今日は、大阪市内です。
なにわ筋近くを南に向かって歩きました。
中之島の辺りですが、この様な碑がありました。
逆櫓の松跡とあります。
平家物語によれば、1185年2月、源義経は平家を討つため、京都を出発し、摂津の国渡辺、福島から四国に八島に舟で急襲しようとしたそうです。
この時、評議した場所が、この辺りとされていると言います。
江戸時代には、幹の形が蛇の様な樹齢1000年を超える松が生えており、義経らの評議の内容から逆櫓の松と言ったそうです。
なにわ筋を南に向かって歩きました。
トウカエデの並木です。
靱公園付近まで来ました。
立派なクスノキが生えています。
靱公園です。
靱公園の中には、こんな碑がありました。
江戸時代には、この辺りは海産物の市場があったそうです。
この名残は、1931年の大阪市中央卸売市場の開場後に閉鎖されるまで続いていた様です。
その後、1945年の大阪大空襲で、この一帯は焼け野原なり、戦後は占領軍の常用飛行場として靱飛行場なったそうです。
そして、1952年の講和条約発効から2ヶ月後に、飛行場敷地は大阪市へ返還され、戦災復興事業によって1955年に靱公園が開園したと言う事です。
都市公園としては、日比谷公園ほど古くはありませんが、逆に歴史を感じます。
園内のツバキです。
なにわ筋近くを南に向かって歩きました。
中之島の辺りですが、この様な碑がありました。
逆櫓の松跡とあります。
平家物語によれば、1185年2月、源義経は平家を討つため、京都を出発し、摂津の国渡辺、福島から四国に八島に舟で急襲しようとしたそうです。
この時、評議した場所が、この辺りとされていると言います。
江戸時代には、幹の形が蛇の様な樹齢1000年を超える松が生えており、義経らの評議の内容から逆櫓の松と言ったそうです。
なにわ筋を南に向かって歩きました。
トウカエデの並木です。
靱公園付近まで来ました。
立派なクスノキが生えています。
靱公園です。
靱公園の中には、こんな碑がありました。
江戸時代には、この辺りは海産物の市場があったそうです。
この名残は、1931年の大阪市中央卸売市場の開場後に閉鎖されるまで続いていた様です。
その後、1945年の大阪大空襲で、この一帯は焼け野原なり、戦後は占領軍の常用飛行場として靱飛行場なったそうです。
そして、1952年の講和条約発効から2ヶ月後に、飛行場敷地は大阪市へ返還され、戦災復興事業によって1955年に靱公園が開園したと言う事です。
都市公園としては、日比谷公園ほど古くはありませんが、逆に歴史を感じます。
園内のツバキです。