我が国はいつ、どのように建国されたのか?
(日本の建国は、いつ誰によって行われたのか)
もうすぐ建国記念日。皇紀2665年、と言っても、知らない人が多いだろうが、紀元前660年元日の初代・神武天皇即位から、この2月11日で2665年目となるという事である。
そんな事を言うと、すぐに紀元前660年などというのは、皇室の歴史を引き延ばして政治宣伝をした古事記・日本書紀によるもので、嘘っぱちに決まっている、と切り捨てるのが、戦後の歴史学界の倣(なら)いだ。たとえば平凡社の世界大百科事典の「神武天皇」の項では:
日本書紀の記す紀年,辛酉年(かのととりのとし)(前660)即位,76年(前585)に127歳で没というのは史実をよそおった造作であり,6~7世紀の記紀神話形成期に今見るような形に物語化されたものであろう。
「史実をよそおった造作」などと、いかにも冷ややかな記述である。こういう冷たい視線で歴史を眺めなければ、客観的・学問的になれない、という思いこみがあるようだ。
それでは歴史事実として、日本の建国はいつ誰によって行われたのか、と疑問に思っても、具体的な記述はない。「史実をよそおった造作」と批判だけして、自分の説を示さないのは、日の丸・君が代を国旗・国歌と認めない、と因縁をつけながら、代わりの国旗・国歌を提案しない日教組とよく似ている。
こういう状況の中で、厳密な資料批判に基づいて、日本の建国の年代に関して合理的な仮説を提示した本が現れた。八木壮司氏の「古代天皇はなぜ殺されたのか」である。本号では建国記念の日を機に、読者を壮大な古代ロマンの世界に誘う八木氏の仮説をご紹介しよう。
(神武天皇127歳!?)
建国の年の推定に入る前に、まず「神武天皇が127歳で没した」という長寿の謎に挑戦してみよう。誰でも「そんな馬鹿な」と思い、そこから簡単に「造作説」に引き込まれてしまう。しかし、この異様な長寿が皇室の歴史を引き延ばすための「造作」という仮説では説明しきれない点がある。
確かに初代・神武天皇は日本書紀では127歳だが、第2代綏靖(すいぜい)84歳、第3代安寧(あんねい)57歳と「短命」となり、第4代懿徳(いとく)から第8代考元までは記載なしで、第9代開化天皇でようやく115歳と長寿に戻る。
歴史を引き延ばすために長寿を造作したという仮説なら:
「なぜ短命の天皇をわざわざ記載したのか? 歴史を引き延ばすためなら、神武127歳、安寧57歳とするより、両者92歳とした方が、より「史実」らしく見える。逆に長寿にした方が、天皇の神秘的権威が高まる、というなら、短命な天皇を記すことは逆効果だ」
「そもそも、なぜ年齢の記録のない天皇がいるのか? 歴史を引き延ばす事が目的なら、すべての天皇の年齢をでっち上げるはずだ」
「歴史を延ばすためには、天皇を異様な長寿にするより、もっと簡単で史実らしく見せる手がある。架空の天皇を何代もでっちあげて、系譜に挿入すればよい。世代数が増えれば、権威も増す」
日本書紀の編者たちは、こんな矛盾にも気がつかずに、単に非現実的な長寿を「造作」したほど、愚かだった、というのだろうか? それとも、長寿造作説が抱えるこの程度の単純な矛盾に気がつかない現代の歴史学者が愚かなのだろうか?
