二日後、駒井の心配は現実になった。週刊各誌が小次郎を<話す猫! 現る>というスクープ記事として取り上げたのである。それは里山にとって、駒井とは逆に願ったり・・の進行だった。それにしても、いつかのように家の前の取材には来ないが…と、少し当て外れの感は否めなかった。まあ、これからか…と、用もないのに里山は玄関に出ようとした。
『誰も来てないようですよ…』
小次郎が里山の気持を推(お)し量(はか)ったように、すれ違いざまに言った。
「…」
里山は期待が外れた馬鹿顔で週刊誌を片手にキッチンへ戻(もど)った。
「騒がれてるみたいね、小次郎…」
沙希代が、いつものように晩酌用の突き出しの小鉢をテーブルへ置きながら言った。すでに何日か熱帯夜が続き、里山は通勤でパテぎみだった。小次郎もクーラーの風が流れ落ちる位置へ寝床を変えていた。まあ、キッチンの片隅には違いなかったのだが…。
「ああ…、そのようだ」」
『そのようです…』
小次郎が続けたあと、注がれたビールのコップをグイッ! とひと口、飲み干し、里山は週刊誌を見た。 注がれたビールのコップをグイッ! とひと口、飲み干し、里山は週刊誌に目を通した。期待感もあったが、この先、どうなっていくのか…といった漠然(ばくぜん)…という漠然とした不安も少しあった。期待感もあったが、この先、どうなっていくのか…といった漠然(ばくぜん)…という漠然とした不安も少しあった。
「なるようにしか、ならないのよね…」
里山も小次郎も沙希代にしては上手(うま)く言ったな…と思った。
「それが、どうかしましたか?」
駒井は困るのだろうが、里山としては御の字なのだ。それでなくても、この話は立ち消えか…と、テンションを下げていたところだったのだ。週刊誌で騒がれて、小次郎が一躍、話題の人ならぬ話題の猫ともなれば、里山にとってこれはもう、願ったり叶(かな)ったりの進行だった。
[私が困るんですよ。それに制作部全体が…]
「開き直られるしかないでしょうよ、本当なんですから。言いましたように、器用な猫もいるもんですを押しとおされればいいんです。依頼があれば、どんな番組にでも出演させていただきますから…」
[バラエティ番組でも、よろしいですか?]
「ええ、なんでも…。視聴者もスタジオで小次郎が話す映像を見ればヤラセじゃないって分かるでしょう」
[ああ、そういう手も…。部長と話してみます。貴重なご意見をどうも…]
「いやぁ~」
里山は自分の思った方向に進んでいることに安堵(あんど)した。
「なんとか、そこを穏便には…」
駒井は見えない相手に片手で祈って懇願していた。
[いやあ~私、一存では…。ヤラセか調べてくれ・・っていう問い合わせ電話も昨日ありましたから。反響が大きかったですからね。それに、うちも一度、この猫の件では取材に行ってますしね。あなたも、おられたじゃないですか]
「はあ、それはまあ…」
いつやらの里山宅へ押しかけての囲み取材のことだ…と駒井は思った。
ヤラセの問い合わせは局にも多かった。ネットのカキコミもすごい。器用な猫もいるもんです、ははは…と笑ってヤラセを否定していた駒井だったが、やはりこうなったか…と、放送したことを悔(くや)やんだ。
放送局がそんなことになっていようとは里山は露ほども知らなかった。その夕方、少しテンション低めの里山が玄関の門を潜(くぐ)ったとき、落ち葉を掃いていた沙希代が声をかけた。
「お帰りなさい。さっき、テレビ局から電話があったわよ」
「ほう…そうか」
ダジャレではなかったが、里山は、ついそう言った。携帯へかけりゃいいのに…と思えたからだ。里山は普段着に着がえると、さっそく携帯を手にした。
「どうしました。駒井さん」
[実は里山さん、記事が週刊誌に載(の)るようなんですよ]
駒井の声は逼迫(ひっぱく)していた。
『ええ、まあ…。その方向みたいですね』
小次郎としては肯定して頷(うなず)くしかなかった。
「なんだ、聞いていたのか…」
沙希代が熟睡しているとばっかり思っていた里山は、ある意味で心強かった。この先、自分がどうなっていくか、もう一つ自信がなかったのだ。
