ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

本能寺の変

2008-06-14 | Weblog
 前回に織田信長の命日と阿弥陀寺、豊臣秀吉のことを少し書きました。わたしはやはり、阿弥陀寺に伝わる信長最期の伝承が、ほぼ正しいであろうと思っています。
 信長死後の転変する状況を、これから秀吉を中心にみてみましょう。ただ今日は時間がありません。いま自宅TVで東北地震報道をみていますがこの後、朝風呂です。昼12時からは友人と昼食をとって、それからは京の街歩き。
 建築家の先生に引き連れられ、四条から七条まで歩き、建造物を見て回り話を聞く。夜は参加者が集まっての会食。おもしろそうな企画ですが、詳細は何も知らず、誘われるままに参加するわたし。
 信長のお葬式の話よりも、街散策のほうが興味深いかもしれませんが、近ごろ、六条方広寺・豊国神社西の「耳塚」に関わっています。かつて秀吉が朝鮮を攻めた壬申倭乱[和読:じんしんわらん・ハングル読:イムジンウェラン]。文禄・慶長の役ですが、あまりにも残忍な戦闘でした。
 敵の首を持ち帰るのにはあまりにも戦地は遠く、耳や鼻をそぎ、一樽千個の鼻を塩漬けにして、数万あるいは十万個以上も京都に送った。それらを埋めて京観となし、供養したのが鼻塚、その後にいう「耳塚」です。
 秀吉は若きとき、狡猾ではあるが、賢く楽しい、みなに好かれた好人物でした。なぜかれは、最高権力やありあまる富をえた晩年になって、このような残虐非道な道をひた走ったのか?
 その出発点を、信長の葬儀からみてみようと思っています。
<2008年6月14日 東北地震の朝>
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1 コメント

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若冲休載 (犬塚)
2008-06-15 00:58:08
鼻塚、耳塚の由来に驚きました。大きな数字と言い、寓話的に広がっているのでしょうか。何だか今回のラストは、思わせぶりですね。若冲休載は残念でも、こちらを楽しみにしております。
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