(「古代の日本では1年を春秋で2年と数えていた」)
この問題に対して、八木氏は中国の史書を丹念に調べ、有名な魏志倭人伝の原典となった「魏略(ぎりゃく)」という本に「その俗、正歳四節を知らず。ただ春耕秋収を計って年紀と為す」という一節があるのに注目する。「倭人は四季に基づく正しい暦法を知らず、春の耕作の始まりと、秋の収穫のときを数えて年数にしている」と言うのである。
ここから八木氏は、古代の日本人は春と秋に一年が始まる「二倍年」の暦を使っていたのではないか、と推察する。今の1年を春秋で2年と数える暦法である。とすれば、神武天皇127歳というのは、63、4歳にあたる。第3代安寧57歳は28、9歳で、まさに夭折(ようせつ)である。記紀(古事記・日本書紀)を通じて最も長寿とされた第10代崇神天皇が168歳であるから、これも84歳となり、ありえない年齢ではない。
おそらく記紀が編まれた8世紀頃には、すでに「倍年法」は忘れ去られていたのであろう。しかし、編纂者たちは伝えられた異様な長寿はその通りに記し、年齢が分からない天皇はそのまま不詳とした。それは伝承された歴史を、そのままに文字に記そうとする、きわめて学問的な態度であったのではないか。そういう人々にとっては、史実として伝えられていない架空の天皇を勝手に造作するなどという事は思いもよらない事だったのだろう。
八木氏の「倍年法」仮説なら、「長寿造作」仮説では説明のつかない前節の3つの疑問を簡単明瞭に説明できるのである。
(「辛酉革命説」への疑問)
日本書紀では神武天皇即位の年を紀元前660年としているが、この縄文の時代に、神武天皇が船団を組んで九州から大和に攻め込む、というのは、やはり非現実的だろう。日本書紀で、なぜこんなに古い年代を持ち出したか、については、古くからの定説がある。明治期の歴史学者、那珂通世(なかみちよ)のいわゆる「辛酉(しんゆう)革命説」である。
中国古代では、甲(きのえ)・乙(きのと)などの十干(じっかん)と、子(ね)・丑(うし)・寅(とら)などの十二支を組み合わせて、60年で一巡する暦法を採用していた。そしてその21巡目、すなわち1260年目の辛酉(かのと・とり)の年には、王朝が覆(くつがえ)される大革命の年になるという讖緯説(しんいせつ)なる俗説があった。
推古天皇9年(601年)が辛酉であり、その1260年前に大革命が起きたはずで、それが初代・神武天皇の即位の年であったに違いない、と設定した、というのである。
この説に対して、八木氏は2つの難点を挙げる。まず1260年毎に大革命があるという讖緯(しんい)説は、中国では社会不安を煽る俗説として、しばしば禁止されていた。日本書紀編纂に加わった当時一流の学者たちは、当然、この事を知っていただろうし、ましてや万世一系を意識する大和朝廷で、こんな不吉な俗説を正史に採用するとは考えられない、というのである。
また推古天皇9年も、聖徳太子が斑鳩の宮を建てたほかは、新羅との緊張が高まる程度の比較的平穏な年であった。とうてい王朝が覆るような大革命の年ではない。
従来の仮説では神武天皇即位を讖緯説によって1260年前に設定し、ここから歴代の天皇の治世を逆算して当てはめたために、無理な長寿が造作された、というものであったが、八木氏は逆に、倍年法で異様な長寿が伝えられており、それをそのままに建国の年代を推定したので、途方もない昔となってしまった、と考える。
(「倭国大乱」とは神武の東征)
さて、それでは神武天皇即位は何年だったのか。記紀によれば、神武天皇は幼名を狭野命(さののみこと)と申し上げ、現在の宮崎県高原(たかはる)町狭野(さの)に生まれた。長じて大八島(日本)の中心である大和に都を置こうと、宮崎市と延岡市の間にある美々津から船団を発し、宇沙(大分県宇佐市)、阿岐国(あきのくに、広島)、吉備国(きびのくに、岡山)を通られて、浪速国にたどり着いた。そこで地元勢に襲われて苦戦し、紀伊の国(和歌山)熊野を迂回して、吉野から大和に入り、辛酉の年の正月に初代天皇として即位した。その足跡が各地の地名や神社、祭り、物産となって今も残されている。
