⑳今回は「作家・津本陽さん」によるシリーズで、織田信長についてお伝えします。
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「儂は南部東大寺の密蔵第一の重宝、蘭奢待(天下第一の名香と謳われる伝説の香木)をば所望いたしおるでのん。お許しが出たならば、そのほうどもも同道して、奈良に下向いたせ」
宗久たちは、信長の言葉に息をのんだ。
名香蘭奢待は、東大寺正倉院に秘蔵されている、唐、天竺にまで聞えた名香であった。
かつて足利義政が寛正六年(一四六五)に、本法に従い一寸八分を拝領したことがあるが、その後有余年のあいだは、歴代将軍の所望があっても勅許(ちょっきょ:天皇の許可)されずにきた。
それを、信長が所望するというのである。
多簡院英俊の日記によると、「惣ノ長サ五尺、丸サ一尺ホドノ木ナリ」といわれる蘭奢待は、その文字のなかに東、大、寺の三字が隠されている。
歴代将軍家でさえ拝領の勅許がなされなかった稀代の名香を、信長が得ることができれば、彼の権威は、将軍を超えたことになる。
(現在までに蘭奢待を切りとったのは、足利義政、織田信長、明治天皇である)
信長は二十三日に、蘭奢待拝領の希望を禁裏(きんり:御所)へ奏聞(そうもん:天皇に申し上げること)していた。彼がそうするのは、朝廷に対し不満があったためである。
将軍義昭を追放して、すでに半年が経っていたその頃、京都では信長が関白か、大政大臣になるだろうとの噂が高かった。
信長がひそかに禁裏(御所)へはたらきかけ望んだ官位は、征夷大将軍である。中央政権を樹立した信長は、将軍にふさわしい権力を手中にしていた。
だが公家社会は、信長の武家政権がなお強力になるのを嫌い、将軍になるには源氏でなければならないという理由で拒否した。
平氏は平清盛の公家一統の政治方針にならい、将軍にならず、幕府もひらかなかった前例がある。
信長は、尾張の国王であった頃は、藤原姓を名乗っていたが、上洛ののちは平信長とあらためた。
武家社会には、源平交替思想が伝統として信奉されている。信長は源姓の足利将軍家にかわり、天下の政権を掌握するために、平姓を名乗ったのを逆手にとられ、将軍の座につくのを妨げられたわけである。
平氏幕府創始の希望を達せられなかった信長は、鬱積(うっせき)する不満のはけ口として、蘭奢待を所望し、公家社会を成圧しようとした。
禁裏では、二十六日に信長に勅許を下した。
(『下天は夢か 1~4』作家・津本陽より抜粋)
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