信長の死後、天王山・山崎の合戦で明智光秀を三日天下に終わらせた秀吉のとった、その後の戦略はすごい。
信長の長男、信忠は父と同様、京で討ち死にしたが、まだ弟の織田信雄と信孝がいた。秀吉は織田軍団の有力な家臣ではあるが、決して信長の後継者ではありえない。出自もあやしい、下賤からにわかに出世した成りあがりの幹部でしかない。
しかし信長の後継者と目されるふたりの子、織田信男と信孝の後継争いを彼はたくみに利用する。まず清洲会議の席である。秀吉は本能寺の変で討たれた信忠の遺子、三法師を信長の後継者とすることに成功する。自身は幼い三法師の後見人になった。見事な戦略である。
万全の準備を周到に重ねた秀吉は、つぎに遅ればせに信長の葬儀にかかる。このとき阿弥陀寺に信長の遺骨のあることを、秀吉は知っていた。同寺住職の清玉上人に、秀吉はたびたび交渉した。「永代供養の禄・所領を寺に与える。盛大な信長公の葬儀を、わたしが執り行なう」。しかし清玉上人は、秀吉の申し出を拒絶した。「信長公の葬儀法要はすでに終えております。いまさら葬儀を行なうことはできません」
清玉は三度まで秀吉の申し入れを断ったといいます。秀吉はこのころ、有力な武将政治家ではありましたが、まだ織田家の家臣でしかありません。信長の血をひく後継者も揃っています。また上人を応援し、秀吉に一矢を酬いようとする勢力も強かったであろうと思います。
秀吉は怒り、阿弥陀寺での葬儀執行をあきらめ、大徳寺で彼ひとりが主催して行なうのでした。彼の深い計算は、思惑通りに大成功をおさめます。忠君秀吉・織田家を仕切る最有力の後継最高幹部、そのような名声を豪華な葬儀をおこなうことによって、秀吉は獲得したのです。
イエズス会のフロイスはこのころ都で、それらの事情を実際に見聞した宣教師です。彼の書いた『日本史』には、
信長にはその相続者である世子・信忠の子で孫にあたる、まだ一歳か二歳の幼児・三法師がいた。羽柴秀吉は、自分が天下の支配権を横領し、絶対君主としての名称を獲得する考えがないと表明した。
そして三法師が成長して、政治を委ねられるだけの年齢に達するまでの間、その保護者であり付け人であることを示そうとした。秀吉はかつて信長の居城のあった近江・安土山に立派な屋敷を作らせ、そこで三法師を養育することを命じた。そして信長の次男で、幼児の叔父にあたる御本所の信雄に、彼の世話をし、後見役として都から遠く離れた安土に同居せよと命じた。そのうちに収入および役人をあてがい、ひとつの政庁を構えさせるであろうと、秀吉は信長の次男にいい渡したのである。
秀吉の天下取り作戦は、着実に進められていった。
参考:フロイス『日本史』中央公論新社
藤本良平「ジョアン内藤の生涯とその時代」連載第15回
白川書院新社「月刊京都」1982年8月号・通巻373号
<2008年6月15日 次回は大徳寺での信長の葬儀>
信長の長男、信忠は父と同様、京で討ち死にしたが、まだ弟の織田信雄と信孝がいた。秀吉は織田軍団の有力な家臣ではあるが、決して信長の後継者ではありえない。出自もあやしい、下賤からにわかに出世した成りあがりの幹部でしかない。
しかし信長の後継者と目されるふたりの子、織田信男と信孝の後継争いを彼はたくみに利用する。まず清洲会議の席である。秀吉は本能寺の変で討たれた信忠の遺子、三法師を信長の後継者とすることに成功する。自身は幼い三法師の後見人になった。見事な戦略である。
万全の準備を周到に重ねた秀吉は、つぎに遅ればせに信長の葬儀にかかる。このとき阿弥陀寺に信長の遺骨のあることを、秀吉は知っていた。同寺住職の清玉上人に、秀吉はたびたび交渉した。「永代供養の禄・所領を寺に与える。盛大な信長公の葬儀を、わたしが執り行なう」。しかし清玉上人は、秀吉の申し出を拒絶した。「信長公の葬儀法要はすでに終えております。いまさら葬儀を行なうことはできません」
清玉は三度まで秀吉の申し入れを断ったといいます。秀吉はこのころ、有力な武将政治家ではありましたが、まだ織田家の家臣でしかありません。信長の血をひく後継者も揃っています。また上人を応援し、秀吉に一矢を酬いようとする勢力も強かったであろうと思います。
秀吉は怒り、阿弥陀寺での葬儀執行をあきらめ、大徳寺で彼ひとりが主催して行なうのでした。彼の深い計算は、思惑通りに大成功をおさめます。忠君秀吉・織田家を仕切る最有力の後継最高幹部、そのような名声を豪華な葬儀をおこなうことによって、秀吉は獲得したのです。
イエズス会のフロイスはこのころ都で、それらの事情を実際に見聞した宣教師です。彼の書いた『日本史』には、
信長にはその相続者である世子・信忠の子で孫にあたる、まだ一歳か二歳の幼児・三法師がいた。羽柴秀吉は、自分が天下の支配権を横領し、絶対君主としての名称を獲得する考えがないと表明した。
そして三法師が成長して、政治を委ねられるだけの年齢に達するまでの間、その保護者であり付け人であることを示そうとした。秀吉はかつて信長の居城のあった近江・安土山に立派な屋敷を作らせ、そこで三法師を養育することを命じた。そして信長の次男で、幼児の叔父にあたる御本所の信雄に、彼の世話をし、後見役として都から遠く離れた安土に同居せよと命じた。そのうちに収入および役人をあてがい、ひとつの政庁を構えさせるであろうと、秀吉は信長の次男にいい渡したのである。
秀吉の天下取り作戦は、着実に進められていった。
参考:フロイス『日本史』中央公論新社
藤本良平「ジョアン内藤の生涯とその時代」連載第15回
白川書院新社「月刊京都」1982年8月号・通巻373号
<2008年6月15日 次回は大徳寺での信長の葬儀>
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