この神武東征の年代について、八木氏は魏志倭人伝の次の有名な一節に着目する。
その国、もとまた男子を以て王と為す。住(とど)まること七、八十年、倭国乱れ、相攻伐すること暦年、乃ち一女子を共立して王と為す。名は卑弥呼という。
倭国ではもとは男王が立っていたが、7,80年にして乱れ、戦いが何年か続いた後、卑弥呼を女王として共立した。この「倭国乱れ」こそ神武東征による戦乱が中国に伝わった記事なのではないか、というのが、八木氏の仮説である。
まず、この「倭国乱れ」はいつなのか。魏志倭人伝より約2百年後に書かれた『御漢書』では「桓・霊の間、倭国大いに乱れ」とあり、倭国の大乱を後漢の桓帝と霊帝の間(西暦146年から189年)としている。この間の辛酉の年は西暦181年であり、これが神武天皇即位の年だった、というのが八木氏の説である。
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(日本の建国は、いつ誰によって行われたのか)
もうすぐ建国記念日。皇紀2665年、と言っても、知らない人が多いだろうが、紀元前660年元日の初代・神武天皇即位から、この2月11日で2665年目となるという事である。
そんな事を言うと、すぐに紀元前660年などというのは、皇室の歴史を引き延ばして政治宣伝をした古事記・日本書紀によるもので、嘘っぱちに決まっている、と切り捨てるのが、戦後の歴史学界の倣(なら)いだ。たとえば平凡社の世界大百科事典の「神武天皇」の項では:
日本書紀の記す紀年,辛酉年(かのととりのとし)(前660)即位,76年(前585)に127歳で没というのは史実をよそおった造作であり,6~7世紀の記紀神話形成期に今見るような形に物語化されたものであろう。
「史実をよそおった造作」などと、いかにも冷ややかな記述である。こういう冷たい視線で歴史を眺めなければ、客観的・学問的になれない、という思いこみがあるようだ。
それでは歴史事実として、日本の建国はいつ誰によって行われたのか、と疑問に思っても、具体的な記述はない。「史実をよそおった造作」と批判だけして、自分の説を示さないのは、日の丸・君が代を国旗・国歌と認めない、と因縁をつけながら、代わりの国旗・国歌を提案しない日教組とよく似ている。
こういう状況の中で、厳密な資料批判に基づいて、日本の建国の年代に関して合理的な仮説を提示した本が現れた。八木壮司氏の「古代天皇はなぜ殺されたのか」である。本号では建国記念の日を機に、読者を壮大な古代ロマンの世界に誘う八木氏の仮説をご紹介しよう。
(神武天皇127歳!?)
建国の年の推定に入る前に、まず「神武天皇が127歳で没した」という長寿の謎に挑戦してみよう。誰でも「そんな馬鹿な」と思い、そこから簡単に「造作説」に引き込まれてしまう。しかし、この異様な長寿が皇室の歴史を引き延ばすための「造作」という仮説では説明しきれない点がある。
確かに初代・神武天皇は日本書紀では127歳だが、第2代綏靖(すいぜい)84歳、第3代安寧(あんねい)57歳と「短命」となり、第4代懿徳(いとく)から第8代考元までは記載なしで、第9代開化天皇でようやく115歳と長寿に戻る。
歴史を引き延ばすために長寿を造作したという仮説なら:
「なぜ短命の天皇をわざわざ記載したのか? 歴史を引き延ばすためなら、神武127歳、安寧57歳とするより、両者92歳とした方が、より「史実」らしく見える。逆に長寿にした方が、天皇の神秘的権威が高まる、というなら、短命な天皇を記すことは逆効果だ」
「そもそも、なぜ年齢の記録のない天皇がいるのか? 歴史を引き延ばす事が目的なら、すべての天皇の年齢をでっち上げるはずだ」
「歴史を延ばすためには、天皇を異様な長寿にするより、もっと簡単で史実らしく見せる手がある。架空の天皇を何代もでっちあげて、系譜に挿入すればよい。世代数が増えれば、権威も増す」
日本書紀の編者たちは、こんな矛盾にも気がつかずに、単に非現実的な長寿を「造作」したほど、愚かだった、というのだろうか? それとも、長寿造作説が抱えるこの程度の単純な矛盾に気がつかない現代の歴史学者が愚かなのだろうか?
