、このような残虐非道な道をひた走ったのか?
その出発点を、信長の葬儀からみてみようと思っています。
<2008年6月14日 東北地震の朝>
信長死後の転変する状況を、これから秀吉を中心にみてみましょう。ただ今日は時間がありません。いま自宅TVで東北地震報道をみていますがこの後、朝風呂です。昼12時からは友人と昼食をとって、それからは京の街歩き。
建築家の先生に引き連れられ、四条から七条まで歩き、建造物を見て回り話を聞く。夜は参加者が集まっての会食。おもしろそうな企画ですが、詳細は何も知らず、誘われるままに参加するわたし。
信長のお葬式の話よりも、街散策のほうが興味深いかもしれませんが、近ごろ、六条方広寺・豊国神社西の「耳塚」に関わっています。かつて秀吉が朝鮮を攻めた壬申倭乱[和読:じんしんわらん・ハングル読:イムジンウェラン]。文禄・慶長の役ですが、あまりにも残忍な戦闘でした。
敵の首を持ち帰るのにはあまりにも戦地は遠く、耳や鼻をそぎ、一樽千個の鼻を塩漬けにして、数万あるいは十万個以上も京都に送った。それらを埋めて京観となし、供養したのが鼻塚、その後にいう「耳塚」です。
秀吉は若きとき、狡猾ではあるが、賢く楽しい、みなに好かれた好人物でした。なぜかれは、最高権力やありあまる富をえた晩年になって、このような残虐非道な道をひた走ったのか?
その出発点を、信長の葬儀からみてみようと思っています。
<2008年6月14日 東北地震の朝>