(この世の「常識」は「神の真実」とかけ離れている)
二十一世紀初頭において「常識」とされていることが、実は「神の真実」とは非常にかけ離れています。
教育においても、高等教育になってきたら、「教育の場からは、信仰や神、真理という宗教的なるものは追い出し、サイエンスの名においてまとめられるような学問以外は教えてはならない」というようなことが、普通になりつつあります。
もしかしたら、その考え方は、タリバンに怯(おび)えているイスラムの少女たちにとって福音になるかもしれません。彼女たちが、「顔を隠し、勉強することに怯えなければならない」という世界から逃れることができるならば、それは福音となりましょう。
しかし、教育のなかから信仰を放逐(ほうちく)してしまうのであれば、これもまた、大きなものを見失うことになるのではないかと思います。
さらには、近代の政治においても、いろいろな政治的テクニックや原理が発明されることによって、まるで「神なき時代」を生きるかのように、人間だけでさまざまなものが決めていけるようになってきました。それはそれなりに、一つの知恵ではありましょう。
確かに、神なき時代には、王様が神の代わりに国を統治していたこともありましたし、悪王のために、数多くの人たちが苦しんできたことも事実です。歴史的には、悪王のほうが多かったかもしれません。
そういう不幸を避けるために、「民主主義」という制度が成立してきたのです。
ただし、気をつけないといけないのは、人間の考えたことが、神の創られた世界や、神の創られた真理、宇宙のルールをも破壊する方向へと行きかねない事態が出ているということです。
近代啓蒙(けいもう)時代においては、神そのものや、神の化身であった方々をも、数多く処刑台に送ったのではないでしょうか。それが、近代の政治学の流れであったと思われます。
しかし、地上の人間では、真実の善悪を判断するだけの智慧は出てきません。その真理を理解するのに、数百年、あるいは、千年以上の時間がかかることさえあるのです。
そのため、「現代において、同時代において、誤解されるから、そんな話は説かないほうがいい。真理を引っ込めたほうがいい。“槍”を隠し、笑顔だけで人々と仲良く過ごしているように見せたほうがいい」と考える人もいるでしょう。
「信仰を隠し、神の真理を隠し、宗教的信条を隠して、職業的成功や、この世的な調和だけを取ったほうが、よほど利口ではないか」と考える人が数多くなってくることも、ある意味では理解できます。
ただ、残念です。非常に残念です。
「人間のそもそもの成り立ち」「なぜ人間が生まれ、生きてきたのか」「なぜ歴史をつくってきたのか」「なぜ現在、存在するのか」、こうしたことを説明できないままに、わずか数十年の人生をよりよく生きることのみが最高善であるならば、また、それが学問の限界であるならば、われわれは、その学問の限界を踏み越えていかねばならないのではないでしょうか。
私はそのように思います。
---owari---
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます