⑰今回は「作家・津本陽さん」によるシリーズで、織田信長についてお伝えします。
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一信盛(のぶもり)は長閑(のどか)に申しいれた。
「私はかねて主人信長に恨みを抱いている。ついては、このたび勝頼公が信長と決戦されるとき、私は戦いの最中に裏切り、織田本陣をついて信長を討ちとるであろう」
佐久間信盛は当時、織田家随一の重臣であった。
「甲陽軍艦」では、設楽原(したらがはら)出陣のとき、信盛と家康がそれぞれ六千の兵を率いていたとしているが、同列の軍団長といえる地位にいたようである。
信盛麾下(きか)の寄騎(よりき:有力武将に従う下級武士)には、水野信元がいた。家康の外伯父であるが、天正三年十二月二十七日に、武田勝頼への内応の容疑で、信長の命で家康に殺される人物である。
水野信元は信玄存命の頃から、武田家に心を寄せていたようで、三方ケ原合戦のときにも、織田家援軍として戦場に向ったが、到着が遅れ、内通の噂が立ったことがある。
佐久間信盛も織田信秀以来の老臣として、とかくさしでロをききたがり、信長に疎(うと)まれている。
信盛には謀叛(むほん)のきぎしはないが、信長は勝頼をだますには格好の人物であると、考えたのではあるまいか。
信盛を用いての謀略(ぼうりゃく)が、真実であったか否かは分らない。信長と首脳の将領(しょうりょう:軍を指揮する人)たちが秘密のうちに運んだことである。
ただ、信長は決戦のまえに断言していた。
「四郎はきっと、ひとすじに押してくるだでや」
武田勢が設楽原に攻め寄せてくるとの確信を、信長は何によって得たのか。
信盛ではなくとも、有力な織田軍団の部将が、戦いのさなかに寝返りをうつと勝頼をだましていた事実が、あったにちがいないと思われる。
(私は設楽原をおとずれたとき、戦場となった地域の、想像をうわまわる狭隘(きょうあい:せまいこと)な窪地(くぼち)であるのにおどろかされた。現在は当時よりいくらか平坦になっているといわれるが、それでもいたるところに小丘あり段差あり、とても騎馬軍団が疾駆(しっく:馬に乗って速く走ること)できるような地形ではない。
そのような場所へ、武田勢が突撃してゆくのは、正気の沙汰とは思えない。勝頼は、もっと有利な条件で戦う機会をえらぶことができたのに、なぜ自ら破局に向っていったのか。やはり彼の判断を迷わすだけの誘引を、信長が仕掛けたのであろう)
(『下天は夢か 1~4』作家・津本陽より抜粋)
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