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元寇 ~鎌倉武士たちの「一所懸命」(前編)

2021年06月24日 | 歴史
蒙古の大軍から国土を守ったのは、子々孫々のためには命を惜しまない鎌倉武士たちだった。

(フビライからの手紙)
1268年正月、蒙古帝国第5代皇帝フビライからの手紙が朝鮮半島の高麗からの使者によって、日本にもたらされた。

ねがわくば、今より以後、通商して好(よしみ)をむすび、もって相親睦しようではないか。なお、聖人は四海を家となすものであるが、日本が蒙古に通好しないならば、それは一家のうちではないということであり、やむをえず兵を用いることもありうる。それは朕(ちん)の好むところではない。日本の王よ、そこのところをよく考えて欲しい。

高麗はこの30年ほど前の1259年、30年近くの戦いに敗北して、蒙古の属国となっていた。半島は蒙古軍の蹂躙(じゅうりん)にまかせられ、抵抗する高麗民衆は「骸骨野(がいこつの)に満つ」という辛酸をなめた。高麗の次は日本である。

南宋も、中国大陸南部に追い込まれていた。当時、日本と南宋の貿易が盛んであったが、日本との「海の道」を分断しておく必要があるとフビライは考えていた。

(仁なき交わりは)
当時の日本では、西園寺中納言実兼などが南宋との貿易で莫大な利益を上げており、形式だけなら属国となっても、巧みに交易して利益を上げればよい、という意見を財力を使って公家の間に広めようとしていた。

フビライの使いがあった2ヶ月後に18歳の北条家の当主、時宗が鎌倉幕府の最高責任者である執権の地位につく。来るべき蒙古襲来に備えた本格政権である。

時宗はフビライの国書を見ると、「これは無礼な」と眉を逆立てた。

大蒙古国皇帝奉書
日本国王
と、自国を上段に据え、さらに小さく「日本」と書いてあったからだ。「適当にあしらっては」との声にこう答えた。

礼なければ仁(おもいやり)なく、仁なき交わりは、禽獣(動物)の交わりにもおよびません。

時宗は京から蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)を呼んで意見を聞いた。蘭渓は南宋から逃れてきた多くの僧の一人である。

あっぱれのご覚悟。わが祖国の宋は、いまや北方の蛮族のため、国土の大半を侵略されました。それというのも、宋国の為政者が、蒙古の強大な兵力を恐れ、常に当面を糊塗(こと:一時しのぎにごまかしておくこと)する和平策に終始したため、その侮(あなど)りを受け、結局国土を守りきれなかったためでございます。

(蒙古襲来)
蒙古は国号を元と改め、度重なる使いを日本に送ったが、時宗が黙殺を続けると、ついに文永11(1274)年10月、蒙古2万、高麗8千の軍勢が900艘の大船で、対馬、壱岐を襲った。

高麗は長年の蒙古との戦いに国土を荒らされていた上に、大船の建造で、山という山は丸裸となり、さらに大軍の糧食(りょうしょく)の徴発も行われた。遠征軍は船に鋤(すき)や鍬(くわ)などの農具も積んでおり、日本占領後には、屯田兵として定住するつもりであった。

対馬では守護代がわずか80騎の手勢で、上陸した千人近い元軍に果敢に挑んだが、1、2時間で全滅した。元の兵は島民の多くを殺し、家を焼いた。壱岐では100騎余りが桶詰城(ひつめじょう)に立て籠もって、まる一日ほど善戦したが、ついに全滅した。住民の男は見つけ次第に殺され、女は捕らわれて掌に穴をあけられ、それに綱を通して、船べりに吊り下げられたという。

(「一所懸命」の武士)
元軍は10月20日、博多湾岸に上陸、1万に満たないと言われる九州一円の武士たちが迎え撃った。その中に兄弟、郎党5,6人とともに肥後(熊本)から馳せ参じたご家人・竹崎五郎兵衛季長(すえなが)がいた。季長は「一所の荒郷(土地の痩せた所)」武士である。この戦いで目立った働きをすれば、たとえ戦死しても恩賞として、妻子、子孫に所領が貰える。「一所」に命を駆ける「一所懸命」の武士であった。

季長は味方からもよく目立つように兜の後に赤い布を着け、本隊を離れて、わずか5騎で移動中の元軍の大軍に斬り込んだ。「先駆けの功名」は、敵を怯ませ、味方の戦意を鼓舞するものとして恩賞の対象になる。

季長一党は馬上から太刀や薙刀を振り回し、当たるを幸い敵を次々となぎ倒した。そのうち元軍も季長等がわずか5人と気がつくと、取り囲んで矢を射かけてきた。季長は腕や肩に矢を浴び、馬が竿(さお)立ちになって転げ落ちた。元の武将が青竜刀で斬りつけるのを、かろうじて太刀で受け止めた。あわや、これまで、と思われた時、後続する味方の一隊が「それ、者ども、味方討たすな」と駆けつけて危うい所で救い出された。

---owari---
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