関ケ原の合戦は、
「徳川家康軍対石田三成軍の戦い」
ではない。正確にいえばあくまでも、
「豊臣軍対豊臣軍の合戦」
である。豊臣秀頼が、もしどちらかの味方をすれば、そっちに軍配が上がる。つまり、秀頼を擁したほうが官軍であり、これに背く者は賊軍になるからだ。
徳川家康とその同盟軍は上杉景勝討伐のため遠征し、下野(栃木県)小山まで進んだ。このとき家康の足を止め、上方へUターンさせるような事件が起こった。その事件というのが、山内一豊の妻千代が出した手紙であった。手紙というより上方における報告書だ。千代は夫の一豊宛てに二通の手紙を書いた。そして一通は夫宛て、もう一通は、
「あなたの手で徳川殿に差し出してください」
と書いてあった。
いままでにも、数々の合戦の陣中に、"手紙魔"である千代はしばしば手紙をよこした。しかし、それは単なる手紙ではなく必ず千代の見聞した諸情勢がこと細かに書かれていた。このときも同じだ。
●上方、特に大坂界隈における諸大名の動向
●石田三成様が兵をおあげになったこと。直ちに伏見城の攻略に移ったこと
●石田方では、徳川様と同行している大名たちのご家族を片端から大坂城内に拉致していること
●これを拒んだ細川忠興様の奥方様は、自決なされたこと。しかし、奥方様は敬虔なカトリック教信徒であるので、みずから生命を断つことができず、家老の小笠原という人に長刀で胸を突かせた。などということが細々と書かれてあった。
一豊は目を見張った。直ちに家康の陣に行き、
「妻がこのような手紙をよこしました。ぜひご覧ください」
と封を切っていないもう一通の書状を差し出した。バラリと開いた家康は読んだ。次第に、その眼が光りだした。しまいには手紙の前へ顔をほとんどくっつけんばかりに寄せた。読み終わった家康は大きく息をついた。
そして、宙を睨(にら)みやがて、
「山内殿、かたじけない。あなたはよいご妻女をお持ちだ」
と告げた。
そして側近に、
「直ちに軍議を開く」
と命じた。集まった諸大名の前で家康は一豊の妻千代の手紙を披露し、
「実に細部にわたり大坂の状況が眼に映るようだ」
と、その報告ぶりを褒めた。
---owari---
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