久しぶりの「山麓噺」、数回の連載になりそうです。
きっかけは近くの山麓に建つ別所家の3基の大きな石碑。三木合戦、羽柴秀吉の軍勢に敗れた城主、別所小三郎長治の一族のことなどを記します。
三木は東播磨。領主の別所氏は当時の播州で最大の勢力でした。
城攻めですが、秀吉の攻め方があまりにもひどい。城から一歩も出られないように囲み、兵糧攻め「三木の干殺し」を徹底しました。城には兵と住民、7500人が別所氏を頼り籠城した。開戦は天正6年3月29日(1578)
攻防戦の間、討って出た城兵以外、城外に出ることができた者は、ほんのわずかしかいないであろう。圧倒的多数のひとたちが戦闘にも加わることもなく、逃れることもできず、城内で窮乏に耐えた。
女子どもまでが籠城を選んだ理由として、ひとつには西播磨の上月城での暴挙があろう。天正5年(1577)秀吉軍の攻撃を受けて落城した。秀吉は見せしめに、城内に残っていた女子ども200余人を、備前、美作、播磨三国の国境に引き出して処刑した。そして女は磔に、子どもは串刺しにして並べるという残虐極まりない暴挙を行った。三木の女性たちは、主君長治を敬愛信頼していた。そして秀吉が勝利することは、絶対に許せなかった。
元亀2年(1571)、有名な比叡山の焼き討ちが起きた。犠牲者は数千名にのぼるという。信長は叡山の僧侶、学僧、上人、児童などの首をことごとく刎ねた。
また天正7年12月(1579)、三木が籠城戦を始めた翌年、有岡城残党に対する残虐があった。城主の荒木村重は、一族や家臣の妻子を残したまま城を脱した。織田信長は、残された女房衆、百数十人を惨殺させた。「百二十二人の女房一度に悲しみ叫ぶ声、天にも響くばかりにて、見る人目も心も消えて、感涙押さえ難し」。これらの話が伝わると、秀吉たちのやりざまは、本当に恐ろしくなる。籠城者は、特に女子はみな、酷くおびえたであろう。
三木城では、食糧は完全に底を尽く。このままでは、全員がもう間もなく餓死するしかない。「民の命を無駄に散らすことはおろかなこと」。長治の妻、照子は心底思った。
長治も覚悟のときが来たと決断する。天正8年正月15日(1580)、彼は包囲する敵方に申し入れた。
「来る十七日、申の刻、長治、吉親(叔父)、彦之進友之(弟)ら一門ことごとく切腹仕るべく候。然れども、城内の士卒雑人は不びんにつき、一命を助けくだされば、長治今生の悦びと存じ候」
正月17日、約した日が来た。夫妻には幼い子が4人あった。5歳の姉の竹姫、妹の虎姫4歳。3歳兄の千松丸と、2歳弟の竹松丸。全員が夫妻の刀で息を引き取った。
ところが、男児のひとりか二人ともか。家臣が敵に偽って城外に連れ出し、逃れた。そして田舎の地で秘密裏に育てる。いまも別所長治公の子孫があるのは、その故である。もう450年も昔の流離譚であるが、今も日々、山麓の祈念碑と別所家墓には、美しい花が絶えない。
<2025年2月5日>
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