(「古代の日本では1年を春秋で2年と数えていた」)
この問題に対して、八木氏は中国の史書を丹念に調べ、有名な魏志倭人伝の原典となった「魏略(ぎりゃく)」という本に「その俗、正歳四節を知らず。ただ春耕秋収を計って年紀と為す」という一節があるのに注目する。「倭人は四季に基づく正しい暦法を知らず、春の耕作の始まりと、秋の収穫のときを数えて年数にしている」と言うのである。
ここから八木氏は、古代の日本人は春と秋に一年が始まる「二倍年」の暦を使っていたのではないか、と推察する。今の1年を春秋で2年と数える暦法である。とすれば、神武天皇127歳というのは、63、4歳にあたる。第3代安寧57歳は28、9歳で、まさに夭折(ようせつ)である。記紀(古事記・日本書紀)を通じて最も長寿とされた第10代崇神天皇が168歳であるから、これも84歳となり、ありえない年齢ではない。
おそらく記紀が編まれた8世紀頃には、すでに「倍年法」は忘れ去られていたのであろう。しかし、編纂者たちは伝えられた異様な長寿はその通りに記し、年齢が分からない天皇はそのまま不詳とした。それは伝承された歴史を、そのままに文字に記そうとする、きわめて学問的な態度であったのではないか。そういう人々にとっては、史実として伝えられていない架空の天皇を勝手に造作するなどという事は思いもよらない事だったのだろう。
八木氏の「倍年法」仮説なら、「長寿造作」仮説では説明のつかない前節の3つの疑問を簡単明瞭に説明できるのである。
(「辛酉革命説」への疑問)
日本書紀では神武天皇即位の年を紀元前660年としているが、この縄文の時代に、神武天皇が船団を組んで九州から大和に攻め込む、というのは、やはり非現実的だろう。日本書紀で、なぜこんなに古い年代を持ち出したか、については、古くからの定説がある。明治期の歴史学者、那珂通世(なかみちよ)のいわゆる「辛酉(しんゆう)革命説」である。
中国古代では、甲(きのえ)・乙(きのと)などの十干(じっかん)と、子(ね)・丑(うし)・寅(とら)などの十二支を組み合わせて、60年で一巡する暦法を採用していた。そしてその21巡目、すなわち1260年目の辛酉(かのと・とり)の年には、王朝が覆(くつがえ)される大革命の年になるという讖緯説(しんいせつ)なる俗説があった。
推古天皇9年(601年)が辛酉であり、その1260年前に大革命が起きたはずで、それが初代・神武天皇の即位の年であったに違いない、と設定した、というのである。
この説に対して、八木氏は2つの難点を挙げる。まず1260年毎に大革命があるという讖緯(しんい)説は、中国では社会不安を煽る俗説として、しばしば禁止されていた。日本書紀編纂に加わった当時一流の学者たちは、当然、この事を知っていただろうし、ましてや万世一系を意識する大和朝廷で、こんな不吉な俗説を正史に採用するとは考えられない、というのである。
また推古天皇9年も、聖徳太子が斑鳩の宮を建てたほかは、新羅との緊張が高まる程度の比較的平穏な年であった。とうてい王朝が覆るような大革命の年ではない。
従来の仮説では神武天皇即位を讖緯説によって1260年前に設定し、ここから歴代の天皇の治世を逆算して当てはめたために、無理な長寿が造作された、というものであったが、八木氏は逆に、倍年法で異様な長寿が伝えられており、それをそのままに建国の年代を推定したので、途方もない昔となってしまった、と考える。
(「倭国大乱」とは神武の東征)
さて、それでは神武天皇即位は何年だったのか。記紀によれば、神武天皇は幼名を狭野命(さののみこと)と申し上げ、現在の宮崎県高原(たかはる)町狭野(さの)に生まれた。長じて大八島(日本)の中心である大和に都を置こうと、宮崎市と延岡市の間にある美々津から船団を発し、宇沙(大分県宇佐市)、阿岐国(あきのくに、広島)、吉備国(きびのくに、岡山)を通られて、浪速国にたどり着いた。そこで地元勢に襲われて苦戦し、紀伊の国(和歌山)熊野を迂回して、吉野から大和に入り、辛酉の年の正月に初代天皇として即位した。その足跡が各地の地名や神社、祭り、物産となって今も残されている。
この神武東征の年代について、八木氏は魏志倭人伝の次の有名な一節に着目する。
その国、もとまた男子を以て王と為す。住(とど)まること七、八十年、倭国乱れ、相攻伐すること暦年、乃ち一女子を共立して王と為す。名は卑弥呼という。
倭国ではもとは男王が立っていたが、7,80年にして乱れ、戦いが何年か続いた後、卑弥呼を女王として共立した。この「倭国乱れ」こそ神武東征による戦乱が中国に伝わった記事なのではないか、というのが、八木氏の仮説である。
まず、この「倭国乱れ」はいつなのか。魏志倭人伝より約2百年後に書かれた『御漢書』では「桓・霊の間、倭国大いに乱れ」とあり、倭国の大乱を後漢の桓帝と霊帝の間(西暦146年から189年)としている。この間の辛酉の年は西暦181年であり、これが神武天皇即位の年だった、というのが八木氏の説である。
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