「いやいや、いいさ…。ところで出向の話、考えてくれた?」
「はい。…その話も、もう少し待っていただけませんか?」
里山は両手を合掌する形で部長の蘇我に懇願(こんがん)した。まるで、神社やお寺で手を合わせてお参りする格好である。
「仕方ないな。…今月いっぱいだよ。支社の方にも受け入れる都合があるからさ」
蘇我は自慢げに伸ばし始めた口髭(くちひげ)を撫(な)でた。
「ただいまぁ~!」
里山は、このところ寄り道をせず、まっすぐ帰宅する日が増えていた。公園から家が見え始めた頃、ああ…今日も定食屋、酢蛸(すだこ)の蛸酢(たこす)が食えなかった…と悔(く)やむ里山だった。このままでは店の主人にも忘れられないか・・と思えるほど数ヶ月、足が遠退(とおの)いていた。
『お帰りなさい!』
玄関へ出迎えに出たのは沙希代ではなく小次郎だった。いつもは沙希代だったから、里山としては予想外である。
「沙希代は?」
『奥さん、先ほど出られました。これ、奥さんから…』
小次郎は玄関フロアに置かれた小片のメモ用紙を口で加えると里山に渡そうとした。里山は屈(かが)むと、その用紙を受け取って開いた。
━ 週間MONDAYの茶水さんとかいう記者さんから電話が入り訊(き)きたいことがあるそうなので、近くの喫茶・野豚へ行ってます。数十分で、すぐ戻ります ━
里山は小次郎にも聞こえるように声を出して読んだ。そして、ああ! お茶の水に住んでる茶水か…と、インタビューで割り込んだ男の顔を思い出した。小次郎は小次郎で、いよいよ僕が始動するときだな…と気を引き締(し)めた。
第②部 <始動編> 完