それから、ほぼ一週間が経った。それまで連日、テレ京の電話は鳴りっぱなしだったが、数日後にはさすがに少し減り、次の週前には、数件にまで激減した。テレ京の駒井としては、やれやれだった。当然、それは制作部長の中宮にも言えた。数日、かかってきた駒井からの電話もかからなくなった里山としては、やや予想外である。この程度か…と、課長席に座りながら自分の携帯を弄(まさぐ)っては見つめた。
「課長、元気がありませんね。どうかされました?」
課長補佐の道坂が心配そうに里山の顔を覗(のぞ)き込んだ。里山は道坂がデスク前に立っていることも見逃していたのである。
「ああ、君か…。いや、なんでもない」
里山はすぐ携帯を背広へ戻(もど)すと、机上の書類へ目を落とした。
この頃、テレ京の駒井は、ある電話に対応していた。相手は週間文秋の矢崎だった。
「そうですか…。記事にされると、立場上、私が困るんで」
[いや、うちが止めても各社は出しますよ、駒井さん。特別枠で…]
矢崎は声高に言い切った。
小一時間後、沙希代が起き出してキッチンで動き出した頃、また電話があった。恐らく、また電話がかかるだろう…と予想した里山は寝室から出て洗面台で顔を洗っていた。眠気を何度もジャブジャブと水洗いすることで眠気を消そうとしていた。実は、駒井の電話以降、眠れなかったのだ。里山が顔を拭(ふ)き終わったとき、小太郎と話をする沙希代の声が響いて届いた。
「奥さん、僕もいよいよ華々しくデビューするかも知れませんね」
「ほほほ…そうね。あの人の今朝の電話だと、どうもそのような雲行きよ」
熟睡していたが、沙希代のやつ、聞き耳を立てていたか…と、里山は一本、取られた思いがした。
「僕もスターになれますかね?」
「そりゃ、間違いないわ。人間の言葉が話せる猫なんて、世界にあなただけなんだから…」
里山にとって少し厄介(やっかい)に思えたのは、沙希代がえらく乗り気になっていることだった。このままでは小次郎人気で首尾よくいったとしても、マネージャーの座を沙希代に盗られる可能性すら出てきた。ここはなんとしても 飼い主は自分だ! と示す必要が里山にはあった。
「よう、ご両人! えらく盛り上がってますな…」
里山は沙希代と小次郎の会話に横槍(よこやり)を入れた。
「なによっ! 文句あるのっ。電話じゃ、これからは小次郎さまさまになるんでしょ? ねぇ~~」
沙希代は小次郎の頭を撫(な)でながら小次郎に同意を求めた。
次の朝、まだ薄暗い闇(やみ)に電話音が祁魂(けたたま)しく鳴り響いた。寝室の携帯ではなく、家の電話だった。
[え、偉(えら)いことです、里山さん!!]
その声は紛(まぎ)れもなくテレ京のプロデューサー、駒井だった。
「どうしましたっ!!」
一応、驚いた素振りの声は出したが、里山にはそうなるであろう大よその状況は予想できていた。
[朝から局へ、番組の電話がひっきりなしなんですよっ!!]
電話対応に追われる賑やかな会話音が駒井の声に混ざって受話器から聞こえてくる。里山は、OKだ! と瞬間思え、よしっ! とひと声、発した。
[えっ!?]
駒井は意味が分からず訊(たず)ねた。
「いや、なんでもないです。それは弱りましたね。『器用な猫もいるもんです、ははは…』とでも言っておかれればいいんじゃないですか?」
咄嗟(とっさ)に口から飛び出した言葉だっだが、里山は我ながら上手(うま)く言えた…と思った。
[それ、いいですねっ! いただきましょう!]
駒井としては、まだヤラセと言われた場合の対応を考えていなかったから、すぐ飛びついた。
「どうぞ、どうぞ…。また、状況をご連絡下さい」
大きな欠伸(あくび)をしながら眠そうに里山は電話を切った。夏前だから寒くはなかったが眠かった。沙希代は寝室で寝息を立てている。電話音ぐらいでは起きない図太い根性の持ち主だから、里山はある意味で師匠として尊敬していた。自分も肖(あやか)りたい図太さだった。
「来週の木曜、七時からということで…。ああ、里山さんの場面は七時半ぐらいになろうかと思います。では…」
携帯はプツリ! と切れた。
放送当日、里山は早めに会社から帰った。そして、夕食後、いよいよその時間になると、身を乗り出して居間のテレビ画面に釘づけになった。もちろん、沙希代も小次郎もテレビの前にいた。
駒井に言われていた七時半過ぎ、里山が撮ったテープが流れ始めた。その映像を見守るゲスト出演者の表情が画面隅に小さな写真ほどの大きさではめ込まれている。
[わぁ~~! 話してる、この猫!]
