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先見性と他人を大事にして栄達の道を歩んできた

2023年05月29日 | 歴史
③今回は「作家・童門冬二さん」によるシリーズで、豊臣秀吉についてお伝えします。
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秀吉が木下藤吉郎と名乗っていた頃、出世のいとぐちをつかんだのは、信長に命ぜられた仕事を常に百パーセント以上、百数十パーセント、時には二百パーセントも達成する好成績をあげたからであった。

薪(たきぎ)奉行となると、清洲城の暖房をそれまでの半量の薪でおこなう。塀のつくろい普請をすれば、前任者が要した工程の三分の一の期間にやり遂げる。
そのような業績は秀吉の機智によるものであるとして、さまざま語り伝えられているが、彼を支えていたのは部下の足軽、中間(ちゅうげん)たちであった。

当時、足軽の年間の手当は米一石八斗であったといわれる。自分の衣服、食料は与えられてもそれだけの俸給(ほうきゅう)で妻子は養えない。
彼らは兵士のような危険に満ちた職業をやめ、妻子とともに平和な生活をたのしみたいが、実現は不可能であった。

戦場へ出陣すれば、戦死、怪我の災厄がいつわが身にふりかかるか知れない。敵と自刃を交えれば生き残れる確率は五十パーセントである。怪我をして運よく負傷が癒(い)えても、体が不自由になれば乞食に転落しかねない運命が待ちうけている。
そのような境遇に身を置けば、どうしても刹那的な快楽に傾き、博打をさかんに打つ。
病気になり怪我をしても貯えがないので、死ぬまで医療をうけられない。

秀吉はこのような小者たちに薬を与え、医師を呼んでやった。彼は自分に金銭の余裕があれば、そうしないではいられなかったのである。
秀吉が小者のうちの一人を救ってやれば、その朋輩(ほうばい:仲間)がことごとく秀吉に心服し懐(なつ)いてくる。

他の奉行が指揮して作事普請をおこなわせると、彼らはできるだけ怠けようとする。要領よくはたらいていると見せかけ手を抜くので、仕事に余分な日数がかかる。

秀吉が指図をすると、足軽小者は惜しみなく力をついやし協力した。彼らは秀吉を味方、身内と見るようになったのである。

延暦寺焼き討ちの際、秀吉は自分の持場へ逃げてきた僧俗はできるだけ落ちのびさせた。延暦寺の宝物のうち後世にのこったのは、秀吉が見逃してやったものがおおかたであるといわれる。
秀吉は信長が山内の一字も残らず焼きつくし、僧俗をことごとく撫(な)で斬りにせよと厳命を下してはいるが、部下が無駄な殺生をせず、寛大な措置をとったことが判明しても、咎(とが)めだてはしないであろうと見抜いていた。焼き討ちでは、光秀のほうが秀吉よりもはるかに残酷な仕打ちをしている。

このように鋭敏な先見性と他人への思いやりによって栄達の道を歩んできた秀吉は、永禄四年(一五六一)織田家中間頭(ちゅうげんかしら)をしていた三十五歳のとき、十二歳年下のおねを妻とした。糟糠(そうこう)の妻(酒かすや米ぬかしか食べられなかったような貧しいころから、連れ添って苦労を共にしてきた妻のこと)のおねは利発で、秀吉が信長の信頼をかち得て昇進するための力強い協力者となった。

おねは子を産まなかったが秀吉が天正二年(一五七四)長浜十二万石の城主になったとき、城下の町政に関与するほどの才気をそなえていた。秀吉は大名家では表と奥の別をあきらかにし、表は政事軍事をつかさどる男の領分として女性の介入を許さないのがふつうであったのに、おねを政事にかかわらせた。

このような秀吉の方針が、豊臣政権確立ののちに北政所派と淀殿派の対立を招く結果となった。

(『歴史小説浪漫』作家・童門冬二より抜粋)

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