我が国はいつ、どのように建国されたのか?
(神武即位は西暦181年)
神武即位が181年という仮説が、他の史実や文献と矛盾が生じないか、八木氏は子細に検討する。
まず、この時代には、朝鮮半島には楽浪郡や帯方郡といった中国側の出先機関が設けられていた。朝鮮半島でのいわば植民地統轄拠点だが、倭国に関する情報は郡庁で整理されて、首都・洛陽に送られていたとみられる。倭国に神武東征のような大きな戦乱があれば、その情報がここを通じて、中国に伝えられていたのは当然だろう。
また『後漢書』によれば、西暦107年に倭国王「師升(すいしょう)」が生口(使用人)160人を後漢の安帝に献じた。これだけの人数を使節、衛兵とともに中国に送れるだけの船が作れたのであるから、その70年ほど後に、神武天皇が船団を組んで瀬戸内海を渡ったというのは、技術的にも経済的にも十分、可能な事であった、と考えられる。
次に歴代天皇の在位年数で見てみると、神武天皇即位を181年とすると、昭和の末年までで1880年であり、これを125代で割ると、天皇一代あたりの平均在位年数は14.5年となる。天皇の即位年が文献上、正確に分かるのは聖徳太子の父君である第31代用明天皇であり、その即位から昭和天皇の崩御まで94代で計算すると、平均在位年数は14.9年となる。
神武即位からの14.5年は、これに比較すると0.4年短いが、古代の平均寿命が短かったと考えれば、ほぼ妥当な数字と言える。神武即位は西暦181年という仮説は、技術や経済の発展段階、および、内外の文献上ともうまく整合するのである。
(邪馬台国と大和の国)
残る問題は、魏志倭人伝では倭国大乱の後に卑弥呼が共立されたという邪馬台国と、記紀で神武天皇が即位して建国した大和の国との関係である。
まず注意すべきは、神武東征軍が制した版図は、奈良盆地の南半分でしかなかった、という事である。東征軍が戦った地元勢との戦いの記録は、ほぼこの地域に限られている。
また初代神武天皇から第8代孝元天皇まで、各代で建設された宮殿は、すべて奈良盆地の南三分の一ほどの地に限られていた。さらに第5代孝昭天皇を除いて、第8代まではいずれも正妃は奈良盆地南部から迎えている。ようやく建国された大和の国は、第8代までは奈良盆地の南半分を版図とする小国だったのだ。
それに対して、魏志倭人伝によれば、卑弥呼の邪馬台国は7万余戸と伝えられ、人口は50万人ほどもあったと推定される。同時代に魏に滅ぼされた燕の国は戸数4万というから、邪馬台国はその2倍近い大国である。
卑弥呼は239年に倭国連合の盟主として魏に使節団を送り、魏はこれに応えて「親魏倭王」の金印と銅鏡100枚を送った。この称号も大量の銅鏡も、史上例のない厚遇であった。魏としては呉、蜀への対抗上、強大な邪馬台国をぜひとも味方につけておく必要があったのだろう。
この銅鏡は東は群馬から西は島根、山口まで、複製品を含めて9枚が出土しているが、これは卑弥呼が倭国連合に属する国ぐにに自らの権威づけのために贈ったものと見られる。邪馬台国は九州にあったという説と、近畿地方にあったという説があるが、銅鏡の出土地域を考えれば、後者が有力と考えられる。
(邪馬台国 対 大和の国)
魏志倭人伝によれば、247年には邪馬台国はその南に位置していた狗奴(くな)国から激しい攻撃を受け、魏の救援をあおぐ。魏は軍事顧問というべき武官を派遣するが、その戦いの最中に卑弥呼は亡くなる。あとを継いで第2代女王・壱与(いよ)が共立され、266年には魏に使いを出すが、これを最後に邪馬台国は幻のように消えてしまう。
邪馬台国が大和の国だった、というのが、従来、有力な説だったが、卑弥呼-壱与のように女王が2代続くことは皇室ではありえない。邪馬台国を南部から攻撃した狗奴国こそ神武天皇の建国した大和の国だった、というのが、八木氏の仮説である。狗奴は「熊野」であり、神武天皇は熊野から大和盆地に入ったからである。
邪馬台国の壱与が隋に最後の使いを出したのが266年。先の平均在位年数14.5年から計算すると、第8代孝元天皇の即位が257年前後と推定される。その次の開化天皇は奈良盆地南部から一挙に飛び出して、その北端、奈良市春日の地に宮殿を構え、正妃も初めてこの地から迎えた。さらに山背(やましろ、京都府)や北河内(大阪府)の豪族の娘を迎えている。
したがって第8代孝元天皇の時代に大和の国は邪馬台国を併合し、それまで奈良盆地南部の地方国家だったのが、一挙に京都府南部、大阪府北部に至る地域に勢力を広げた、と考えられるのである。
神武天皇は天照大神の子孫であることを自覚し、その志を継いで「天地四方、八紘(あめのした)にすむものすべてが、一つ屋根の下の大家族のように仲よく暮らす」ことを目的として、皇位についた。
そうした志からすれば、中国の権威を借りて、その服属国の盟主として国内の実権を維持しようとした邪馬台国とは建国の理念そのものが異なるのである。大和の国がその理念を追求しようとすれば、邪馬台国は共に天を戴くことのできぬ国であったろう。この点から見ても、八木氏の仮説は説得力を持つのである。
(文責:「国際派日本人養成講座」編集長・伊勢雅臣)
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