出演者の声が、テープに混声した。瞬間、黙って見てくれ! と、里山は祈りたい気分になった。誰でもそう言うだろうとは里山も思っていたが、ここは俺の将来に関わる正念場なんだ…という緊迫した気分だった。小次郎が考えた①人間語を話せることを言う→②人間語で話すVをテレ京へ送る→③家では異動話を内緒にし、会社で断ってもらう・・という順序策の①、②はクリアされたのだ。あとは③に繋(つな)がる成果が得られるかどうかの瀬戸際なのである。それは視聴者の反応に委(ゆだ)ねられていた。反応がよければ、計画どおり里山は小次郎のマネージャーとなって支店への異動を断って会社を円満退社できるのだ。この画面を見て、全国各地の視聴者がどう思うか・・に里山の全(すべ)ては、かかっていた。
コトは以外と早く進行した。駒井から電話が入ったのは、それから数日後の夜だった。
風呂上がりに沙希代の一品で軽くビールを飲んでいたとき、テーブルの上に置いた里山の携帯が激しく震動した。バイブ機能にしてあったのは、どうも最近、驚くことが多い里山が、風呂上りぐらいは気がねなく一杯をと、つい思ったからだった。
「はい、駒井です…」
[あっ! 夜分、どうも…。テレ京の駒井です。言っておりましたアノ件でお電話させていただきました。お預かりしたテープなんですが、最終選考の結果、ダントツで正式採用となりました。来週の木曜に流させていただきます。どうも、有難うございました。局の方から後日、お礼の寸志は送らせていただきますので…]
「いえいえ、こちらの方こそ…」
[ははは…部長にアノ事実は言ってないんですがね。私も腹を括(くく)りましたよ、里山さん。え~~と、なんと言いましたかね、猫ちゃんは…]
「小次郎ですか?」
[そう! その小次郎君と自爆ですよ、ははは…]
「そんな大げさな…」
[いやぁ~反響がね、どう出るか分かりませんので。恐らく、ヤラセか! とかの批判が多くなると思えましてね…]
「はあ…」
里山は慰(なぐさ)めの言葉が出なかった。
駒井は視聴者ばかりではなく部長対策もせねばならなかった。もし、中宮に真実を話せないと、恐らく里山のテープはボツになるだろう。
━ 私の立場が分かってるのかね、駒井君! 責任とらされるのは私なんだよ! ━
駒井の脳裡に中宮の言いそうな言葉が不協和音のように響いた。
「いえ、別に…。里山さん、これで終わらせていただきます…」
駒井は暈(ぼか)した。
「といいますと、帰ってよろしいんですか?」
「ええ、もちろん。里山さん…これ、食券です。適当にお食事をしてお帰り下さい…」
駒井は里山に局食堂の食券を何枚か手渡そうとした。
「はあ…。それで放送日は、いつですか?」
「あっ、それですか。正確な日時は今、言いかねますが、放送日前日までには必ずお電話をさせていただきます」
「ああ、さよですか…」
里山は食券を受け取りながらそう言うと、キャリーボックスを手にして歩き始めた。
「ここで失礼させていただきます。ご苦労さんでした…」「御疲れさまでした…」
中宮が軽く頭を下げ、そのあと駒井も合わせて里山を送り出した。里山は食堂で適当に食べ、帰宅した。キャリーボックスの中の小次郎には、持参の猫缶を与えておいた。人間食に例えれば、まあそれなりの献立(こんだて)である。小次郎にとっては好物だったから、文句などある訳がなかった。
「どういうことです?」
「いつやら少し言ったと思うんですが、ヤラセと思われないように、どう視聴者に説明するかなんですよ。あのテープが流れれば、おそらく、電話が殺到すると思うんですよ。それに、どう答えてよいものか…」
「ありのまま説明されれば、いいじゃないですか」
「そら、そうなんだろうけど…」
駒井は長めの髪の毛を掻(か)き毟(むし)った。その顔には厄介なことになってきた…という戸惑いが隠せない。駒井は最初、里山が、[実は、あのテープ、加工したものなんです。すみません…]などと言うに違いないと軽く見ていたのだった。それが、現代科学では考えられない事実を見せつけられたのだ。頭が混乱するのも無理がなかった。そのとき、コンコン! とドアをノックする音がした。
「いいかね?」
「はい、どうぞ!」
駒井の声で入ってきたのは、制作部長の中宮だった。
「どうだね、駒井君?」
中宮は首筋のネクタイを締め直しながら駒井に訊(たず)ねた。
「ああ、それはOKなんですが…」
駒井は口 籠(ごも)った。小次郎が人の言葉を話せる・・とは、とても尋常の精神状態で言えなかった。
「んっ? なにか、問題があるのかな?」
にっこりと微笑(ほほえ)んで中宮は言った。里山とキャリーボックスの中の小次郎は神妙に二人の遣り取り聞くばかりだった。